ケネス・バーク『恒久性と変化』60(翻訳)

第五章 動機の探求

 

魔術的解釈と科学的解釈

 

 魔術の合理化において、思考や行動の詩的な性質はあからさまに言明されることはないが、そのすべてにわたって暗黙のうちに認められていた。未開人が宇宙の進行を思い通りにしようとする「類似療法的魔術」の儀式は、まさしく「感傷的誤謬」による儀式である。魔術の合理化において、人間が互いに共感し合うための言語的模倣的仕掛けが、無生物を操作する領域に移された――この姿勢の論理的一貫性を保つために、その操作そのものは生命あるものによって動機づけられている必要があった(生命を思い通りにしようとするときにはその過程を逆にし、無機的な隠喩を使うのと同じように)。


 心理学の領域では、類似魔術は効果的であり必要である。芸術の説得力というのもそれ以外のものではない。雨のときにはいつでもレインコートを着ているので、乾期の時期にコートを着てくれるよう部族の呪医に頼まれた伝道師の話を再び思いかえしてもいいかもしれない。コートの着用が雨と結びつき、伝道師が権威と結びついているので、コートの着用によって雨をもたらすことができると感じられたのである。偶然の相関関係が因果的な相関関係と解釈され、コートの着用が気候に対して治療的な働きをすると期待されたのだろう。こうした単純な可逆性はまさしく詩的効果の根本である。それはプルースト的敬虔さである。というのも、ある種のイメージがある種の雰囲気と結びついているなら、詩人はイメージを提示することによってそうした雰囲気を我々にもたらすことができるし、また実際そうしているからである。


 宗教的合理化も、同様に、こうした詩的構造を多く備えている。宇宙は、臣下が王に恩顧を願うように、好意を懇願するべきある任意の力によって支配されていると考えられる。好意は得られるかもしれないし、得られないかもしれない。この想像力の形は人間同士の関係と完全に類似している。宇宙はいまだ本質的に擬人化されており、心理学的なパターンを有している。ヴェブレンが述べているように、独立した職人たちのギルドが生じたときに、合理化の本質に転換が起き始めた。「神はなにを命じたのか」と問う代わりに、「神はなにをなしたのか」と問うようになってきた。ヴェブレンはこの転換を、中世の農奴制が崩壊し、独立した職人階級が生じたことと平行して、専制君主としての神から職人としての神へと重点が移ったことによると解釈している。


 しかし、もう一つの特徴が認められる。「神はなにをなしたのか」という疑問には、完成された宇宙という考えが含まれている。創造者への関心から創造物への関心に向かう自然主義的な傾向が萌芽として含まれている。以前の図式によれば、神は人間の歴史の潮流のなかに含まれている。神の命令はまだ完成されておらず、いまだ進行中である。カルヴィニズムに至るまで(カトリシズムと科学との中間段階である)、「命令」が「あらかじめ定められている」に変わることはなかった。十九世紀の実証主義による唯物論的因果理論において、あらかじめ定められているへの移行は完成した。後期ローマの啓蒙的な哲学でのように、神は完成している。


 あるいは、まったく世俗的な言葉で言うならこうなる。宇宙の始まりがどのようなものであろうと、いまでは、遙か昔に形成され、決まったとおりに進む天体の運動と考えられており、我々はその動きに潜む変わることのない法則を発見するしかない。ここには詩的あるいは創造的領域から完全に出てしまおうとする試みがある。宇宙を創造されつつあると考える代わりに、科学的因果性の学徒は単に創造され終ったものと考える。その元々の立法を正確に学ぶことによって、自分の望み通りの結果をもたらそうとするかもしれない。しかし、立法の行為そのものは終っている。我々は自身を観客、あるいはより正確には批評家と考えることによってのみ、詩的な隠喩を維持することができる。我々は劇に臨み、その方法に注釈を加えるが、それを書きはしない。もしアイスキュロスが魔術的で、ソフォクレスが宗教的なら、その詩学で彼らの作品を分類したアリストテレスは科学的だった。