ケネス・バーク『恒久性と変化』70(翻訳)

厄介な抵抗

 

 確かに、我々が疑似命題を生の複雑な局面すべてに拡大しようとすると、相当厄介な抵抗に出会う。詩人が題材を扱う際の相当厄介な抵抗と同じである。我々は自分の意図する秩序に伴う難点を「利他的に」考慮に入れなければならない。厄介な抵抗という要因は、我々の元々の表現戦略を大幅に変更するよう余儀なくするかもしれない。最終的に、疑似命題は修正によってすっかり変ってしまい、材料の厄介な抵抗は我々をしてそれをむしろ命題として扱うように強いるかもしれない。


 「私は鳥だ」というのは疑似命題である。「私は飛行士だ」と言えば、我々のシンボリスムは完全に実際的な発言に修正されたことになる。両者の中間にある模倣的段階では「私は飛び込む者だ」ということになるかもしれない。しかし、三者とも、それを言う人間がある種の厄介な抵抗を考慮に入れている限り、純粋かつ端的な命題である。命題は完成された疑似命題である――つまり、命題とはある姿勢を具体化するのに用いられる材料の厄介な抵抗によって必要とされる修正の戦略に見合ったかたちでその姿勢を言い換えることである。「私はこの高さから安全に飛び降りることができる」というのは疑似命題かもしれない。「私はこの高さからパラシュートを使って安全に飛び降りることができる」というのは、物質の厄介な抵抗を適切に考慮に入れて修正した命題であろう。しかし、どちらも同じ姿勢から生じている。


 我々はすべての世界構築は倫理的な世界構築なのだという主張を正当化するためにこの区別を行っている(あるいはむしろ、リチャーズの区別を廃している)。ロレンスの発言に対する反論は、それらがいまだすべての領域を調査して廻れるように、物質の厄介な抵抗に要求される修正を経ていないことにある。歴史的運動の共同作業が過去を原因とし、未来の原因となるであろうように、いまだ社会化されていない。しかし、我々の関心(最も広い意味における我々の勤め)とは発見、試案、修正を形成するのが本質である。そして、我々の関心は倫理的である。バッタはその勤めや倫理が我々とは異なる故に、我々とは異なる世界を発見するだろう。人間とバッタは異なった「動作パターン」をもっており、それは異なった価値体系に反映するだろう。それぞれが異なった「観点」から世界に取り組み、観点の相異はそれに応じて異なる関連する「事実」の発見にあらわれるだろう。


 こうした立場は主観主義や唯我論に我々を巻き込むことはない。宇宙は単に我々の解釈の産物だと言われているのではない。というのも、宇宙が様々な形で厄介な抵抗をあらわすことで、解釈そのものが変らざるを得ないからである。我々が強調している事実とは、我々が宇宙に取り組むときの倫理的な傾きはそれ自体宇宙の一部であり、しかも重要な部分だということにある。我々の勤めは生物学的な根をもっており、生物学的な要求は明らかに宇宙の結構に含まれたものである。生きるとは勤めを持つことであり、勤めを持つとは倫理や価値の図式をもつことであり、価値の図式をもつとは観点をもつことであり、観点をもつとは手段の選択を動機づけ色づけるような先入観や偏りをもつことである。この点において、私の論は主観的あるいは唯我論的と言えるかもしれない。


 しかし、観点から生まれてくる「発見」とは、世界そのものの性質によって必要とされる修正以上のものではない。かくして、それらは客観的な確実性をもっている。我々の関心は思考をある経路に限定する傾向があり、我々が何を強調し無視すればいいかについて先入主を与える。しかし、関心は「願望は思考の父である」という意味で我々を欺く必要はない。というのも、観点は、それを確実にしたり外在化する過程において、物質の厄介な抵抗を多くの面で意味深くあらわにするからである。そして、こうした抵抗を考慮に入れて形づくられる我々の「便宜主義的な」戦略の変更は客観的である。しかしながら、そこに潜む過程は逃れようなく倫理的である――通常公平無私といわれているものは単に異なった関心の秩序であるに過ぎない。


 宇宙は我々の観点から考えたときに生じる異なった抵抗のあり方をあらわにすることで我々の観点に「従う」。(1)例えば、「海は時計である」あるいは「ミルトンはエスキモーである」と言うとしよう。こうした発言を完全なものとし、確実なデータによって社会化するには、途中で発見された材料の抵抗を考慮し、最終的には「海は周期的な運動をする」と最初の発言を修正せざるを得ないだろう。第二の発言は「ミルトンは北方人種だった」となろう。

 

(1)決定論は宇宙が間違いを起こし得ないとする理論である。すべてが原因をもつばかりでなく、それらが正確に働く。決定論によれば、ほんの僅かでも刺激を変えれば、それに応じた反応を引き出すことができる。石に対して力の方向をほんの僅か変えただけでも、それに応じて石のもたらすものは変るだろう。それが決定論である。ただ一つの間違いも創造的な目的もなく、機械が永久に規則正しく働いている巨大で複雑な構造物である。しかしながら、一度宇宙に観点を導入すると(生物学的な勤めによって導入されるように)、新たな要因が生じる。観点は出来事の解釈、観点に対して好都合であったり不都合である厄介な抵抗を読みとることが必要とされる。しかし、解釈は間違うこともあり得る。それ故、観点は間違いの可能性を引き入れる。しかし、間違った解釈の可能性があるということは、正しい解釈の可能性も存在する。間違う自由を論じることは正しさに至る自由を論じることである。

 

 

 おおよそ、観点は最初は空想、隠喩、仮定、「幻視」において表現されると思われる。新たな宇宙論的考察がまず生じる。それに関連した発明が続き、最終的にはその観点が我々の制度や生き方に具体化する。まず最初に原始的な場面にあらわれるというのは、そこでは厄介な抵抗が最小限であるからである。それは隠喩的であり、「仮定」である。しかし、更に遠くへ進み、自分の幻視をより完全な形で社会化しようとすると、新たな抵抗が生じる。できる限り戦略的に発言を変え、集団の使用と習慣に合うようにそれを作りかえることになる。この段階において、彼のメッセージは数多くの異なった種類の人間によって取り上げられ様々に練り直されている――そのときには、社会的関係、政治的緊急時、経済的手続きなどの抵抗に適合するものとされ、詩の私的な構造から社会的秩序の公的な構造へと移しかえられており、元々の始まりの現場にいた者たちでもそれらが自分たちから生じたものとはほとんど認められなくなっている。確かに、現在のところ、我々は至るところで「確かな事実」によって確認できるような思考習慣を堅固なものとして確立しているが、我々が実験をおこなう際の正確な道具や考え方そのものが同じ観点によって形成されたものだったのである。


 しかし、ロレンスに戻ることにしよう。実際には、彼は自分の勤めに与えられた観点から出発しているように思われる。彼は詩的な人間として出発したであろう(そのことが、なぜ彼の世界のあり方が類似療法的魔術の体系と密接に類似したものであるか説明しているだろう)。彼の発言は主観的な意味において非妥協的であり倫理的である。それらは「諸事実」の厄介な抵抗を考慮して客観的に修正されていない。しかしながら、それは基本的に、詩的な必要に限定される宇宙と歴史的過程の考察を際だたせることを目的としている。すべての人間が詩人である限り、詩とは異なると一般的に考えられている類の行動においても、人は出発点に究極的な動機、誰にでも共通する状況、創造的、断定的、総合的な行為を選択する。彼は自分がそうあるべきだと考える生物学的特質に従って強調したり無視したりする。


 成長する穀物と光り輝く太陽との有機的な関係を認めて、ロレンスは成長する穀物が太陽を輝かせると言った。実証主義者なら反対のこと、輝く太陽が穀物を生長させると言うことになろう。どちらの発言もせいぜい部分的である。実証主義者自身、自分の発言は省略されており、十人の人間をあらわすのに十の鼻というように、提喩に頼っていると認めるかもしれない。というのも数多くの要因が合わさって始めて穀物は成長するからである。アメリカでは、抵当権が太陽よりも重要な要因であると思われる場合もある。種には雨、土壌、天気等々が必要とされる。我々が便宜上行う単純化された発言はある意味疑似命題であり、あるひとつの要因を選び出してあたかもそれが中心的で最重要の要因であるかのように述べる。


 決定論的宇宙はロレンスが犯したような逆転を無効にすると一般的には思われている。しかし、決定論を徹底し、最後までつきつめると、そうした逆説が避けられないと思われる。というのも、もし包括的な因果的構造が存在するなら、未来が過去によって決定されると言うのと同じ正当性をもって、過去が未来によって決定されるとも言えるからである。部分が全体に含まれているとき、全体からどの部分が選ばれようと、それを残りの原因とも結果とも論じることができる。というのも、部分を変えれば残りも変るからである――また、残りを変えればその部分は変るだろう。


 この問題を別のいい方で述べてみよう。穀物と太陽は、物語の始まりが終わりの原因であるとも、終わりが始まりの原因であるとも言えないように、どちらも両者を含むより大きな出来事の異なったあらわれであるとも考えられる。始まりと終わりが部分的なあらわれでしかないようなより大きな過程が存在すると述べることでより幸福な感じを得ることができよう。そして、宇宙を完成したものではなくつくられつつあるものとして考え、倫理的、創造的、詩的観点から論議するとき、部分的な出来事を全体の出来事との関連で説明すべき同じような必要が生じてくる。


 結局、我々が異なった出来事だと言っているものは誰が決めたのだろうか。一方が他方になることを示す十分な証拠があるというのに、どうして穀物と太陽の光を本質的に異なったものとしなければならないのだろうか。ある種の光線が太陽から発せられ、それが葉緑素の働きによって植物に取り込まれ、秋になると消えてなくなることをなぜひとつの出来事として考えられないのだろうか。新たなリアリストは、緑を「幻影」として、神経にあたるある種の振動を言い換えた現象に過ぎないと語るべきではないとし、まさしく全体を異なった方法で切り分けることで経験を考えている。代わりに彼が言うのは、振動、神経の反応、結果的に生じる緑の感覚をひとつの出来事として受取り、そうした「弧状運動」全体を「真の経験」として考えねばならないということである。こうした方法によって、緑という性質は、我々の日常的な経験でそうであるように、思考においても「実在」のものとなる。それは「幻影」ではなく、宇宙の現実の部分である。


 出来事を記述する際のこうした流動性は、最終的には、ロレンスが向っているように思われる統合を成し遂げられる。本質的に、それは宇宙や歴史に対する我々の姿勢を形成するのに、機械論的な隠喩(機械的な背後からの因果性)とは異なる意図的あるいは目的論的な隠喩(人間の行動や詩に関する隠喩)を選択する。そしてこの選択の根拠となるのは、我々がもちうるもっとも否定しがたい論拠、つまり生物学的な点である。それは形而上学よりもメタ生物学を目指す。生物学に根ざす観点は、人間の思考が達しうる「最深部」近くまで達すると思われる。


 機械論的な隠喩より詩的な隠喩を好むことは、確かに、選択の問題であり、反対を好むのも選択の問題である。そして、ある方法として生を考えることは、同じように、全宇宙がひとつの方法として、あるいは方法の集積として考えられることを示している――その場合、生物学的隠喩を選択することが我々の合理的な探求を必ずしも阻むことはなかろう。というのも、詩における訴えかけの方法は、機械での生産方法が分析できるように分析可能だからである。排他的に機械論的隠喩を用いることは、詩と直接的に衝突するからではなく、詩の多くを考慮外にしてしまうために反駁される。その用語であらわすことのできる経験の側面を示すことしかしない。それは切り詰められており、詩的な隠喩は、厄介な抵抗という概念に支えられることでそれを免れる。