ケネス・バーク『恒久性と変化』29(翻訳)

第三章 隠喩としての遠近法

 

不調和による遠近法の例

 

 ニーチェ流の方法は、度を超えてそれを具体化した弟子の作品、ニーチェデカダンス永劫回帰の理論に基づいて明快な歴史の形態学を打ち立てたオズワルト・シュペングラーに最もよくあらわれているだろう。この図式に従ってシュペングラーは特徴的な同時性という概念を提示したが、それは歴史の同じ時間に共に存在していることではなく、異なった文化の対応する段階に存在することである。


 即ち、古典文化の紀元前六世紀から五世紀のソクラテス以前は、西洋文化ガリレオ、ベーコン、デカルトと同時的であろう。ソクラテスはフランスの百科全書派と、ヘレニズムはショーペンハウアーニーチェと「同時的」である、等々。異なった文化サイクルに対応する時期を確定するこの方法によって、彼は一般的には完全に孤立していると考えられている諸運動を一つにまとめ上げるための装置を手に入れた。


 例えば、衰退していく文化の「最終的世界情緒の拡がり」は、インドの仏教、古典期における200年以後のヘレニズム-ローマ的なストイシズム、1000年以降のイスラムにおける実践的な運命論(アラビア)、1900年以後の倫理的社会主義(西洋)にあらわれている。


 こうした装置を使えば、通常用いられ適用される文脈とは異なった風に言葉の使い方を拡張し、例えば、アラビアのピューリタニスムについて語ることもすぐ可能になる。ワグナーにおけるペルガムム派の性質、フェイディアスのモーツアルト的要素、ゴシックで生じた計算法について論議できる。


 これらは歴史的な遠近法であり、シュペングラーはある状況において通常適用される言葉を異なった状況に移す。これは「不調和による遠近法」であり、新たな結びつきを確立することで、以前の結びつきにあった言葉の「妥当性」を侵犯する。シュペングラーによって用いられたこの技法は、より無遠慮ではあるものの、ニーチェによってなされていることとまさしく同じである――そして、それが彼の文章にあるダーツのような性格を説明するだろう。ニーチェはそれまでは異なった名前の秩序にあった形容語句を別の名前に結びつけ、不調和な言葉を常に並べることによってその遠近法を確立する。彼は、シェイクスピアの隠喩の使い方に見られるのと同じく、常にカテゴリーの再秩序化によって書いている。


 実際、隠喩は常に、夢の展開に認められるような予期しないつながりをあらわにする。我々の日常的な合理的言葉が無視する対象間の関係を具体化することで我々の心に訴える。例えば、我々が最終的にはライオンを猫の仲間に入れることに順応するにしても、詩人は「大きな犬であるライオン」について語ることで、我々を啓発し刺激を与える――或は、我々が完全に猿としての人間という考えに慣れてしまっていれば、人間を「猿の神」と呼ぶことで突然のひらめき、或は遠近法を得ることができよう。


 この過程は、シュペングラーやニーチェのような予言者的思想家に限定されると考えるべきではない。T・S・エリオット氏が、最近アメリカを訪問し、記者に対して、アメリカの大学には以前より「退廃的なスポーツ熱」が少なくなったようだと語ったとき、不調和による遠近法の完璧な例を提示している。平均的なアメリカ人の信じるところによれば、これは明らかに不調和な組み合わせである。我々の大学のスポーツ熱というのは、まさしく頽廃を予防するために支持されている。大学の同窓生たちは、自分たちが健全だと感じるために、主要なフットボールの試合に再び集い合う。みんなそろって活発に応援する。身代わりを買って出るかのように同じように筋肉を動かす。熱狂して競争的精神病質に従う。ここではその長所について論じることもない。ただこうした要素のすべてがエリオット氏の心にあり、不調和による遠近法によって、逆の言葉を一緒にすることで思いがけない道徳的再評価や遠近法が得られることを認めれば十分である。ヴェブレンの「訓練による無能力」も同じような仕組みである。訓練に伴う我々の概念は、普通は無能力ではなく能力である。


 こうした移行のひらめきは、古い言葉のつながりに従うことを馬鹿にする洗練された作家のなかに認められる。特に、世紀末のワイルド一派は、平凡な受け答えを取り上げては冷やかした。それは不敬虔なやり方であり――国家的に信じられていることを馬鹿にしても「ろくなことにはならない」。しかしながら、彼らは問題の表面を軽くこすっているだけであり、彼らが馬鹿にした結びつきは、そのオウムのような繰り返しが指摘されれば、不適切で空虚であることが誰にでもわかることに限られていた。それはともかく、前世紀においてこうした転覆の試みに関わり、我々の道徳的判断のすべての語彙に関して、この上ない不調和をもたらした最も深遠なものとは、ダーウィンによる類人猿の一種としての人間の位置づけである。ニーチェは、あらゆる結合は計画的な不調和による遠近法によって破壊されることを知っていた。生涯を通じて彼は、「間違った」道徳的傾向をもつ修飾語を並べて注意深く名詞を性質づけることによって「切り崩し」を行なった。ユーモリスト、諷刺家、グロテスクの作家もみな体系化の程度こそ異なるが、こうした意図的な不適合によって我々に新たな洞察を与える。虚構や詩の個人主義というのは、常に出来事を特徴づけ分類する新たな方法を探求する科学の個人主義と比較してのどかなものだった。ワイルド一派によって提示された愉快な道徳的遠近法は、数十年後、不調和な遠近法を宇宙の構造に当てはめることによって我々の古くからの定位のカテゴリーを踏みにじったエディントンのパラドックスに対応するものを見いだした。エディントンの遠近法は、宇宙論的なワイルドの精神で書かれている。