エッセイーー鷲田清一

 

「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 (ちくま学芸文庫)

「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 (ちくま学芸文庫)

 

 そもそも西欧のエクリチュールの歴史においてエッセイとはなんであったかという問題が、まずある。これについてわが国ではじめて本格的に論じたのは、大正の末年あたりに稿を起こしたといわれる英文学者、竹友藻風の「エッセイとエッセイスト」(『竹友藻風選集』第二巻所収)である。ここでは、英文学史という文脈のなかでだが、偶感から随想、随筆、小品から批評や詩論まで広い意味をもつ「エッセイ」というジャンルのアイデンティティをどのように確定すべきかが、多くの実例や研究文献を引きながら詳細に論じられている。
 他方、近年の研究としては、一九八七年に刊行されたイヴォンヌ・ベランジェの『モンテーニュ 精神のための祝祭』(高田勇による邦訳は、モンテーニュの没後四百年を一年過ぎて、一九九三年に刊行された)が、「エッセイ」という語の意味をその語源にさかのぼって検証している。ベランジェはモンテーニュの著作の表題『エセー』(Essais)は、卑俗ラテン語で「計量」を意味していたexagiumという語が起源になっていて、その意味ではessaisは、exercitation[実験]やexperience[経験]とほぼ同義であるとしている。「エセー」、それは試みであり、試練であって、毒味も小手調べも「エセー」なのだという。モンテーニュの同時代には、「エセー」に類似した書名として、「論争」(disputations)、「格言」(sentenses)、「金言」(motsdores)、「対談録」(entretiens)、「雑纂」(melanges)、「雑録」(variete)、「雑編」(diversite)などの語がしばしば用いられたというが、ベランジェはH・フリートリッヒのことばを引いて、この[試み]という語をモンテーニュは「彼の知的方法、彼の生活の様式、彼の自己実験を示すために好んでとっておいた」と書いている。

 

文楽の人形ーー和辻哲郎

 

文楽座の人形芝居

文楽座の人形芝居

 

 


 人形の肢体が紐であるということは、実は人形の肢体を形成するのが人形使いの働きだということなのである。即ちそれは<全然彫刻的な形成ではなくして人形使い的形成>なのである。この形成が<人形の衣装>によって現わされる。あの衣装は胴体を包む衣装ではなくして<ただ衣装のみ>なのであるが、それが人形使い的形成によって実に活き活きとした肢体となって活動する。女の人形には足はないが、たゞ着物の裾の動かし方一つで坐りもすれば歩きもする。この様に人形使いは、たゞ着物だけで、優艶な肉体でも剛強な肉体でも現わし得るのである。こゝまでくると我々は『人形』という概念をすっかり変えなくてはならなくなる。こゝに作り出された『人の形』はただ人形使いの<運動に於てのみ形成される形>なのであって、静止し凝固した形象なのではない。従って彫刻とは最も縁遠いものである。

 

一二の例を挙げれば、人形使いが人形の構造そのものによって最も強く把握しているのは、<首の動作>である。特に首を<左右に動かす動作>である。これは人形使いの左手の手首によって最も繊細に実現せられる。それによって俯向いた顔も仰向いた顔も霊妙な変化を受けることが出来る。ところでこの種の運動は『能』の動作に於て最も厳密に<切り捨てられた>ものであった。と共に歌舞伎芝居がその様式の一つの特徴として取り入れたものであった。歌舞伎芝居に於て特に顕著に首を動かす一二の型を頭に浮かべつゝ、それが自然な人間の動作のどこに起源を持つかを考えてみるがよい。そこに自ずから人形の首の運動が演技様式発展の<媒介者として>存することを見出し得るであろう。
 或いはまた人形の<肩の動作>である。これも亦首の動作に連関して人形の構造そのものの中に重大な地位を占めている。人形使いは例えば右肩を僅かに下げる運動によって肢体全体に女らしい柔軟さを与えることが出来る。逆に云えば肢体全体の動きが肩に集中しているのである。ところでこのように肩の動きによって表情するということも『能』の動作が全然切り捨て去ったところである。と共に歌舞伎芝居が誇大化しつゝ一つの様式に作り上げたものである。こゝでも我々は人間の自然的な肩の動作が、<人形の動作の媒介によって>歌舞伎の型にまで様式化せられて行ったことを見出し得るであろう。

 

鸚鵡石

 

言語遊戯の系譜

言語遊戯の系譜

  • 作者:綿谷 雪
  • 出版社/メーカー: 青蛙房
  • 発売日: 2015/04/01
  • メディア: 単行本
 

   さあ鸚鵡石社僧正云え(俳諧ケイ、二十一)
 の句は、伊勢の鸚鵡石に難題を出して、わざと云いにくい社僧正の語をいわせる、という意。鸚鵡石は呼石とか物云い石ともいい、人がことばをかけると云い返すという伝説があり、諸国に俚伝がのこっている。もっとも有名なのは伊勢の(実は志摩の磯部村の内であるが)参宮道の逢坂山麓の近くにあるもので、これは聞石と掛石と二つあり、たがいに音響を反射する。ほかにも三河渥美半島福江町に近い山田の鸚鵡石が人に知られている。

 

牛蒡と女性器

 

言語遊戯の系譜

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  • 作者:綿谷 雪
  • 出版社/メーカー: 青蛙房
  • 発売日: 2015/04/01
  • メディア: 単行本
 

   歯が抜けたそうでおかしい牛蒡売り(柳多留、三三)
 牛蒡という語は、gの音がひびきにくいから、早口にいうときにはbo-boと成り易い。つまり卑穢語であって、これは匿された近似音の舌もじりの要素に適っている。

 

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 9

 対象の欠如、ましてや対象の探求は、ある意味において、その対象の知識を含む。もしそれをいつ所持し、いつ獲得していないのかを語ることができないとすると、彼は決してそれを追い求めることはないだろう。追求において、またそれによって、正反対の想定に与するなら、想定はある程度、またある意味において、そこにある所持に依存しなければならない。当然、私は出発点において哲学者はあらかじめ命題を提示しなければならないといっているわけではない。(1)彼の行動は何らかの想定がない限り、意味がないし、もし尋ねられら、命題を得たときに、それを判断できるかどうか、それが実在の観念的な所持をもたらすのかどうか語れるものと想定される。我々は思い起こすことができるが、否定は肯定的な地盤を想定し、常にそれに依存しなければならない。(2)

 

(1)第十一章参照。
(2)心理学では、拒否は心的な肯定的地盤から出発し、それを前提にする必要はないと答えられるかもしれない。ここで全体的な問題を論じることはないが、我々が上で存在すると想定した反省の段階においては、この反論は維持されないだろう。この段階で私が真理ではないと拒否するとき、それがなにかとはっきり言うことはできないが、私は肯定的ななにかを主張している。想定された観念は最初はおそらく不快なものかもしれないが、単純に消え去ることはない。反対に、観念は廃棄され、その廃棄において、瞬間的なものだろうが、肯定的な主張を得たことを感じる。この過程についての私の自然な表現は、単に「それは消え去った」でも、「私はそれをもうもたないだろう」ではない。ここでの自然な表現は「私はよりよく知っている」といったものとなるだろう。

 

 それゆえ、合理的な哲学の唯一の懐疑論は、その真理を否定に限定し、実際に到達したものに限定することであるに違いない。(1)他方において、通常哲学的懐疑主義といわれているのは、無批判的で自滅的なドグマティスムである。というのも、それは可能な知識において知り、判断しようとするが、実際には否定し、反駁するものを求めて知識を想定するのである。このやり方は、原則としてずっと以前に論駁されているものを扱うので、あまりに容易でもっともらしいので、時代遅れなものとなっている。しかし、哲学的な懐疑論を語るとき、我々は常にそれは哲学に対する単なる懐疑論と異なったものであることを覚えていなければならない。それは自らに向けられ、人間的なものに訴えるが、哲学者がその特殊な追求に与している限り、無関係な言葉である。

 

(1)この点については第五章参照。


 もう一つの観点、哲学がもつ少なくともひとつの利点を述べることでこの章を終えることにしよう。我々はすべて、ある限界内のなかを除けば、疑いが悪であることを認めるだろう。疑いに対する治療薬は、その除外にあることを我々は知っている。我々の生活では、疑いは捨て去られ、支配されるが、それは必要な方法ではあるが、原則的に不満足なものである。疑いそのものとその根は攻撃されないままに残り、我々の根拠は侵略され、何ものかがはびこることになる。確かに、この対抗的占拠は、最終的には栄養失調で疑いを破壊するかもしれない。他方において、一時的に枯れ果てるが、根を破壊されていない疑いは以前と同じようにあらわれることもあり得る。しかし、哲学においては、哲学が成功する限り、事情は異なった風になる。疑いはここでは覆い包まれ排除されることはないが、同化され、使用される。(1)疑いを超えた生命過程の一要素となり、それゆえ、それ自体の発展は、そのもともとの生活を失うことになる。たとえ哲学が部分的に失敗し、実際に失敗するかもしれないが、疑いに対する何らかの治療薬を供給することになると思われる。徹底的に行おうとする懐疑主義は、それを広げることによって、より一般的なものにする弱める傾向がある。疑いが、もし真に知的で、意志の病でないならば、対照をなすものを失うことによって力を失い、恐怖を失うだろう。広範囲に広げることによって、特殊に働く力が微弱に弱まり、働かなくなる。しかし、読者は私があまりにも長い間予備的な考察にかかずらっていると感じていることだろう。

 

(1)完全に平行しているわけではないが、ここでの相違は、病的な固定観念に外側から戦うのと、催眠的な暗示によって内的に変容させて取り去ることの相違を思い起こさせるかもしれない。

 

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 8

 確かにその本性から、哲学はもっとも高次のものと交渉し、それ自体が間違っているのでなければ、その固有の性格にそれらのことを認めねばならない。そうした親密さが精神に何らかの影響を与えるのは間違いない。しかし、どんな場合に、その力がどれだけあるかを予測することは困難であり、その性質や方向性を予測することも容易ではない。親近感は、どんなところでも、ある条件のもとでは、軽侮に導かれうる。そして、真性の哲学が、非道徳的あるいは非宗教的な精神で実践されるかもしれないことは、否定することができない。同じことは、身体あるいは精神の側面から人間性を研究する芸術やあらゆる研究にも真であろう。小説家、詩人、画家、あるいは人類学者などの例をとれば、それらのうちのあるものが非道徳的な発想に頼りがちなのはよく知られている。ここでいう必要があることは、一方においてあらゆる研究は自ら限界を定め、他方において、あらゆる研究は同じ原則によって、真率でひたむきでなければならない。いかなる探求も規範となる名誉、あるいは異質な目的や結果に対する愛情へと道を踏み外すことを正当化できない。かくして、哲学者の非道徳的な精神は、もしそれを監視していないならば、多かれ少なかれその哲学を傷つけることになるのは確かだと私は思う。しかし、他方からすれば、同じことは良心や宗教的感覚に普通ではない贈り物をもつことになる。そうした贈り物が支配され、制限されないなら、多かれ少なかれ、哲学や芸術作品を傷つけ、あるいは破壊することに鳴るかもしれない。


 私が言おうとしてことは簡単に言うと、次のようになる。他のものと同じく哲学はそれ自体の仕事を持っており、これも他の仕事と同じく、自らの仕事をしなければならないし、そのやり方が許されねばならない。その限度内でなければ優先権を主張できないし、その範囲内でなければ命令を受けることもできないし、受けてもならない。あらゆるものが主張をもち、考慮される権利を持っているという意味で、哲学にとってあらゆるものが考慮の対象である。しかし、どのように考慮するかというのは哲学だけの問題であり、ここでは、外側からの考察はなんら聞きうるものではない。


 このことから、もう一つ予備的なことを付け加えておこう。哲学は公平にいって信仰と呼びうるものを要求し、最終的にはそれに依存している。ある意味、それを証明するためには結論を仮定することになるといえるだろう。この一般的な真理を細部に至るまで実行するには、一般的な何ものかが真であることを暗黙のうちに仮定することになる。さらに、その結論は細部に至るまで実際に、完全に実行されることはないし、決してあり得ない。かくして、哲学は目標にまで届かないが、にもかかわらずなんとかしてそこに到達する。そして、哲学が最終的にどのようにこの目標に達するのか見ることに失敗し、理解できないことを認めるなら、哲学の目標は哲学の外部に、ある意味では信仰にのみ実現することになる。このことの意味や正当性はここではこれ以上論じず、同じ真理のより明白な側面を示すことで満足しよう。すでに見たように、哲学は探求であり、最終的には真であるものの探求である。そして、この追求の外部にいる限り、最終的に自らに対立するその存在を正当化することはできないことが見て取れた。少なくともある程度彼は探求からは退き、少なくともある程度は、その決定は彼自身の選択や気まぐれとともにあることになる。結局のところ、実際どれほど外部にあり続けることができるのかについては論じるつもりはなく、というのも、この点については自己欺瞞が容易で通例なのは明らかだからである。私は追求しなければならない教義を仮定的な形で述べることで満足しよう。人は真理への追究に入るかもしれないし、その追究を慎むかもしれない。しかし、彼がそこに入ったなら、入った限りにおいて、彼は不可避的に暗黙の想定に従っている。

ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 7

 芸術や哲学に対して、自らの限界を認めることは、道徳にとっては難しいことであり、宗教にとっては余計に困難である。*ここではこれ以上この問題に立ち入ることなく、哲学の領域に侵入することは、健全な道徳や宗教の関心とは反するという意見だけは表明しておこう。そうした侵入は我々の本性に破滅的な葛藤をもたらす。美や真の独立した探求は、それ自体十分な正当化を感じられる。もしそれが義務や善と衝突が余儀なくされるなら、善や義務の反乱や拒絶があり得るかもしれない。我々は、道徳や宗教があまりに不完全で、内的な欠陥によって虚弱化しているので、そうした戦いが引き起こされたとしても、影響を及ぼされないだろう。

 

*この点については第十五章でさらに議論する。

 

 哲学は知的満足、別の言葉で言えば、究極的な真理を求める。それは実在を所持することを求めるが、観念的な形でのみである。それゆえ、それは我々の存在の一側面でしかない。さて、我々の多様な本性の側面のなかで、あるものを至上のものと見なさず、その制限内にあるそれぞれが相対的に至上なものだとする。それゆえ、道徳や宗教からの結果や結論を、認められたものとして、哲学によって受け取られ、受容されることになる。哲学の結果は物質的なものではあり得ない。それはあらゆる種類の事実を認めるが、それ自体の最終的な真理に関して判断を下す。確かに、哲学が道徳や宗教に矛盾したら、それらは譲歩することを拒む正当な根拠をもっている。そうした場合、それらの場合、戦いになるが、双方ともに正当性をもっている。しかし、私自身は、真の哲学は健全な道徳や宗教と戦いを起こすとは考えていない。私の意見では、真の哲学は行為に必要とされる公準と矛盾しないことは確かである。違った風に理解することもあるかもしれないが――私はそれについて疑問をもっているわけではないが――違ったふうに理解することが必然的にそれを否定することになるとは認めることはできない。人は同意していない見解に基づいて行動することもあるし、真に矛盾しているわけでもなく、行動において乖離してしまうわけでもない。多くのことが明らかになったように思える。しかし、他方において、真の哲学は行為の公準を保証し、正当化してくれるかどうかとはまったく別の問題である。私がここで主張したいのは、異なった理解、正当化の失敗が真の矛盾をもたらすわけではないということである。もしある人間がその哲学の部分でもって、宗教的信念が間違っていると確信しているなら、少なくとも、形式的にいって、宗教が哲学に悪い影響を及ぼすと答えることは許される。しかし、なんらそうした保証も、おそらくは逆の保証もないときに、哲学が彼の道徳や宗教的信念と矛盾すると主張する場合は立場が異なる。ここでは間違いなく彼が正しいかもしれないが、もし彼が正しいなら、それは彼自身が、その限りにおいて、よりよく哲学者であるためである。いずれにしろ、彼は問題を実践から理論の領域に移しており、理論が攻撃に耐えることができない限界はそのままにしている。端的に、二つの問題があり、共通のものであるが、もっとも混同される危険があるものである。第一の質問は作業における信念として教義の意味を問い、第二の質問は、その教義の究極的な意味と理論的な保証を尋ねる。第二の問題は一般に宇宙における立場の問題を尋ねるが、第一の問題は、単に私の心情と良心がどうなっているかを尋ねるだけである。


 哲学において、我々は絶対的な満足を求めるべきではない。哲学はせいぜい対象の理解であり、対象が全体として含まれ、所有されるような経験ではない。別の言葉で言えば、我々の本性のある側面についての修練であり享受である。哲学がしばしば宗教化されていることを忘れているわけではない。ときに必要不可欠なものとなり、我々の生の目的とも規則ともなり、世界中に崇拝者が生まれることもある。しかし、同様のことは、芸術でも、おそらくは他の研究でも正しいことを思い起こさねばならない。哲学をもたないものが、実践的な信念も持たないままであれば、それは不幸な世界に違いない。そして、哲学がそうした重荷を背負わされれば、永久にその主要な目的を失うことになろう。*1真の哲学は自らの神格化を正当化することはできない。逆から言えば、形而上学者は自らの運命を嘆くだろう。自分の研究が自らを責め、非実在的な群れのなかで、生から追放されて生きることに不満を漏らすだろう。考えるより存在することで、三度は祝福を受けることができよう。*2しかし、そうした雰囲気では、人間は哲学からは脱落してしまう。真の哲学はそれ自体も含めて、人間の本性のあらゆる側面を受け入れ、正当化しなければならない。他のものと同様、それにも相応の場所があり、偏在も居場所がないことも至上のことではない。思考体系の支配者は、どれだけ遠く我々がそれを見積もったとしても、哲学はそれを受け入れてはくれるが決してつくりだすことはできないある秩序の下部に過ぎない。

 

*1この問題を拡大することは容易であろう。人間が哲学を宗教に変える一つの結果を示すこともできるだろう。この場合、敵対する哲学の相違した意見が、多かれ少なかれ、葛藤する信条の実践的な敵対関係となるだろう。そして、哲学の関心においては、こうした状況は望まれるべきものではない。
*2二十年以上も前に、ふとした雰囲気をとどめておきたくなって、当時のノートの一節を書きとどめていたことがこのことの例となるかもしれない。「血の失せた影はどこにおいても語ることはなく、形而上学の霊は代わりを受け付けない。彼らはその生命を飲み尽くす犠牲者にのみ姿をあらわし、影とともに話し、自分自身が影となるに違いない。」