ケネス・バーク『恒久性と変化』37(翻訳)

不調和の不調和な類別

 

 新たな意味や発見の問題は個々人の傾向と混同される。多くの人間が古い定位の図式を単に壊してきたようだが、実際には、その明確さの度合いは様々だが、代わりに提示した新たな図式に従って壊していると言えるだろう。いま流行しているナンセンス・ユーモアでは、告発の原理となるものが価値の複雑化、混乱、不正に対する一般的な嫌悪感とが区別しがたく、この種の嫌悪感はユーモリストがある種の人工的な盲点として導き入れており、新たな観点は全く欠けたままという場合もある――その結果、体系的な方法によって達成された不調和よりも豊かな遠近法になることも間々ある。


 実際、素朴と洗練を同時に訴える現代美術に最も近いのは、恐らくこの野心的で創造的なナンセンスであろう。この熟練した組織的なよろめきは、我々すべてに共通する精神病質に反応していると説明できるかもしれない。我々はみな、生産性の「過剰」が国家的国際的脅威となる、基本的経済異常から生じた現在の「秩序」の容易ならざる矛盾に必然的に巻き込まれている――我々がそうした異常な状態から生じる様々な方向性に同意しないとしても、正当性という手本は、離れたところにある存在としてこうした無秩序に対応せざるを得ず、無秩序が我々の判断、趣味、価値、予期を測るものとなる。


 しかしながら、ユーモアを越えた計画された不調和の段階も存在する。グロテスクがそれで、不一致の知覚が微笑みや笑いなしに開拓される。グロテスクの魅力に潜むメカニズムと比較すると、最も破壊的なナンセンスでさえ、物事をありのままに是認しているように思える。ユーモアは既にある判断のカテゴリーに対して、それを踏みにじっているときでさえ敬意をあらわしている。ドグマティックな宗教での冒涜のように、反抗という行為そのものにおいてもう一度古い神々の存在を再肯定している。ユーモアが最も破壊力を持つのは、我々の判断機械のなかに留め具を投げ込むだけで、好みの判断をまったく手つかずのまま残し、そればかりかそれを故意に強化することにある。価値には価値を、気質には気質を、精神病質的強調には精神病質的強調を戦わせ――確立すると同時に破壊することで我々を喜ばせる。


 グロテスクはずっと複雑であり、次第に神秘主義に非常に良く似たものとなっていく。ユーモアは保守的な傾向があるが、グロテスクは革命的傾向をもつ。アリストファネスはユーモリストであり、伝統的な正当性の検証に従いながら、新たなやり方で人を非難した。アリストファネスは敬虔だが、ソクラテスはグロテスクと不敬虔の方に傾いている。


 中世期のガーゴイルは計画された不調和の典型的例であった。鳥の体に人間の頭を乗せたガーゴイルの作り手は、本質に関する論理から判断すると完全に合理的な組み合わせを提示していた。ある分類の秩序に違反することで、別の秩序を強調していた。こうした光のもと考えると、シュペングラーの歴史の形態学は現代におけるガーゴイル、超現実的壁画、巨大なグロテスクで、作者はしらふで古代アテネの通りを歩くカントや、ニューヨークのナイトクラブにいるペトロニウスを描くことができる。


 このように考えると、マルクスの示した階級意識にもガーゴイルの要素があらわれている。階級意識は再階級化する-意識であるゆえに、社会的治療である。それは、忠誠のような深く倫理的なものを再編成する新たな遠近法である。この再解釈によって、同じ人種や国民の一員として形式上自分たちの仲間だと思っていたものが敵になり、違った人種や国民として形式上敵だと思っていた者たちが仲間になる。かくして、新たな分類法は、どんな行動を取るべきかについての新たな諸観念の組み合わせを言外に含み、そうした諸観念は、どんな手段選択が適切かを決定する新たな評価基準を言外に含む。


 目立ってガーゴイル的な性質をもつある種の世俗的神秘主義には、今日の超現実主義絵画があり、こぼれ落ちるシロップのようにテーブルの上に拡がる時計を描きだすが、それは時計は堅いものだという我々の日常の経験を傷つけるだけでなく、液体のように拡がる時計によって時間の異なったシンボリズムをかいま見させてくれる。無法な時計は決しておかしなものではない――また、『魔の山』の「ユーモラスな」死の床の場面もおかしくはない。その不調和は恐ろしくさえある。


 不調和による遠近法という考えは、明らかに我々の夢のグロテスクさと関係がある。夢(そして夢による芸術)は、我々の日常的で功利的な合理性ではなく、「より深い」論理と出来事を結びつけようとする。夢と夢による芸術のシンボリズムは、常識的には別々のものを一緒にし、常識的には一緒のものを別々にすることで、我々の目覚めているときの経験からガーゴイルをつくりあげる。


 言語の意味元素を爆発によってばらばらにし、廃墟のなかから総合的に新たな意味をつくりだそうとしたジョイスは、現代の言語的ガーゴイルの最も顕著な例を生みだした。彼は最も覚醒したときに、最も弛緩した夢の状態に移るという危険な離れ業を完成した。最近の彼の造語では、一人の人間の作品のなかで、何世紀にも渡る言葉の運命が辿られ、厳格な教育の結果、徐々に実際的な有用性をもつようになった言語と「無意識の」有用性をもつ言語とが密接に関連し合い、現在の緊張感のある二元性が和らげられるのが自然な要求であるかのようになっている。


 訓練による無能力という概念は、視野の無秩序はその人物が達成したことの裏面なのではないかと疑わせるにいたった。自分の部族の最も尊ぶべき掟を踏みにじり、自ら盲目となったオイディプスジョイスと顕著な類似性があり、というのも、ジョイスは若いときは非常に信心深いカトリック教徒であり、成人してからの作品は、カトリックの枠組みから判断すると、巨大なる異端の金字塔だからである。現代医学が認める我々の姿勢と身体的な無力さの対応関係は、ジョイスの不幸、そしてまた達成を、彼の例外的で私的な感受性(『若者としての芸術家の肖像』にあらわれているように)が完全にあらわになったことと、それら子供時代の意味を異端者としてばらばらに分解する非常に高い技術と関連づけることの正当性を感じさせる。幼児期の敬虔さと後になって得た遠近法による再分類化は、かくも徹底的に事を成し遂げずにはすまない人間にあっては、精神的な崩壊とともにそれに対応する身体的な崩壊を伴ったかもしれない。(1)

 

(1)こうした考え方に従えば、特定の遠近法に対する崇拝が極端にまで進み、コミュニケーションや社会化の可能性を遙かに陵駕することで、非合理的な感情的葛藤の原因となりうることもある。例えば、ある人間が非常に不愉快な経験をしたとすると、たまたまその経験と結びついていたそれ自体は中立な周辺の事実は同じ不愉快な性質をもつ傾向にある。子供のころいぼのある人物から虐待を受けた者は、いぼをもつ人間といると居心地の悪さを感じるかもしれない――或は、かつて非常に不幸な経験をした街を見ることでさえ、不幸の感情を呼び起こすことになるかもしれない。


 さて、ある定位がそっくりそのまま心のなかで苦痛な経験と結びつくほど徹底していれば、その経験を抹消しようとするときには、それに結びついた定位を消し去ろうとするかもしれない。かくして、社会的目的に適切に資する合理的な定位であっても、常に個人的な不幸の可能性を示すために信用されないこともありうる――そして、もし不幸な人間が自分の不幸と定位を完全に結びつけるなら、定位が不愉快な経験の不愉快な性質をもつこともあろう。苦痛は、適切な供物を献げるべき懸案の場たる祭壇をももたらすので、雄弁の大きな誘因である――そして、雄弁は、訴えかけの戦略であり、他人を我々に同意させるための社会的な道具である。この意味において、個人的な苦痛は極端な福音主義へと向かう可能性があり、苦痛を受けてる者は、自分に苦痛をもたらす定位を否定するよう他者を説得することによって、自分の立場を社会化しようとする。


 古典的な時代、社会の斉一性が明白であった時代には、個人的芸術家や思想家のこうしたアナーキスティックな傾向は社会体制の抵抗によって矯正された。自分の立場を社会化しようと試みるまさしくその行為で自分自身が矯正され、その発言を修正することを余儀なくされた。しかし、ある定位が非常に弱まっているようなときには(特に、最も目立ち突出した表現が競争のように要求されるような状況では)、そうした規範の影響が欠けている。

 

 また、抽象の技術によって計画的な不調和を追求する半ば芸術、半ば科学であるものとしてカリカチュアが考えられよう。カリカチュアでは、対象のある側面が意図的に除外され、他の側面が過度に強調される(caricareは「荷を積み過ぎる」ことである)カリカチュアは殆ど概念で語れる。ゲオルググロスの初期のヌードの多くは、単純な語彙の選択だった。口にはマグカップ、頭に豆、手には鉤、臀部には缶。カリカチュアは通常、明確な関心に基づいて再分類化する。


 多くの面でシュールレアリスム運動を生みだしたと言えるダダイズムは、いい趣味に対する組織的な憎しみをあらわにし、適切なものを嘲り、真っ正面から計画的不調和へ向かう運動に進んだ。しかし、ダダイズムは貧弱な合理化に苦しんだ。伝統的な知識を十分に備え、特に批評に関心のあった非常に野心的で、真面目でもあった作家たちが、自分たちの運動を単なるわがまま、無責任、拒絶に止め、批判的な背景をあまりに貧弱なままに留めてしまった。古いもったいぶった考え方に対する攻撃が、当然自分たちの理論にも適用されるから、この弱さは避けられないものだった。しかし、こうした意地悪な運動には常に突然の修正があり得た。その場合、子供っぽいことは止めて、もっと真面目な問題に取りかかろうと決意するのも避けられないことだったろう――それは最初の分裂、最初の流出であり、参加者の何人かは後にコミュニストとなり、何人かはシュールレアリストとなった。どちらの枝分かれも新たな意味に関わっているので、ダダイズム固有の体系的な不調和が(その「否!否!」という叫びと共に)どちらの方向にとっても必要な一段階であったと容易に評価できる。


 ちなみに、ダダイストボードレールの文化的末裔であり、我々はボードレールの詩に換喩と「体系的な濫喩」が圧倒的に多いことを指摘したジャン・ロイエール氏による『ボードレールのエロトロジー』を思い起こすこともできよう。彼は、ボードレールの「非論理的な文彩、濫喩(或は複合的隠喩)の体系的な使用は、隠喩と誇張とが一つになったものだ」と論じている。ロイエールが特にその技巧が効果的に使われているするのは「美しい船」で、ボードレールは女性を海に向かうボートにたとえている。批評家はこの結末を「遠近法」という語を使って特徴づけている。


 勿論、様々な遠近法を考える際に、我々は必要と機会とを交換可能なものとして扱っている。価値が砕けさり争い合うと、確かに芸術家には新たな荷が負わされる――しかし、他方において、安定した構造においては強情な個人としてのみ可能であり、集団には高く評価されないような種類の芸術が容易にもなる。語彙の(そしてその背後にある社会的織物の)混乱において、作家は古い効果を失うだけでなく、新たな効果を獲得する。グロテスクの発明は、グロテスクが最も容易に想像されるようなとき、或は古典的なものが最も想像しにくいようなとき(どちらを取るかはお好みである)に繁栄する。人が所与の語彙の構造を越えたところにある遠近法を見るのは、その構造がもはや堅固たるものではないときである。


 歴史的条件だけではそうした状況をすべて説明することはできない。歴史のいかなる時期であっても、個人にはその状況を集団とは強く異ならせるような要因が集まりうる。個人的生涯の大きな流動性は、一般的には古典的な時代においてさえ「非古典的に」見ることを可能にする。同様に今日においても、我々の殆どにはあり得ぬ安定を保持する隔絶された条件を享受している者もいる。歴史的流れという喩えは、それを数十年ではなく千年単位で判断しようとしないなら、あまり文字通りに取ることはできない。


 更に、詩人や思想家の生息する定位の周辺を探る秘法めいた試みが常に存在する。例えば、まさしく古典劇の時代に、劇的イロニーの技巧は最高潮に達した。劇的イロニーの場合、我々は劇中の人物が自分の状況を解釈するのと、観客が解釈する二つの対立する意味が同時に働くのを見る。しかし、古典劇の場合(それは定位の図式が比較的堅固であるときに最も栄える)、観客の知識に関してはなんら問題となるものはない。登場人物が間違っており、観客が正しい。登場人物は自分たちが知っていると思っており、観客は自分たちが知っていることを知っている。登場人物は自分たちの動機に当惑するかもしれないが、観客にはすべて明瞭である。


 新たな定位によるバベルの塔は、前世紀を通じてどんどん高くそびえ立っており、現在に至るまでなんらかの新たな宇宙像が提示されなかった年などほとんどない。こうした解釈の図式は、その有効範囲と徹底さは様々であるが、時代と発見を求める精神によってのみ限定されるだろう――その例は任意に選ぶことが可能である。こうした重なり合い、争い合い、補助し合う解釈の枠組みから、全体としてなにが生じるのだろうか。これらすべてが向かっているのは解釈する姿勢そのものの増強である。


 我々に関わる出来事の新たな分類や特徴づけについての莫大な記録は、新たな事例史に最も役立ち、一般的な分類と特徴づけのより詳細な研究の材料として用いられる。我々がこの解釈の混乱そのものを確実性に対する懐疑的姿勢の根拠とすることができないなら、無数の定位が悲劇的に浪費され、歴史上最も活力のある一世紀に数えられるこの世紀の才能が用いられないままに終ってしまうだろう。表面上どれだけ我々と異なっていようと、過去のあらゆる思考の枠組みを活用しようとする試みは、シンボリズムの科学において生じており、より鋭く厳密な新たな辞書編集から、様々な個人的、集団的精神分析ベンサムマルクスフロイトユング、バロウといった作家たちは、関心がいかに我々の定位に関係するかを明らかにする様々な方法を求めている)、一般的な意味から分離した言語を見いだそうとする数多くの試み(象徴的論理学の信奉者やベルグソンの計画的な不調和)、「支離滅裂な」中世の見者めいた途方もない神秘主義にまで接近する方法論的な考察(主に物理学と症候論)にまで進む。


 結局のところ、一般的意味をもつ言語は、現代の終末論者が適用するような極端な発見のために発明されたものではなかった。それ故、類推的拡張を行なう意図的な試みは、言葉の慣習的なカテゴリーを越えることによってのみ達成されうる。成功したかどうかに大きな重点を置くことは、一般に思われるほど卑しむべきことではない――というのも、少なくともそのことで、新たな分類配置による発明を大雑把にすぐさま修正するからである。唯一の難点は、前にも述べたように、成功そのものが変数だということで――我々の過程-思考の成功を証明する検証方法には、中世の本質-思考の検証方法に本質によって出来事を結びつけるやり方が言外のうちに含まれているように、過程-思考の方法が含まれているかもしれない。


 いずれにしろ、科学的な新事実、我々が出来事の性格を新たに読み取るための精密で包括的な枠組みが合流することは、それ自体不調和による遠近法が必要とされ、拡大されて用いられていることの証拠である。我々がその全体的効果を要約し、既に自然に生じていることを勧告として主張すべきなら、計画的な不調和は、いまだ我々と共にある形容詞と名詞、実詞と動詞という分子的な結びつきを実験的にもぎ離すために、意識的に開拓されるべきものと言えよう。化学者たちが原油の精製に用いているような「分解」過程を言語にも施すべきである。もし科学が真に無神論的で、徹底して不敬虔であるなら、合理的に確立された正当性がなく、敬虔さや生まれつきの特性の結果にしか過ぎない結びつきを最後の最後まで体系的に切り離そうとすべきである。


 例えば、通常、指小辞によって修飾される観念は、巨大な肉塊の禍々しさや悩み抜いた末のインスピレーションを論じるときのように、拡大されて扱われるべきである。便宜的に実験室の範囲内に抑えられている文化的変化の広範囲にわたる過程や、心理学と歴史の基本的パターンに関心を抱くように、ある一群の警句の発生と繁栄と衰退を描きだす準備をするべきである。犬のナポレオン的な性質を研究したり、蚊に我々には永久に閉ざされている知恵のしるしを観察するべきである。これまで見事な発明の分析に用いられてきた言葉でくしゃみを論じ、あたかもそれが創造的な行為であり、これまでの様々な要因を単一なる自己へと統一する総合であるかのように述べるべきである。


 逆に、堂々とした既に受け入れられている結びつきに関しては、望遠鏡を逆から眺め、マストドンを微生物に、人間を地球上に張りついたダニのように見る遠近法を確立すべきである。或は、藪医者についての注意深い研究から医学の歴史を書いているのであれば、連続性の法則に従って、その考察をパスツールの実験に光を投げかけるまで拡大すべきである。或は、有象無象のボヘミアンの観点から詩の歴史を書いているの者が、なぜ彼らはモンキー・ジャンパーにだらりと垂れたネクタイをしているのかと自問し、その答えがイェーツやヴァレリーの解明に役立つかもしれない。或は子供の言葉を追い、注意深く書きとめていけば、我々に根深くある正しさの感覚が無視されていて高慢の鼻が折られることにもなる――例えば、我々が椅子を指すのに二つの社会的に通用する言葉をもっていて、A椅子は無視してもいいような人々、召使い、子供、貧乏な親戚用のものであり、B椅子は父親や母親のような特別な人物用であるとき、「生まれつきの偶像破壊主義者」である小さな子供が司教に「A椅子をいかがですか」と丁寧に申し出て、我々を文字通り身もだえさせるのである。


 或は、裁判の現場での枠組みの転換によって、通常非難されていた出来事が称讃的な言葉で特徴づけられたり、或はその逆であったり、或は称賛の言葉も非難の言葉も中立的なものとなり、検閲的な性質が全くなくなり、純粋に過程を示すものでしかなくなることもある。ある人間の友人たちは彼の仕事に対する献身を論じるかもしれないが、彼の敵は同じ活動を心にとめながら彼の貪欲さを論じ、一方両者に向かって我々は、彼を転々と職業を変える人物として、或は、人間に一般的な戦い、競争しようとする性質が、たまたま脇道に逸れて商売という特殊な定位にあらわれたのだと示そうとするかもしれない。或はxyという項で、xがyの関数だともyがxの関数だとも論じられるように、様々な出発点から因果的な結びつきの発見のために不調和に向い、自由市場は開放に向かう運動の一環であるか、解放への叫びはすべて自由市場に向かう要求の一環に過ぎないのか学ぶことにもなろう。


 或は、新たな知識を探る際に、利用できる知識を故意に使わないこともあろう――例えば、忙しく巧妙に働く生物種のことを長い間研究し、その習性を観察することで、どんな誘因で行動しているのか解決しようとしているとしよう。次に、長い調査の間この種は言葉を欠いていると考えていたが、実は広範囲にわたるコミュニケーションのネットワークを持っており、非常に複雑な記号の組み合わせを用いていることを突然発見したとしよう。次に、最終的にそれらの記号の解読に成功し、この種が考えている動機や目的をすべて理解したとしよう。あなたは勝ち誇ったように思わないだろうか。努力が十分に報われたと感じないだろうか。次に、その会話の体系について十分馴染みのある人間を研究し始めたとしよう。研究をまさしくこの馴染みを取り去ることによって始め、言葉の感触から、あらかじめ手にしている手がかりをできる限り避けることで動機と目的を理解しようとするのだとしよう。このことは、新鮮な視点を手に入れるために、利用できる資料を故意に捨て、計画的不調和の発見的遠近法的な価値を手にすることになろう。


 計画的に間違っているとわかっている仮定を採用することさえあり得る――というのも、フロギストン理論の多産性を見ればわかるように、「誤りの発見的な価値」というのは既に確立されており、「燃焼元素」の信念が原子配列の発見に結びついた。恐らくその発見というのは、「熱のため水は流れ落ちることを嫌う――『相応の場所に落ち着く』ことを避けるために蒸気に変わる」といった文章のうちに言外に含まれているだろう。排中律の法則を踏みにじる数学――或は倫理と呼ぶべきか――を見いだすこともでき、そこでは「AはAである。Aは非Aではない」と言う代わりに、「AはAであるか、非Aである」と言える。ローレンスとともに地の作物が太陽を輝かせるのだとも、ジェイムズとランゲとともに、我々は泣くから悲しいのだとも言える。


 ベルグソンが推奨したように単に矛盾を一緒にするだけでなく、不完全な組み合わせを数多くつくりだすことも考えられ、通常感傷的に使われている言葉を科学に用いてみたり、詩的な言葉を科学の概念に使ったり、病気を一種の才能と論じ、巨大な思考体系を管理の産物とし、強い野心や力強い惑星の運動を最も抵抗力の少ないところを選んでいるだけで、賛美こそされているものの実はある種の怠惰のあらわれだと考えてみたりもできよう。或は、賤しいカテゴリーに高貴な形容をする、通常永続性のある出来事に用いる言葉を束の間の出来事に使うこともあろう。国家を一個人のように論じるばかりでなく、個人を国家であるかのように論じ、大事件を些細に扱い、写真に映った雑草を荘厳に聳える森であるかのように縮尺を変えることもあろう――ホワイトヘッドが原子の行動の法則に単なる習慣を見て取ったように、動物、植物、物質、精神それぞれに当てはまる言葉を「無責任に」他の分野に移す――或は、E・E・カミングスばりの教授は、人間を猿の一種だと言い、アリストテレスを理解するために猿の研究をするかもしれない。「本当にそうするだろうか」。我々の推論システムが働いているところではどこでも、こうしたことが行なわれている。


 (人間の振る舞いを記述するのに抽象的で統計的な形式を取る経済学者の語彙は、恐らく不調和の最も顕著な例である。ある男が自分は「預金している」と考えているのは、経済学者のカテゴリーのよれば、単に「遅延された消費」行為を行なっているに過ぎない。結局のところ、銀行預金とは「年3パーセントの利率で、消費を遅延しなさい」という指示に従っていることだと経済学者は言う。「保険金」も同様である。保険をかける個々の人間は、ある日付で死ぬことに向かっている。それは単純な二者択一である。これこれの日付に彼は死んでいるか、死んでいないだろう。だが、保険全体の一員としては、まったく新たな属性が与えられる。蓋然性という属性である。これこれの日付に彼が生きているか死んでいるかは、三分の一、或は四分の一の確率というのが蓋然性である。かくして、彼は自分自身こうした蓋然性をもっているかのように考えるようになるが、それはある種の抽象的なグループ分けの一員としての性格であり、個人としての彼に適用されるものではない。一個人としては(彼に関わることだけを考えるなら)、なんら蓋然性はない。彼は死んでいるかもしれないし、いないかもしれない・・・分類わけすべてに関わるこうした欺瞞的姿勢は、現在、プロレタリア文学に関する激しい論戦に見て取れる。プロレタリアとは、抽象によって、ある種の労働者として定義される。しかし、明らかに彼はその他様々なものである。例えば特殊な教育の結果「内向的」であったり「外交的」であったりするかもしれないし、子供時代にひどいはしかにかかったかもしれないしかからなかったかもしれない、等々。こうした非プロレタリア的要素がすべて彼の人となりには含まれている――だが、批評家は、彼のすべての表現を分類する図式として、プロレタリアと非プロレタリアとの厳格な区別を打ち立てようとするのである。彼らが永遠に彼のうちに「ブルジョア」や「封建主義」の痕跡を探り続けるのも不思議とするにあたらない。)


 ラ・ロシュフーコーは、ある種のことは間近に、別のことは距離をもって見るべきだと言った。遠近法の教えとは、以前には遠くから見ていたものを間近に見る、或はその逆であるときに、遠近法は発見に資するということだろう。或は、スピノザは事物を永遠の相のもとに見ることを推奨した――しかし、計画的な不調和によって見るとは、スピノザが永遠について語ったときと同じ目的を企てながらも、意識的体系的に事物を時間の相のもとに見ることである。多くの方面で我々の父祖だと言えるライプニッツはこう書いている。「異なった立場から見られた宇宙のそれぞれのあり方は、もし神がそれを自らの考えを実現し、実体を生むにふさわしいあり方とするならば、その観点に応じた宇宙を表現する一つの実体である」と。様々な新たな意味を生みだした偉大な世紀の無数の「実体」を目撃したなら、神もしばしばそのふさわしいあり方を感じたことがあっただろう。


 十九世紀の作家たちの多くが、桁外れの生産力を誇っているのも不思議ではない。取り組む角度を変えることで、以前の分類が再分類化される無限の方法があらわになったに違いない。多産な生涯の終わりにあたって、ベンサムは、しなければならない仕事を考えると、一ダースの分身が使えたらいいのにと願った。実際、彼は、ダーウィンがそうであったように、無数の分身を駆使しているようなときもあったのである。