ケネス・バーク『恒久性と変化』8(翻訳)

.. 第二章 動機

 

動機はより大きな意味の枠組みの下位区分である

 

 AがBに非常に悪感情を抱いているのを観察する精神分析医が私だと仮定しよう。更に、Aは古風な道徳を守っており、彼のBに対する憤りは常に道徳的義憤の形を取っている。AはBが非常に卑劣なことをしたと言う。それらのことはAに個人的には関わらないが、Bがそうしたことをするのを見るといらいらするのだとAは言う。Bの振る舞いは、そんな見下げ果てた人物は見るに堪えないということ以外には、Aになんら直接に関係することはない。Bは妻と子供を虐待している。なんらかの裏取引に関与している。あれこれのことを目撃したと友人に嘘を言う。AはBのことを夢に見るほど嫌っている。例えば、Aは事務所の社員がみんな集まって、不愉快な人物は解雇すべきだと要求する夢を見る。そこだ――精神分析家として、私は最後の部分に注目する。更なる質問の結果、BがAの地位にとって侮りがたいライバルとなりそうなことを私は知る。精神分析家として私はようやく落ち着く。Aの道徳的義憤の真の動機、Bの仕事ぶりへの恐れを私は見いだした――Aがもちだす説明は、単なる合理化と見なされる。


 Aとは対照的な動機の解釈をする精神分析に疑問を抱く者にはこれはまずい例だと思われよう。Aはすべてを道徳的義憤、客観的で公平な判断によるものだと説明している――夢の細部は無意味なものとして無視すべきである。精神分析家はライバル関係自体が問題のありかを示しており、夢は、特に似たようなパターンを示す夢が他にもあるなら、ほぼ結論を示している。(ちなみに、パターンの類似を探りだすことは精神分析の象徴理論に必要とされる。夢は互いに似ていない。大きな多様性を示しており、解釈の枠組みによってそれらに共通するテーマを明らかにする必要がある。この点について特に重要なのは、転移の理論であり、それによれば、Bは彼と結びつくようななにか、帽子とか、机とか、似た走り方をした走者等々によって象徴化されうる。)我々自身が関与していない事柄についても、精神分析的な動機の理論を用いて、他人が自己欺瞞で我々を欺いていると言われがちである。それゆえ、精神分析の解釈にも様々な理論があり、互いに激しく対立し合っていることを思い起こすのもいいことである。更に、経済的精神分析とでも言うべきマルクス主義者が嘲笑をもって示すところによれば、フロイト派の言う性的合理化や個人主義神経症は、我々の動機の「真の」中心にある経済的事実や階級闘争からの後退や逃避として解釈されることは明らかなのである。こうした定位の転換は(それぞれが異なった動機の理論をもち、それに伴う異なった自己欺瞞の理論をもつ)、ある学派の合理性は他の学派には合理化であることを示している。


 我々の仮定したAが前フロイト的な動機の用語法で育ってきたとしよう。彼の育った社会では、行動は規定されていて、禁止のルールがあり、それに従った動機の用語法がある。なにをすべきか、すべきでないかだけでなく、行為の理由についても条件づけられている。自分の態度について説明しようとするとき、当然彼は自分の集団の言葉を用いるだろう――彼の言葉や考え方は社会的な産物でなくて何であろうか。グループによって受け入れられている動機を自分のうちに発見することは、グループの言葉を使うのと同じことである。実際、動機についての用語法はコミュニケーション一般に従属する一側面ではないだろうか。ここには現実原則と区別されるような快感原則は含まれていない。ある振る舞いをグループで使われている動機の用語で説明することは、受け入れられている尺度に問題を当てはめることで、自己欺瞞的である。自分の知っている唯一の用語法で解釈しているに過ぎない。すべきこととすべきでないこと、ほむべきことと責められるべきことを含んだ自らの定位を述べているのである。


 もちろん、義務と徳の図式が固まってから生の条件が根本的に変わってしまったとすると、定位の有用性は損なわれるかもしれない。我々の義務は、かつてのように目的に対して有用でなくなるかもしれない。もはや義務に確信がもてなくなり、結果として動機にも確信をもてなくなるかもしれない。そのときには、義務の観念がよりしっかりと状況に適合していたときよりも、新たな動機の理論に対してより開かれた姿勢を取るかもしれない。