ケネス・バーク『恒久性と変化』6(翻訳)

解釈の誤りとしてのスケープゴート

 

 上記のことを、我々の用語法からは除外される「スケープゴート」の概念が、現代の批評家によってしばしば用いられる典型的な状況を考えることで検証してみよう。第一に、顕著なもの同士の結びつきは変動することを認めよう。犬では、顕著なベルの音と顕著な餌への関心が結びついた。しかし、翻って、南部における貧困白人の顕著な経済的惨状は、他のどんな顕著な要因と結びつけることができるだろうか。科学実験で苦しめられている鼠は、とまどいどうやって逃げたらいいかわからないので、邪魔しているものに対してなんらかの行動をとると学者は立証する。同じように、白人貧困層は邪魔している存在に対してなんらかの行動をとるのだろうか。


 だが、邪魔者とは何だろうか。ネズミの場合、電気ショックや、電気ショックを与える実験者ということになろう。しかしながら、実験の状況は、ネズミにはなにが行なわれているのかわからないようになっている。邪魔者とは電気ショックそのものであり、ネズミはその場所を避けて動く。


 アナロジーを人間の犠牲者に当てはめてみよう。激しい経済的競争が存在する。また、他の競争者から差異化をはかれる目立った道があり――それは、肌の色によるものである。それでは、白人の惨状はどの「方角」から来るのだろうか。経済構造によって解釈されることは、肌の色の違いに較べればそれほど「顕著な」ものではない。ここで不吉な定位が生じる。黒人は鉄柵で隔離され乱暴に打ち据えられる臆病者であるが、柵に対する脅威をあらわすものとされる。定位は「何であるか」から「何であり得るか」に向かうので、白人貧困層は、自分たちの問題の解決としてリンチによる脅迫を行なうことになる。


 こうした誤った手段の選択が行なわれることを、おののきながらも我々は認めねばならない。ここには、非スケープゴート的で、現実主義的な対応とは異なる心的働きにおける回避過程があったという形跡はない。この地域では、混乱は社会的なものであり、色の違いには社会的格差が対応しているので、目立った色の相違は色の区別に従う反応をもたらす。現代のドイツにおける貧困のような、ほかの別の場所であれば、神学的、或は人種的理由づけが行なわれる。しかし、あらゆる人間に共通に働くのではない特殊なあり方をスケープゴートと呼ぶことは、スケープゴートを餌のベルに反応するパヴロフの犬や、打擲-ウサギ-毛皮を結びつけるワトソンの子供、ゲシュタルト派の実験における形態-食物の連鎖と似たものとして示すことである。


 異なった定位の図式、異なった観点から判断して正当に言えるのは、ある種の連鎖は欺瞞であり、間違った手段の選択をさせるということである。例えば、黒人をスケープゴートとして攻撃し、それによって自身の困難を免れられると思っている者は、異なった定位で問題に取り組んでいる。異なった定位は異なった連鎖の仕方をもたらすだろう。顕著な経済的貧困は経済的体系そのものの顕著な欠点に結びつけられるかもしれない。より広範囲にわたる歴史的遠近法を取れば、経済的要因もまた、肌の色の相違によって問題を説明しようとするのと同じく、あまりにもあからさまな連想に基づいており、スケープゴート同様に見えることがあるかもしれない。


 純粋な形での、儀式によって罪を犠牲者に担わせるスケープゴート・メカニズムについて言っても、異なった心的過程を仮定する必要はない。スケープゴートにつきものの原因と結果の魔術的なつながりは、ある種の罪を目立たせ、それを糾弾するのにふさわしいホメオパシーの技術を提示する。原因と結果の性質について異なった定位を発達させれば、それ以前の理論に基づいた行為は不適切なものに思われるだろう。しかしながら、ある点においては、純化の技術は非常に大きな実際的成功を収めていることを思い起こすべきである。例えば、人々から罪の重みを取り除くのには非常に効果的だった。必要とされるのは罪を動物に移しかえることのできるおきまりの手順と儀式であり、それから動物は残忍に打たれ殺された――救いの感情はそこにいるすべてのものに明らかだった。


 罪を移しかえられるという理論は、病気がうつるという理論ほど正当化しがたいように思える――特に、野蛮人が疫病を山羊を身代わりにして祓おうとするときにそうであって、我々は彼らの振る舞いを特殊なものと説明しようとする。不適切な定位に基づいた誤った手段の選択ですべて説明できるように思える。野蛮人の魔術における熟練(太陽を輝かせ、雨を降らせ、夏を再びやってこさせ、女性の多産を保証し、部族間の協調した行動を助ける)こそが、自然に自分の方法の限界について盲目にしたのだろう。いわゆるスケープゴート・メカニズムと呼ばれているものは、訓練された無能力の一例に過ぎない。