ケネス・バーク『恒久性と変化』65(翻訳)

「メタ生物学」の概略

 

 生物学、人類学、社会学の領域に適用したとき、背後からの力である因果性の要となるのは、生物と環境との進化論的関係であった。個別なものとして捉えるなら、生物はばらばらの単位であり、多かれ少なかれ環境の文脈と対峙している――そして、この文脈に適応することで様々な程度の成功を求める。この図式では、環境が因果的に先行している。


 だが、どんな生物も異なった種類はまったく異なった成長と行動の「法則」をあらわすのであるから、独自の権能を有している。M・H・ウッジャーが『生物学原理』で述べているように、進化論が連続性の理論に基づき、自然法則の斉一で恒常的な働きを仮定しているなら、「突然変異」の理論は自然法則の恒常性という信念を直接に侵犯することになる。というのも、新たな生物種が生まれるとき、新たな「法則」が生まれるからである。例えば、バッタの新たな種が生まれ出たとすると、ある種の方法である種の移動をする新しい「原理」を得ることになる。逆に、ある種のバッタが完全に亡びてしまうと、ある運動の「法則」が宇宙から消え去ることとなろう。背後からの力である因果性を伴った進化の説によれば、自然法則の連続性は、そうした連続性を否定する論理に基づいていることになる。


 事実、『幻影と現実』でリチャード・ロスチャイルドが述べているように、生物と環境とを区別しようとする試みはすべて疑わしい。環境は、個々の生物がつくりだす要求からその性質、本性、意味を得ている。草原はライオンと馬にとって同じ環境ではない。そして、ライオンは馬の環境の一部であり(馬を脅かす限り)、馬はライオンの環境の一部である(ライオンの獲物である限り)。酸素は環境であろうか、内的なものだろうか。我々の血液のなかにいる微生物は我々と別個の存在だろうか、あるいは一部だろうか。それらは我々がまさしくその有機体と呼ぶ「市民自治体」の成員である。ことによると、それらはもともとは侵略者であり、身体が飼い馴らすことを覚え、結果的に切り離すことのできない一部として自分のものにしたのかもしれない。[この文章は「即興的に」書いたのだった。しかし、いまなら、シロアリが身体の外部から入ってきた微生物の助けによって木を消化するのだという生物学者の発言を引用できる。1953年。]


 要するに、どうやって我々が先行する異なった要因として環境を切り離すことができるのか理解することは困難に思える。ストレイチーが認めた相互作用の形跡においては、それが創造そのものにおける最初の裂け目ででもない限り、連続的と考えられている系列のある一点から任意に始めることはできない。我々が見いだしているのは、ある種の普遍的な結構であり――個々の生物として分類される我々の観点に個別なものとしてあらわれる出来事が存在している。しかし、我々の調査の範囲が広がるに従い、同じ観点であっても、電磁場の出来事にさえ有機的な隠喩を用いることを余儀なくされる。そして、この観点もまた、現実に存在するものとして、普遍的な結構に属すものと考えねばならない。バッタの本能、そしてそれに伴う遠近法や価値の体系は、化学的物質と同様に実在的なものである。


 実証主義者の因果説のもう一つの側面は、生物学的現象の基礎に完全な合理性を仮定することである。因果性は完全に機械論的な意味で捉えられる(機械は合理性の理想を完全に体現している)。行動は、丘から落とした石が谷に向かって従順に転がり落ちるように、合理的なものと解釈される。しかし、人間が合理的か非合理的かに関するすべての疑問は、人間が方法的だと言うことによって避けられるのではないだろうか。人間は方法的であり、方法論的でさえある。ブリューゲルの絵の収穫者のように、真昼間に樹の下で手足を伸ばし、食事とワインに酔い、労働の後のくつろぎを感じている――これは合理的であろうか、非合理的であろうか、それとも方法的であろうか。我々がプレイボーイについて言うように、人には「それぞれのやり方がある」。


 代謝は一つの秩序である。我々の道、方法はその細部、検証するときの評価基準が様々である。初期の思想では道は大文字で書かれたが、それはギリシャ語のhodosの文字通りの翻訳だった。現代の思想ではそれを覆い隠し、met-hodosと呼んでいるが、それは「進み行く道」を意味する。いずれにしろ、我々は現在も、また常に方法的だった。ポール・ロダン氏は、『哲学者である原始人』を書いて、未開人が我々と同じくらい進んだ考え方をしていることを証明した。オグデン、リチャーズの両氏は『意味の意味』を書いて、我々が未開人と同じくらい遅れた考え方をしていることを証明した――私はそのどちらかを選ばねばならないのか不思議に思い始めている。


 道と方法との密接な関係を半信半疑であれ認めることで、我々は宗教における道の言語化と科学における進み行く道の言語化にある単一の技法を探しだすよう勇気づけられないだろうか。人間という種族の生物学的目的が変わらないものである限り、歴史を通じて変わらないメッセージを仮定できるのではないだろうか――また、オグデンとリチャーズが推奨している翻訳を試みることで、我々の教説というのは本質的には、表面上そう見えているほど多様なものではなく、歴史や立場によって象徴化のあり方が変わってあらわれているのだと思えないだろうか。


 こうした企図は、明らかに、人間という種族の潜在的な目的とは何か述べるよう我々を促す。例えば、ニーチェ風に、人間は本質的に戦士であり、戦士としての特性を制限するような合理的構造を打ち立てようとすることで、哀れな混乱に陥るのだと言えばいいだろうか。あるいは、人間とは本質的に参加者であり、戦士としての特性はその活動とコミュニケーションの必要の一側面と言えばいいだろうか。人間のすべての行為を特徴づけると思われる一般化を観察し、それを「統計的に」定義したとき、人間の使命、究極的な動機あるいは状況は何であろうか。


 戦争と行動はどちらも連続した系列の一部であり、一方の端に残酷さと復讐があり、他方の端に高度な思考と共感のあらわれがあるとしても、私にはニーチェのように系列の本質を描きだすのに、非難を伴った選択をする論理的必然性は認められない。非難そのものは称讃の劣化物、ある種の遺憾な副産物と考えられる(というのも、この「不完全な世界」で錬金術が完成すれば、明らかに大量の金は卑金属へと変化する)。人間は目的によって生きている――そして、目的は基本的に好みの選択である。それ故、下方に向けた回心と上方へ向けた回心との間で選択する場合にも、誰が人間社会を破壊する方向を選択するよう論理的に強いられていると感じるだろうか。ニーチェ風の解釈を選択するには、我々は十分に方法的であるべきではない。


 勧告の体系はすべて、ある種の堅固な信仰の行為や慎重な二者択一をもとに為される。この重大な行為がはっきりと言明されないとき、それは体系の広がりのなかに潜み隠れることになる。私自身の発言のなかでこの決定的な地点を駆り出すと、連続した系列の両端に戦争と参加、あるいは戦争と行動を置いたとき、私であればこの系列の本質を示す言葉として活動や参加を選択することにあると思われる。あるいは、共同作業やコミュニケーションといった言葉を選び、戦争時でさえ、共同作業やコミュニケーションの要素が主要な部分を占めることを認めることであってもいいかもしれない。


 ここには、赤裸々に、ジェイムズ流の「信じる意志」がある。最終的には、悪ではなく善が人間の目的の根底にあるということになる。それが単なる言葉の上だけの解決だという者には、人間が真に歴史的な過程において共同作業しうるのはこの虚構だけであり、それ故、この虚構は普遍的な根拠があるものだと答えられよう。


 活動は善というより中性的な性質だという者があれば、不活動は生物学的過程にとって可能なものでない故に、悪の範疇にあると答えられよう。人間性を守る方法に黙従することは、その意味を言語化する際にどんな歪んだ方法をとろうと、それ自体生が善であることを認めることである。生、活動、共同作業、コミュニケーション――それらはすべて同一である。ショーペンハウアー流の哲学でさえ、その教えを縁取る熱意によって生が善であることを否応なく主張している。(1)

 

(1)共同作業をその支えの手段となるものの倫理化と結びつけてみよう。個人の精神と集団的な仕事とを結びつけるのは、トーテム、神、国家、階級、グループといった統一化の概念に心的に統合されることによってであると見て取れる。市民的組織のなかでの個人の最も深い支持手段となるのは、こうしたコミュニケーション的、共同的な紐帯である。それによって個人は「超越的に」強化される。その個人としての堅固さは忠誠の具合に依存している。


 かくして、新たな分野での創始者というのは、激しく古い住家を拒否し、新たな住家の土台を準備することで、「自ら死ぬことによって我々を生かしている」。救世主に対する病的なまでの迫害は(救世主であることが新たな始まりをしるしづけるものである限りにおいて)、根源的な目的の再定位化によって支えとなるものが一次的に失われることからきている。自然主義者は、聖餐のシンボリズムを異教的な豊饒祭の単なる残存と説明しているが、そうした儀式そのものが同様のパターンに従うことによって生じてきたのだと考えることも同じように正当性がある。