ケネス・バーク『恒久性と変化』5(翻訳)

意味についてのパヴロフ、ワトソン、ゲシュタルト派の実験

 

 定位における連鎖を示す基本的な実験はいまでは古典的なものとなっているが、簡単に繰り返しておこう。最初にパブロフの研究があり、思弁的心理学の曖昧な連想説に、条件反射の実験によって正確な経験的根拠を与えた。犬に餌をやるときにベルを鳴らし、ベルの音で、餌の臭いをかいだときのように唾液を出させるよう犬を条件づけた。同じような実験を繰り返して、ワトソンはこうした条件づけに「転位」があることを認めた。鉄の棒で乱暴に打つことは子供に恐怖を与えるが、例えば兎のような中立的な対象であっても、打擲のときに常にその場においておけば「恐怖」の性質を与えられることを認めた。次に、この兎に条件づけられた恐怖が、様々な程度で似たような性質をもつものに(毛皮のコートやコットンの毛布など)転位することが示された。ゲシュタルト派の実験は、同じようなことは関係性からも生じうるという事実を確証した。いつも餌の入った大きな容器aが、いつもからの小さな容器bに並べて置かれる。動物がaにだけ餌を探すよう習慣づけられたとき(aの餌が入っているという性質、bの餌が入っていないという性質が確定したとき)、容器aを取り除き、その場所にbを置き、新たにより小さな容器cをbの場所に置く。大きさと位置の関係で、cとbはbとaに等しい。すると、以前は餌が入っていないものとして無視されていたbに餌を求めていくのが認められる。このことは、餌が入っているという性質は、大きな文脈のなかで決定されていたことを示しているように思われる。別の言葉で言えば、我々が北極星をそれのみではなく、大熊座との関わりにおいて認めるように、個々の対象の特徴は絶対的なのではなく、他の特徴との関係において成り立っている。


 ちなみに、行動主義とゲシュタルト派は正反対のように考えられることもあるが、行動主義者によって認められた「独立した」条件づけと、ゲシュタルト派の実験によって認められた関係、或は「全体」による条件づけとのあいだには根本的な相違はないだろう。「単一」の信号であっても(ある高さの音や色や形)、実際には複雑な出来事であり、感覚によってまとまりとして解釈されている。例えば、ベルが鳴るというまとまりは、物理学者に従えば、それぞれに異なる振動の集まりに分解され、それはゲシュタルト派の実験者がabの関係をaとbに分割してしまうと、個々の要素は一緒であったときの意味を「分け与えられる」わけではないことを示すのと同じことである(t、h、eというそれぞれの文字がtheの断片だとは認められないように)。二つの対象の関係が一つと解釈されるのと同じように、ベルの音では様々な出来事が一つと解釈されている。どちらの場合も、異なった「観点」を導入すれば、より小さな構成要素に分割することができる。分割部分は全体によってもたらされるのとは異なった「意味」を示すだろう。ゲシュタルト派の用語を使えば、ベルの個々の振動の意味が「付加的」に集まって、部分の総和をなすのではなく、音は単一の総体、形態、ゲシュタルトである。水差しの口から水を注ぐことを学んだ人間は、パヴロフ-ワトソン的な条件づけをされたのだろうか、それとも、水差しを全体として知覚することから水差しの口を理解するより大きな全体についての知覚(ゲシュタルト)を行なっているのだろうか。


 いずれにしろ、ワトソン的な転位にしても、ゲシュタルトの形態にしても、類似についての判断が含まれねばならず、類似そのものは絶対的ではない。チフス菌の入ったサラダと入らないサラダは美食的な見地からはまったく同じであり――腐った卵とそうでない卵はチフス菌が入っていないということについてはまったく同じである。赤い四角と緑の四角は、形が問題のときには同類だが、色が問題のときには赤い四角と赤い円が同類になる。複雑な社会経験においては、「似たような」状況でも常に新たな要因がつけ加わっており、全体的な定位は類似の判断に大きな影響を与えうる。よきカトリック教徒は聖職者を導き手と感じる。よきマルクス主義者は聖職者と詐欺師を同じものだと感じる。我々の手段選択の多くは比較に基づいてなされるので(鋲つきの椅子のなかで鋲がついていないように見える椅子を選んで坐るように)、定位、手段選択、「訓練された無能力」は相互に絡み合っている。


 一般的に、出来事は「顕著なもの同士の連鎖」によって性格づけられる(ベルを餌と受け取るパヴロフの犬のように、顕著なベルの音が顕著な餌の経験に結びつく)。こうした性格が蓄積され、相互に働き合うのが定位である。それは予期の基本となる――性格には過去、現在、未来がはめ込まれているからである。いまここにあるしるしは未来への約束をもたらす過去からの意味をもっているかもしれない。このように、定位とはいかに物事はあったか、現にあるか、将来あるかについての判断の束である。出来事の性格とそれに応じた反応は、我々の形而上学と振るまいとの総体的な関係を明らかにする。というのも、世界がどのようなものであるか言うことには、世界がどうなるかについてだけではなく、そうするために我々はどんな手段を用いるべきかについての判断が含まれているからである。