ケネス・バーク『恒久性と変化』64(翻訳)

部分と全体

 

 四つの学派すべてが共有するもう一つの重要な傾向は、単一のどんな出来事でもより広い文脈のなかで論じ、その出来事が部分であるような全体を探りだそうと計画し試みることである。哲学の仕事は、自ずから、部分がその意味を引き出してくる全体を探ることに関わる。あるものを徹底的に考えるとは、どんどん広がっていく相互関係の範囲を辿ることである。


 こうした相互関係の探求は、我々を重要な方法論的ジレンマに巻き込みやすい。全体のある部分を選び出し、それを残りすべての「原因」としてしまうことである。それは、肺、心臓、腎臓、肝臓、胃が一緒に働いているのを認めながらも、どの器官が残りすべての器官の原因であるかを決めようとする者と近いだろう。ロレンスがぶしつけにかつ頑固に、科学的な因果性をひっくり返して、成長する穀物が太陽を輝かせるのだと主張したとき、彼がある種の詩的許容を自分の発言に認めていたのは間違いない――もし我々が彼の戦略の詩的な部分を差し引くとすれば、残されるのは、人間の環境との関係を理解する際に、意図あるいは目的論的な要因を再確認しなければならないという主張である。背後からの力として因果性を考えることも(あらゆる人間の行為は「後ろから蹴られる」ことで促されるという考え)、明らかに生物学的な成長の働きを無視している。


 また、最も単純な行動や美的生産においても、究極的な意図によって形づくられる最初の一段階が認められる――そうした過程を自覚することは、計器を読みとることと同じ「経験の事実」であり、我々の形而上学に含む必要がある。人間の意図は先行する要因によって形づくられるというのは、単に無限の後退に落ち込むことであり、科学的因果性の正統的な図式がそれを避けようとするなら、考察を切り詰めるしかない。都合のいいところで止まり、それを宇宙の現実として解釈するのである。


 陰極から陽極への電気の流れを考えるとき、任意のある点を選び出し、それが出来事の原因と考えるだろうか。むしろ、連続した系列の有機的に相互依存しあう二つの点を示すための論理的便宜、純粋に便宜的な表記だと考えないだろうか。ロレンスは詩人としての熱意によって、ある種行き過ぎた表現をし、I・A・リチャーズが示したように、原始魔術の詩的世界観に似た宇宙像を提示せざるを得なかった。かくして、彼の主張は、慣習的で実際的な議論の尺度で測ったときには、戦略的に無効である。一つには、現在我々がドグマを覆い隠すのに習慣的に使っている「おそらく」や「多分」がそこには含まれていない。しかし、もしリチャーズが言語上の争いを解消するために推奨している方法で彼の発言を翻訳してみるならば、ロレンスは、鮮やかかつ印象的なやり方で実証主義者の因果性についての説は不十分だと言おうとしているに過ぎない。


 宇宙を既に創造され終ったものと見なす実証主義者は、最後の章は最初の章の諸条件から揺るぎなく帰結すると言う。ロレンスは宇宙を創造されつつあると見なしている。彼は詩的な観点を復活させるだろう。その行き過ぎた主張の背後で、彼は単に、最終章は最初の章を原因とするものではなく、すべての章が単一の過程の異なった側面であると言っているのである。