ケネス・バーク『恒久性と変化』45(翻訳)

結論

 

歴史的平行

 

 第二部を通じ、我々は頻繁に過去の体系の「誤り」を尊重する姿勢を示した。極端な神秘家にしても、彼が見たしるしを解釈し言語化する方法については賛成できないかもしれないが、間違いなく何かについて語ってはいるのである。幻覚であっても実際の身体的出来事がそれによって起こるという意味において実在している。そして、我々は魔術的、宗教的、詩的、神学的、哲学的、神秘的、科学的な伝承の知識を意識的に見境なくかき混ぜた。個人の精神が集団の産物である限り、一と他との関係のパターンはいかなる歴史の時代においても認められる。そして、そうしたパターンを表わす用語法をどんなに疑問視しても、人間の神経構造は環境の転換を通じてほとんど一定しているという事実は、個人がその思考や行為によって集団との連帯を確かめるように、差異の下に恒久性を求めることを正当化する。


 実際、今日の様子を見渡してみると、我々の状況はキリスト教の合理化が普遍的な姿勢として最初に形成された時代と顕著な類似点があると信ずるに足る充分な証拠がある。キリスト教の教義は、多くの異なった文化的完成体が、ローマの政治的統一と激しく衝突するという文化的雑駁の時期に生まれた。こうした経済関係は、パックス・ロマーナの働きを完成させる精神的な対応物を必要とした。数多くの価値判断の不一致、相争う精神的な枠組みが、今日の遠近法にも見いだされるような、不完全な部分的一致を生みだした。対立するグループがまさに一致する確実な点を出発点とする非常に寛容な思想家のグループもおり、新たな権威的学説が力を得始めたまさしくその瞬間に試験的な哲学を打ち立てようと模索していた。当時数多くの敵対する「救世主」がいたということは、今日多様な科学の唱道者が我々に向けて新たな意味を申し立てていることに類似している。私はそのやり方が変わったのだと言おうとした。しかし私に確信があるわけではない。というのも「主の御言葉」に関わる多くのキリスト教理論は、かつて生じた基本的なコミュニケーションの仕方の方法論的考察から発していることを示しているからである。定位の機構が崩壊してしまうと、再び予期の問題が前面に出て、予知の問題が病的に強調され、予言とインチキ治療とはいまと同様当時もどうにもならないほど絡み合っていた。未来を予測する専門家が予言者ではなく「有識者」と呼ばれているだけで、今日の状況にも本質的な相異はない。


 初期の混乱において、黄金律が訴えかけの最低限の共通分母となった。それは真の「普遍的な」よりどころであり、人間の価値に対する支持であり、それによって数多くの相違点にもかかわらず、すべての文化体が結びつくことができた。それがコミュニケーションの最低基盤を形成し、まったく異なった敬虔や慣習の体系をもつ無数の党派や文化においても、少なくともそれを原則として受け入れることが望ましいというのが、十分に自明なこととして受け入れられるようになった。


 この教義が二重の限定を加えているのではないかと疑う根拠はある。というのも、普遍的な価値基準としての妥当性は別として、単一の文化的再定位が、経済的には結びつくが、精神的にはばらばらな文化体に基本的な枠組みとして広がることには、根っこに報復的なパターンが働くからである。それは「目には目を、歯には歯を」を言い換えたものではなかったろうか。人間の正義の観念において基本的な復讐法が、黄金律によって報復のカテゴリーから引き上げられ、キリスト教的同胞愛のカテゴリーに位置づけられただけなのではないだろうか。


 宗教の敵対者を自認していたベンサムは、常に聖書を「銀行通帳」のようなものと見ており、数多くの意図せざる自己犠牲の形が書き込まれており、利益を追求する忠実な信者たちを巨大な怪物がそこに追い込むのである。だが、善の判断は有用性の判断から生じること、悪の判断は損害の判断から生じるものであるということ最も明瞭に示し、倫理を再構築したのは功利主義者、そのなかでもとりわけベンサムである。我々の道徳性を、そして、特に我々の政治的方便を功利性の基準に求めようというこの欲望もまた、最低限の共通分母で承認を得ようとする同じ種類の還元ではないだろうか。そこから結果として生じる「最大多数の最大幸福」という検証法は、キリスト教の教えを経済学、人類学、文献学などによって言い換えたものであり、もともとの普遍的な教えから大きく異なっているだろうか。


 そして、科学の理想である「中立性」は、キリストが嫌悪感を示した報復の前キリスト教懐疑主義と顕著な相似性を示していないだろうか。判断を下す際のこうしたためらいは、倫理的な消化作業がなんらかの理由によって、極度に複雑で争い合う時代にはごく自然である。そして、金融によって帝国を建設する者は現代の無秩序を更に強め、機械の導入によって生じた新たな生活様式も困惑を増すばかりである。人類学などの科学によってもたらされる倫理的相対性の記録は、同じく混乱に大いに寄与している。あらゆる方向から責めたてられた定位は必然的に崩壊し、ニーチェとシュペングラーが認め、再び平易にしようとした懐疑主義と折衷主義が生じる。


 ベンサムマルクスの倫理的因果性についての説は、我々の社会の困惑が始めて鋭く前面に出て、それより以前の再単純化懐疑主義との関係にはっきりと結びついたときに説かれたものだった。オグデンとリチャーズもまた、エネシデムスの僅かに残ったページから、現在の言語的な懐疑主義は、キリスト教の定位による新たな高揚で一掃される直前のローマで先取りされていた状況であることを掘り起こした。与えられた意味の体系が崩壊しているときに、まさしく意味やシンボリズムが中心的問題となる。堅固に確立された意味のある時代には、人はそれを研究せず、使用する。自分の行動をそれによって位置づける。この観点から見ると、組織的な疑いによって進む科学的プログラムはすべて、確実な枠組みから別の枠組みに移行する「暗黒時代」に属している。


 というのも、最終的な分析においては、人間は中立的な言語ではコミュニケーションしないからである。最も深い人間的な意味において、人は自分の集団全体によって共有されている強調点をもち、重みをもった言葉でコミュニケーションする。