ブラッドリー『真理と実在に関するエッセイ』 第一章 序 9

 対象の欠如、ましてや対象の探求は、ある意味において、その対象の知識を含む。もしそれをいつ所持し、いつ獲得していないのかを語ることができないとすると、彼は決してそれを追い求めることはないだろう。追求において、またそれによって、正反対の想定に与するなら、想定はある程度、またある意味において、そこにある所持に依存しなければならない。当然、私は出発点において哲学者はあらかじめ命題を提示しなければならないといっているわけではない。(1)彼の行動は何らかの想定がない限り、意味がないし、もし尋ねられら、命題を得たときに、それを判断できるかどうか、それが実在の観念的な所持をもたらすのかどうか語れるものと想定される。我々は思い起こすことができるが、否定は肯定的な地盤を想定し、常にそれに依存しなければならない。(2)

 

(1)第十一章参照。
(2)心理学では、拒否は心的な肯定的地盤から出発し、それを前提にする必要はないと答えられるかもしれない。ここで全体的な問題を論じることはないが、我々が上で存在すると想定した反省の段階においては、この反論は維持されないだろう。この段階で私が真理ではないと拒否するとき、それがなにかとはっきり言うことはできないが、私は肯定的ななにかを主張している。想定された観念は最初はおそらく不快なものかもしれないが、単純に消え去ることはない。反対に、観念は廃棄され、その廃棄において、瞬間的なものだろうが、肯定的な主張を得たことを感じる。この過程についての私の自然な表現は、単に「それは消え去った」でも、「私はそれをもうもたないだろう」ではない。ここでの自然な表現は「私はよりよく知っている」といったものとなるだろう。

 

 それゆえ、合理的な哲学の唯一の懐疑論は、その真理を否定に限定し、実際に到達したものに限定することであるに違いない。(1)他方において、通常哲学的懐疑主義といわれているのは、無批判的で自滅的なドグマティスムである。というのも、それは可能な知識において知り、判断しようとするが、実際には否定し、反駁するものを求めて知識を想定するのである。このやり方は、原則としてずっと以前に論駁されているものを扱うので、あまりに容易でもっともらしいので、時代遅れなものとなっている。しかし、哲学的な懐疑論を語るとき、我々は常にそれは哲学に対する単なる懐疑論と異なったものであることを覚えていなければならない。それは自らに向けられ、人間的なものに訴えるが、哲学者がその特殊な追求に与している限り、無関係な言葉である。

 

(1)この点については第五章参照。


 もう一つの観点、哲学がもつ少なくともひとつの利点を述べることでこの章を終えることにしよう。我々はすべて、ある限界内のなかを除けば、疑いが悪であることを認めるだろう。疑いに対する治療薬は、その除外にあることを我々は知っている。我々の生活では、疑いは捨て去られ、支配されるが、それは必要な方法ではあるが、原則的に不満足なものである。疑いそのものとその根は攻撃されないままに残り、我々の根拠は侵略され、何ものかがはびこることになる。確かに、この対抗的占拠は、最終的には栄養失調で疑いを破壊するかもしれない。他方において、一時的に枯れ果てるが、根を破壊されていない疑いは以前と同じようにあらわれることもあり得る。しかし、哲学においては、哲学が成功する限り、事情は異なった風になる。疑いはここでは覆い包まれ排除されることはないが、同化され、使用される。(1)疑いを超えた生命過程の一要素となり、それゆえ、それ自体の発展は、そのもともとの生活を失うことになる。たとえ哲学が部分的に失敗し、実際に失敗するかもしれないが、疑いに対する何らかの治療薬を供給することになると思われる。徹底的に行おうとする懐疑主義は、それを広げることによって、より一般的なものにする弱める傾向がある。疑いが、もし真に知的で、意志の病でないならば、対照をなすものを失うことによって力を失い、恐怖を失うだろう。広範囲に広げることによって、特殊に働く力が微弱に弱まり、働かなくなる。しかし、読者は私があまりにも長い間予備的な考察にかかずらっていると感じていることだろう。

 

(1)完全に平行しているわけではないが、ここでの相違は、病的な固定観念に外側から戦うのと、催眠的な暗示によって内的に変容させて取り去ることの相違を思い起こさせるかもしれない。