ケネス・バーク『恒久性と変化』44(翻訳)

宗教における回心と退行

 

 『イエスの生涯の諸側面』という著作で、ジョージ・バーガーは、我々の知るキリストの生涯においては、回心の過程をたどることができないと述べている。キリストが十二歳のときに神学者たちと会話を交わし、父である神の仕事に従事しなければならないと両親に静かに告げたときは、一般的には思春期の目覚めの時期であり、新たなホルモンの刺激のもと、個人として慎重な定位の必要を感じていただろう。しかしながら、キリストの場合、再生よりもむしろ確認がされている。同様に、砂漠の誘惑、既に確立している価値が直接的に脅かされるときにも、回心に特徴的な価値の相対化はなされていない。むしろ、既に選択されている方向が、恐らくは断食によってとぎすまされた法外に豊かな想像力によって瞬間的に検証され、再び同じ道が取られたのである。


 キリストは、芸術家が年月をかけてその技術を発達させるように、徐々にその方法を習熟していったように思える。明らかに自分の観点が「正しい」という出発点に立って、戦略や提示の仕方を考えていた。この目的のために彼が最大限の効果をあげるものとして活用したのは寓話による類推的拡張であり――山上の垂訓に最も明らかに見られるような単純な逆説であって、貧しさを富のしるしに、餓えを満腹のしるしに、いまの悲しみを将来の喜びの間違えようのないしるしと再解釈することによって、価値の全体的な再評価という基本的な回心の考え方を提示している。こうした翻訳によって、危険な状況は単に下方へ向かうものはされない。まさしく快適な状況と言い換えられるのである。バーガーはキリストの説教の珍しい特徴として、「その教えの肯定的な性格」を挙げている。イエスは勧告を招待として言いあらわす。


 回心という現象が最も激しい形であらわれたのはパウロの場合であって、ときには何年も、何世代さえかかる象徴的な再構築がごく短い時間に圧縮され、数瞬のうちに完成された。パウロのような行動的な人間の場合、再生という現象(「回心というヒステリー」)は瞑想的な人間の場合のように、隠喩的で、雰囲気と形象のシンボリズムに限定されることはなかっただろう。むしろ、初期の定位の荒々しい崩壊は、いい俳優が言葉を身体的な身振りによって補うように、それに見合った行動を生ぜしめただろう。実際的でかつ深く敬虔な、パウロのような気質の人間が「打ちのめされた」とき、筋肉や視界が実際に混乱する反応が示されたかもしれない(一般的な人間でも、ほんの僅かな罪の意識や落胆があったときでさえ、背骨がまがったり眼が落ち着かないだろう)。サウルのような精力的な人間が突然サウルでなくなる古い自己の喪失とパウロとしての再生という劇的な瞬間には、彼の全人格が根底から揺り動かされたことだろう。


 純粋に世俗的な観点から見ると、彼の啓示とその合理化は価値の図式の根本的な転換と特徴づけられる。古い結びつきがばらばらになり、突然に襲いかかった新たな創造の仕掛けによって、新たな結びつきが容赦なく接合され、新たな発見のパターンが彼の頭にできあがり、この発見に従って彼の思考の範疇が再分類化され、彼の狩っていた人間が味方になり、仲間として狩りをしていた人間が追いかけるべきものとなった。


 こうした経験は「目立った」ものとなろう、というのも、どうして以前には怪物であったものが突然親切に、以前には親しみのあったものが怪物的なものに変化した日を忘れることがあろう。人の幸福や振る舞いに深く関わっているものが転換した場合、記憶に顕著なものとして残らざるを得ず、トラウマ的に関心の中心である祭壇になり、それ以後目的はそこから発するかのように思われ、使命をもっているという意味において確実性をもち、使命をもつのは、社会化しなければならない個人的な経験をもつからである。神秘家がその洞察によって、苦痛と贈与が交換可能であるかのように、「傷ついた」に二重の意味をもたせるわけを我々は幾分理解する。(ヴェルレーヌ「Mon Dieu,je suis blesse d'amour」。『ニューヨーカー』「私が手術を受けたとき」。多くの未開部族に見られる厳しい通過儀礼を思い起こすこともできる。警官の警棒が頭を割ったと感じたときに、自分の説により深い忠誠を誓ったと主張する政治扇動家の言葉も思いだされる。)焼き印が残されており――聖痕、使命、優先事項、オブセッション、トラウマ、傷、啓示はみな、同じ出来事を異なった観点から示している。


 それ故、なんらかの「道」が発見されるのだという考えが生じる(実際、個人の場合にはそうであり、確かな方法、姿勢をもてば新たな材料に創造的な結果をもたらすことができる)。その道が、どんな場合にできるのか、正確か不正確か、ここで決定する必要はない。それができたときには、「啓示」であり――どんな出会い方をしたのかにかかわらず、ダマスカスへの道か、戒律の刻まれた石版が発見される「魔の山」への「発見」の道(モーゼ、ツァラトゥストラ、『資本論』)に見合った舞台設定とともにいずれは修正された記憶から再構成されるだろう。


 望むなら、こうした選択の過程をいい詩と悪い詩の分かれ目になぞらえることもできるが、どちらの場合にも、詩の必然には二つの側面を見いだせる。詩は以前にはばらばらであったものが突然一緒になり、融合する――この融合の力そのものが同じ性質をもった更なる経験の探求を促す。それは死後に身体に刻みつけられているのが発見される「聖痕」のようなものである。怒りが唇のねじれにあらわされるとしたら、我々がそこにあるしるしをいかに読み取るか知ったとしたら、高揚し引き延ばされた「洞察」が最終的になんらかの形となってあらわれているのでないとどうして言えよう。もちろん、聖痕というのは、敬虔さが十分に深いと心臓に敬虔なイメージが現実に再現されるといった古代の殉教伝に見られるような文字通りのものではない。感情とホルモンの変化との関係のように、関連は離れたものであるかもしれない。しかし、にもかかわらず、身体と精神との平行関係は存在するであろう。