ケネス・バーク『恒久性と変化』28(翻訳)

ニーチェにおける敬虔と不敬虔の葛藤

 

 ニーチェはこの運動に全身をさらしたという意味で特に意味深い存在である。彼の主題は、特に再定位にあった(あらゆる価値の再評価)――だが、不確定な新たなものに直面することで、詩人としての彼はすぐさま、そうした問題は疑問に付されていない古くからのものを有効活用することによってのみ称揚することができると感じた。エッセイストは、ある原因を英雄的と名づけることで満足しうる。詩人はそれを既に確立している英雄的なものと同一視することによってのみ、英雄的なものとなし得る。ニーチェの最も忠実な弟子であるトーマス・マンアンドレ・ジイドは、同じようにこの問題に直面し、芸術における不確定なものを称揚したが、不確定なものを完全に確立することは、称揚を不可能にするだろう。全体的に言って、彼らはすべて同じ技巧を用いている。緊張状態そのものを強調し、それを維持する際の危険と苦痛を描き、最後に人間に備わった基本的な戦闘性に訴える(この基本的な生物学的精神病質がたどる径路となるシンボルの選択については大いに異なっているが)。


 ニーチェを読む者は、そのページを特徴づける決然とした命名行為に打たれるに違いない。ニーチェの後期のスタイルは、ダーツ競技のようである。実際、私は当初、彼の戦いの姿勢、狩りをする姿勢が行動になってあらわれたのだと自ら納得しようとした。彼の文章はゲームや敵の只中にいる人間のように、常に特定のあれこれに打ちかかっている。常に飛躍があり、命名の鋭さがあり、ゆっくりと歩き回っている動物が突然獲物に飛びかかるときのような跳躍が感じられる。そこには真実の要素があると私は信じる――というのも、確かに、ニーチェの著作は思考の戦場であるからである。そして、同じように不健康なまでに落ち着きがないが、彼ほどの粘り強さも明敏さもない者は、その部屋を自分の落ち着かない状態の複製とし、裂けたベッドや壊れた家具にそれを外在化するだろうが、彼は荒れ狂う脳を我々の前に取り出し、精力的に著作を組み立てていくのである。彼の精神は歯止めのないバネのようなものだろう。何十年にもわたって驚くほど働いているが、激しい運動になんら損なわれてはいない。


 しかし、彼の精神的神経的な構造の状態がどれだけ彼の文章のダーツのような性質に与っているにしろ、同じくらい重要な源泉がその「遠近法」という言葉にあらわれている。我々が『権力への意志』で学ぶところでは、ニーチェは遠近法の確立に興味を抱いていた。それらを繰り返し我々に与えることは彼の計画の一部をなしていた。彼がそれによってなにを意図していたか分析することで、私は彼の遠近法に対する偏愛とダーツ風のスタイルとを関連づける理由に行き当たった。その途次に「不調和による遠近法」という言葉に行きあたったのだが、次にそれについて明確にしてみよう。