マクタガート『存在の本性』(途中まで)

第一巻 序

第一章 序

 1.この本で私は、存在するすべてのもの、あるいは、全体としての存在に属する特徴についてなにが明らかにできるか考えてみたい。また、我々に経験的に知られている存在の多様な側面に関する一般的特徴から、理論的、実際的などんな帰結を引きだすことができるかについての考えることになろう。*

*最初の探求はこの巻の第二巻、三巻、四巻に含まれる。第二の探求は次の巻の第五巻、六巻でなされるだろう。

 存在物は、一見したところ、実在の一種だと考えられる。存在しない実在があるという立場は認められるとしても、存在するあらゆるものは実在でなければならないことは普遍的に認めらる。我々が考えるべき第一の疑問は、実在、あるいは存在ということでなにが意味されているかである――二つの言葉は、一般的には等しいものとして使われている。


 2.実在は定義できない。「なんであれあるものは実在である」という命題は、真であるかもしれないが、実在を定義する、あるいはそれを別の面から明らかにする助けとはならない、というのも、「なんであれあるものは」の「ある」には存在が含まれ、存在は実在と同じだからである。しかし、この命題は、同語反復ではあるが、実在の広範囲な意味の広がりをもたらすので、無益だとは思われない。
 実在はなんであれあるものは実在だとは言いうるが、定義できない特徴のものである。その語の表向きの意味は普遍的だといいうるが、それは非実在の述語が矛盾だという意味ではない。実際、非実在の述語はしばしば正しい。三角形の四つ目の角や1919年のロンドン公はどちらも非実在である。*

*ある三角形の四つ目の角は、もし我々がなにかしら真であるような述語を加えるなら、実在となるに違いないと反論される。かくして、非実在の述語が自己矛盾しているのだろう。しかし、これは私には誤っているように思われる。なにかについてなんらかの述語をつけるためには、私はそのものの観念を持たねばならず、観念は――私の精神における心的な出来事として――実在でなければならない。しかし、こうした角についての真の観念は角の実在を含んではいない。この問題は第六巻で論じることになろう。


 3.実在は曖昧な語だと思われてきた、つまり、もしなにかが実在だというのなら、それ以上のなにかをいうのでなければ、なんら限定的なものをいったことにならない。ガンプ夫人が実在かどうか言う前に、何が問われているのかを明瞭にしなければならない。彼女は我々の日常生活のなかでは実在でないかもしれないが、ディケンズの小説の世界では、おそらくは私の夢の世界では実在かもしれない。
 もちろん、誰で選択の自由があり、実在をそうした意味で使うことができ、そうした意味においては、目覚めている世界でも非実在のものはあり得、虚構や夢の世界でも実在のものはありうる。こうした語の使用の間に、私の採用してきたものがあり、そこには真と偽の問題は存在せず、ただ便宜と不便宜の問題だけがある。私に明らかに思われるのは、私が実在と呼んできた性質が存在することで、通常適用されているそうした性質を持ったものとして用いることがより便利だということである、この意味において、ある事物は実在でも非実在でもなく、どんな資格からも独立している。ガンプ夫人についての私の夢は、もちろん、実在であり――ある特殊な「世界」においてのみではなく、絶対的にそうなのである。しかし、ガンプ夫人そのものは、ある人間が別の人間の夢の一部であることはできないので、夢のなかで実在ではない。また、私が夢を見ている間思っているように、夢ではない世界で彼女は実在ではない、夢の間の私の思い込みは間違いだからである。(もちろん、いま私が目覚めていると思っている世界は夢であり、夢と思われていたものが目覚めた世界であるかもしれない。そのとき、ガンプ夫人は実在であり、私が五分前に見たと思っている男は非実在であることになろう。)


 4.私が承知している意味での実在は、程度を認めるような性質ではない。ある事物は、多かれ少なかれ、これもまた実在であるもの以上に実在であることはあり得ない。実在は程度を認めるといわれている。しかし、それは二つの混乱のうちのどちらかをたどっていることから可能になり、それらが取り除かれれば、実在に程度がないことは明らかになるように思われる。
 ときに、実在は力と混同され、ある事物は他の事物により力を及ぼすためにより実在だと言われる。しかし、力と実在とはまったく異なっており、より力を及ぼす事物は、それより力を及ばさないものより実在ではない、ということはない。
 また、ときに、実在の程度の可能性が真理の程度の可能性に基づいているように思われる。たとえAがXでないとしても、それをYと呼ぶよりはXと呼んだ方が実在の本性を誤解することがより少ないかもしれない。そしてこの場合、両者とも完全に正しいとはいえないが、「AはXである」というのは不正確かもしれないが、「AはYである」というより真であるというのが通常なのかどうか。そのとき、「AはXである」というのが「AはYである」というより真であるので、AXはAYよりも真であるといえると思われている。たとえば、宇宙は寄せ集めでできているというより有機体だというほうが正しいのなら、有機的な宇宙は寄せ集めの宇宙よりも真だと思われる。しかし、それは間違いである。「AはYである」よりもAの本性について間違ったことをあらわしているかもしれないし、「AはXである」はAはXであるが真でなければAはXでないとなり、AXは真でもなんでもない。宇宙が有機体であるというのが真ではないなら、実在性をもつ有機的宇宙など存在しないことになる。


 5.我々は実在の無限定な概念を確かめることには成功したように思う。しかし、存在についてはどうだろうか。実在を用いて存在を定義することができるだろうか、あるいは、存在は実在と同じように、無限定なものだろうか。無限定だといわれねばならない、と私は考える。実際、我々は実在が存在を含むような事例をいうことができる。もしある実体や出来事が実在なら、それは存在する。ある男、テーブル、戦い、くしゃみは存在によってのみ実在であることができる。そして、存在する実体や出来事の諸性質や関係もまた存在し、それら存在する性質や関係の性質や関係もまた存在し、以下無限に続くと思われる。ソクラテスが実在なら、彼が存在するのみならず、知恵という性質、ネロより道徳的にすぐれているという関係、その知恵をアリストテレスと比較したときの量的な関係がある。しかし、他方において、知恵の性質、優劣の関係そのものをとりだし、特別な存在に属するものでも結びつくものでもないとすると、実在はするにしても、存在はしないことになる。また、「ソクラテスは賢い」という命題(その一方に賢いソクラテスという人間を、他方にソクラテスは賢いという私の知識の心的な出来事を区別すると)は、実在はしても存在はしない。
 存在するものの特徴それ自体が存在に分類されるべきかどうかはおそらく疑わしいだろう。しかし、もしソクラテスが存在し賢いなら、彼の知恵が存在することを否定するのは不合理なことになろう。そして、彼の知恵は賢いという彼の性質でしかなくなる。同じように、ネロに対するソクラテスの道徳的な優位性は存在しないのだろうか。それはソクラテスがネロに対してもつ関係でしかない。
 この場合については、真の知恵は存在もするし、しないものでもあると反論されるかもしれない。ソクラテスの性質としては存在するが、一般的な性質としては存在しないだろう。しかし、次の章で見るように、いかなる性質や関係も存在と離れて実在であるかどうかは確かではない。たとえ、性質や関係が、存在するものの性質や関係のように存在し、一般的な側面においては存在しないのだとしても、それが我々の見解に対する反論となるとは思えない。性質と関係は実体とは非常に異なったもので、実体が存在もするし存在しないということがあり得ない事実は、性質と関係――普遍的で、実体がそうであるように特殊なものではない――がある側面では存在し、別の側面では存在しないことがあり得ないことを証明しない。
 かくして、我々はどのような場合に実在が存在を含むかを知っているが、それは存在の定義を与えてくれない。我々が実体を定義しようとするとき、その定義の一部に存在の概念を組み入れる必要があるだろう。そして、出来事もまた実体のクラスに見いだされるもので、出来事の概念にもその定義の一部に存在の概念が必要とされるだろう。存在物の性質や関係の概念、そしてそれらの性質や関係の概念も、実体の概念を導入することなしに定義することができないのは明らかである。かくして、実体や出来事、そしてその性質や関係によって存在を定義しようとする試みは、悪循環を含むことになろう。
 しかし、実在が存在を含むという言明は、定義としては悪いものだとしても、説明には価値がある。実体、出来事、特徴(1),命題の概念は容易に例をあげることのできる概念で、より抽象的な存在の概念よりも我々にはずっとなじみがある。であるから、存在が実在する実体、実在する出来事、そしてその特徴に属するときにはより明瞭になるが、特徴一般や命題も実在であるべきだが、特徴一般でも命題でも、明瞭になることはない。

(1)性質と関係に共通する名前として特徴という言葉を用いている。両者に共通する名前があった方が便利であるし、他に適当なものが見当たらない。性質では可能だが、関係が正確に何者かの特徴だといえないのは確かである。しかし、後に見るように、あらゆる関係はその各々の項において、その項の特徴である関係的性質を生みだす。関係は、かくして、どれかひとつの項の特徴とはいえないまでも、その項それぞれの特徴であり、このことがそれを特徴と呼ぶことを正当化することになろう。


 6.しかし、存在しない実在がなにかあるだろうか、あるいは、実在が存在を含む種類の事物だけが実在なのだろうか。もしそうなら、実在と存在の領域は一致することになろう。この点については次の章で論じることになるだろうが、私としては、存在しない実在があると考えることになんの根拠もないこと、たとえそうした存在しない実在があるとしても、存在との関係において存在を研究することで、我々は実在の全体を研究することになることを主張することになろう。
 しかしもしそうならないとしても――非存在である実在があり、存在を研究することがすべての実在を研究することにはならないという事態になったとしても――存在の本性は我々の特殊な関心を引くものだろう。というのも、我々の実際的な関心の見地からしても、我々には存在のない瞬間など一瞬たりともないからだ。存在するものに、我々はみななんらかの実際的な関心をいだいている。しかし、非存在の実在をそれ自体において、それが存在にもたらすかもしれないいかなる影響とも独立して、実際的な関心を感じる人間を想定することは非常に困難に思える。(1)

(1)我々は存在だけではなく、存在の可能性についても実際的な関心を持つと言われるかもしれない。私が明日雨が降るかもしれないという可能性に実際的な関心を持つことは確かだが、それは私が明日の天気に関心を持ち、その特徴のすべてをまだ知っていないということを意味しているに過ぎない。明日の天気は存在する、というのも存在は現在と同様未来や過去の述語でもあるからだ。他方において、事実としては雨が降っていないが、振っているかもしれないという可能性についてはなんら実際的な関心を引かない。この二つの種類の可能性の相違については、次の章(35)で論じることになろう。

 純粋に理論的な関心の場合はまた異なる。多くの人々が真理そのものを知ることに強い関心を持っており、この理論的関心は存在する実在についても非存在の実在についても喚起されうる。もしそうした存在があるなら、存在においてもたれるような関心とは異なったものとなるだろうが、非存在の実在にも関心が持たれる。非存在について我々が望むのは、実在の本性とはなにかを知ることである。それが存在に影響を与える場合を除けば、その本性がどうであろうと我々には関係がない。もちろん、存在に影響を与えるかぎりにおいて、我々はそれがどんな本性をもつか知ろうと望む。たとえば、その本性が我々の知識を制限し当てにならなくなるようにするものでなければ、知識は、もし実在ならば、存在であるので、そうした望みはもっともなものとなろう。
 そのとき、たとえそれが存在しなくとも、我々は実在に関心を持つことができる。しかし、その関心は知識それ自体のためだけのものである。他のすべての関心事――たとえば、幸福、美徳、愛などにおける――は存在に限って扱うことになり、かくして、その研究は我々にとって特殊な重要性をもつのである。

 

第二章 実在と存在

 7.さて我々は、存在しない実在が何かあるのかどうか、あるいは、他方において、実在する事物だけが実在が存在を含むようなものであるのか、つまりは、存在と実在の領域とは一致するのかどうか、を論じなければならない。私は、存在しないような実在を保持するいかなる根拠もないこと、たとえそうした非存在の実在があるとしたら、存在を研究することで、存在との関連において、実在の全体を研究することになることを主張しようと努めるだろう。
 存在することなく実在すると主張される事物の多様なクラスを分けて考えねばならない。第一に、命題は存在することのない実在だと主張されてきた。命題は「ソクラテスは賢明である」あるいは「九九のかけ算の表は緑である」などによって実在を意味し、それは一方では、ソクラテスは賢い、あるいは九九のかけ算の表は緑であるといった誰かの信念(もちろん、その信念は存在しているだろう)とは区別され、他方において、命題がそこからつくられる存在する事物――第一の例でいえば、ソクラテスの存在――と区別される。第二に、特徴は存在のない実在となり得るといわれている。そして、最後に、可能性は実在ではなるが存在しないと言われる。


 8.命題から始めよう。その実在に関する議論は、真あるいは偽である心的状態があり、その真あるいは偽は、それが真の命題であるか偽の命題であるかによってのみ決定されうる、というものである。
 そのそれぞれが真か偽でなければならない心的状態があることは疑問の余地はない。確かにそれは信念であるが、あらゆる信念は真か偽でなければならない。信念以外に、推定もある。(1)もし私が「スミスは禿げである」と主張すれば、それは信念である。しかし、私がスミスは禿げであるとは主張せず、彼が禿げであるかどうか考えるだけか、あるいは、「もしスミスが禿げならば彼はカツラをつけているに違いない」と主張したとするなら、私はスミスが禿げであることに信念を持ってはいないが、「スミスは禿げである」という推定を行っている。この推定はスミスが禿げであるかないかによって真か偽になるが、主張ではないので、真であっても知識とはいえないし、偽であっても間違いではない。

(1)ここでの推定は、見られるように、マイノング博士の――と同じ意味で使われている。

 しかし、真や偽の信念や推定の実在は真と偽の命題の実在を含むのだろうか。このことに関しては信念に適用される考察は推定にも当てはまるので、簡潔にするために、信念のことだけを語ることにしよう。


 9.信念を真にするのは何であろうか。信念の真理は他の信念との一貫性、あるいはその完全性、それが体系的な性質を持つことなどにあると主張されてきた。こうした見解はすべて間違いなのは明らかだと思える。そうした特徴、あるいはそのうちのいくつかは真理の評価基準となるかもしれないが、信念を真にすることはできない。もし私が「テーブルは四角である」といったなら、私の主張を真とするのはテーブルが四角であること――つまり、テーブルが四角という性質を持つという事実である。一貫性、完全性、体系的性質によって真になり得る信念とは信念Mが一貫しており、完全で、体系的だという信念だけである。
 同じように、我々はあらゆる信念を真にするのは、知っている主体との関係だという理論を退けねばならない。私の信念が真であるのはそれらが私に働きかけ、私に満足を与え、私にとって自明であるからだといわれる。そうした特徴は、そのいくつかは真理の判断基準になるかもしれないが、信念を真にすることはできない。知っている主体に関連して真となる唯一の信念とは、その主体に関する信念だけである。そして、私に働きかけることで、あるいは私の本性を満足させ、私にとって自明なものとなることによって真となり得る信念は、信念Mが私の働きかけ、私の本性を満足させ、私にとって自明なものであるという信念だけだろう。(1)

(1)かくして、ある信念がその一貫性、私の本性を満足させることによって真となり得る唯一の事例は、それ自体が一貫性があり、私の本性を満足させるという信念の場合だけだろう。ほとんどの信念はそれ自体に関するものではなく、なにかについてのものである。「私のすべての信念は私の本性を満足させる」という信念は、それ自体に加え、他のものが混じっている。「私が抱くであろう最後の信念は私の本性を満足させる」という信念は、もしその信念が私が最後に抱く信念であるならば、それ自体の他には何も含まない信念である。


 10.信念の一特徴としての真理は、信念が関わる関係として定義され、それは事実と対応した関係であると思える。事実は、何らかの性質を持つ存在か、何らかの関係によってなにかと結びついているものとして定義されよう。(この定義において私は「なにか」と実体と特徴の双方を含むものとして用いている。)事実は、ある事実が関連する事物が存在するときに存在する。かくして、テーブルが四角であることは、それに関する信念とは異なる事実であり、私の精神における出来事であり(1)、それに関する命題は、我々が対立していても真であると主張される。

(1)「テーブルは四角である」という信念は、もちろん、それ自体一つの事実である。この事実に関連して、さらなる信念「私はこのテーブルが四角であるという信念を持っている」が真となるが、状況がこうした更なる主張へと私を導くのである。

 真理の定義の他の要素は更なる定義を認めない。次の巻で、我々は存在の特徴を関係と定義できないことみることになろう。対応という特徴もまた定義不可能だと思われる。真理を構成する対応がいかなる種類のものであるか尋ねても――というのも、すべての対応が真理を構成しないであろうから――我々は特別な対応を定義することはできないことを見いだす。さらに記しておくならば、我々は他の例を出すことさえできない。真理と関係する対応の類いがあるというだけである。


 11.真理は事物がある関係として真であり、それらが持つ性質によってではないといっても正しいのだろうか。後の見解を好むなら、真理は単に信念によって肯定されるともいいうる。我々は信念以外の項目になんら言及することなく、信念は真であるという。確かにそのとき、真理は信念とそれ以外の項目との関係ではあり得ない。
 間違いなく、ある真の信念にはある性質があり、それはどんな真の信念でも持っているものである。しかし、ある信念は、我々が語っている何らかの事実と対応した関係があるので、その性質を持っているだけである。信念が持つ関係に、あるいは関係から生じる性質に真理の名を与えるのかどうか、は単に便宜の問題でしかない。関係は論理的に性質に先行するので、関係にそれを与えた方がいいように思われる。信念は性質を持つために、関係をあらわすことはない。それは関係をあらわしているために性質を持っている――実際、その性質は関係の項であるという性質に過ぎない。それは根本的に重要な性質であり、それゆえ、特に対応の特殊な種類の名前がないようならば、真理という名が伝えるものよりもより便利である。
 その性質が知られている信念の場合には、なにものかとの関係をあらわす項だというだけで十分である。ここの信念がもつことのできる関係はただ一つの項であり、信念がなんに関するものかわかっているときにはその項が何であるかを知っているので、他の項を特定する必要はない。「テーブルが四角である」という信念が真であるならば、それは一つのもの――テーブルの四角さ――にしか対応し得ない。テーブルが四角であるという信念はテーブルの四角さにおいて真であるというのは余計なことだろう。かくして、いかなる個別な事例においても、ある項目が関係にあると言及することは余計なことであるから、真理は関係だという事実は背景に溶け込む傾向がある。しかし、このことは関係をより実在から遠ざけているわけではない。


 12.真理は事実とのある対応で成り立っているという我々の理論は、対応ということはそれ以上定義することのできないものだが、真理は事実との類似から成り立っているという理論と混同するべきではない――この見解はときに真理の「複製理論」とよばれるものである。類似は一つの対応ではあるが、すべての対応が類似ではないし、真理をなす特殊な対応は類似ではない。また、それは類似を含まない。もちろん、あらゆる事物は何らかの点においてあらゆるものに類似しているので、すべての真なる信念はある程度、信じられる事実に似ている。しかし、信念と事実には特殊な類似はない。もし私が真にAが男性だと信じているなら、私の信念は女性や子供の性質以上に男性である性質とより大きな類似性をもってはいない。Aが男性であるという信念は、Aが女性であるかもしれないという信念より以上に大きな類似性をもっていない、最初の信念は真であり、第二の信念は偽であるだろうが。
 同時に、真理の複製理論は我々が採用した理論と重要な共通点をもっていることも認めなければならず、もし我々の理論が真であるなら、複製理論は他の様々な理論よりもより真理に近いと考えられる。というのも、複製理論は信念の真理をその事実との関係に依拠しており、その関係を対応の関係としているからである。問題になっている対応の特殊な関係が類似だとする点では間違っているが、対応を考えている点では正しい。


 13.この場合、対応が類似だと想定されたのには二つの理由があるように思える。第一に、多くの思想家は何らかの新鮮で究極的、そして定義し得ない概念を求めたがる――この望みはしばしば非常に有益だが、容易に行きすぎてしまうこともあり得る。そして、類似関係の実在は否定し得ないので、真理―対応の関係が類似として捉えうるなら、定義し得ない概念の数を減らすこともないだろう。第二に、真の信念は我々に信念の対象について情報を与え、類似した事物の性質から我々はそれに類似したものの知識を得ることができる。それはどちらの場合も関係は同一だという結論からすれば、非論理的ではあっても不自然ではない。
 しかしながら、真理の複製理論をもっていると非難される思想家のなかには、実際には、信念の真理はその事実との対応にかかっていると考えているだけのものがあり、批判者は、主張される対応が類似の対応しかあり得ないと想定することにおいて間違っている場合もあるように思える。
 我々が採用する真理の理論は、複製理論と同一視することはできないにしても、真理の絵画理論にある妥当性を認めているとはいえるかもしれない。というのも、絵画は描かれた対象について情報を与えるにしても、対象の正確な複製ではないからである。絵画は、二次元の表面上に、非常に異なった大きさの二つの形を含みうる。そしてそこから、描かれた二つの対象が、それぞれある距離を保って立っている大きさのほぼ等しい二つの三次元の人間の身体だということを学ぶことができる。
 我々の理論が絵画理論と呼ばれるもので説明されるといっているわけではない。というのも、忠実な絵画がその対象に与えている関係を説明するためには、我々はそれが表象されているといわねばならないからである。そこには絵画が我々に対象についての知識を与えてくれることが含まれていると思われる。かくして、知識の概念、つまり、真理の概念は真理の説明を説明することを要求する。しかし、絵画とその対象との関係は、真理の関係を説明するものではないとしても、見いだしうる妥当なたとえだと思われる。


 14.さて、もし我々が信念の真理によって意味されるこの理論を受け入れるならば、信念の真理は真である命題への対応を含むと考えることになんの根拠もないと私は主張する。ある信念の真理はなにかに対応することを含むという命題が主張するところには同意するだろう。しかし、あらゆる事例において、信念の真理は事実との対応を含み、それ以上の、命題との対応を必要とはしないということだろう。
 命題の実在を支持するものも、あらゆる真なる信念が事実に対応しているということを否定はしないだろう。あらゆる信念は何ものか(その最も広い意味における「何ものか」)が性質を持つか、関係によってなにかとつながっているかを主張する。もし信念が真であるなら、その事物は性質を持つか、関係によってなにかとつながっている。そうした性質を持つことや関係によってつながっていることは、我々の定義に従えば事実である。もし信念が真であるなら、それは事実と対応しているだろう。それはまた真である命題と対応しているかもしれないが、そのときそれは二つの対応物――真である命題と事実――をもつことになろう。そのとき、命題の実在を信じることにどんな根拠があるのだろうか。命題の実在として与えられる唯一の根拠は、何らかの信念があるに違いないということだった。我々の理論はそれを認め、認められた事実との対応に依存している。命題による更なる対応がなぜ必要なのか、なんの根拠を与えうるのだろうか。


 15.この更なる対応が必要とされるには二つの理由が考えられているが、どちらも満足のいくものとは私には思えない。第一は、多くの事物はそれについて決して考えていられなくとも真である、ということにある。第二は、あらゆる真理は無時間的なものだという主張によっている。
 あらゆる蓋然性において、多くの事物が決して知られることもなく推定されることがなくとも真である、といわれる。たとえば、キリストの死からアン女王の死のあいだにこの惑星に生まれた蚊の数を取ってみよう。こうした問題について、いかなる人間が信念や推定を持つ機会があろうか。もし何らかの信念や推定があるなら、それが真であるどんな偶然性があるだろうか。だが、もし尋ねられたら、真である蚊の数があるに違いないということを我々は否定できるだろうか。もし命題がないならば、信念や推定の他にこの数について真でありうるものはない。結果的に、信念でも仮定でもなく、命題の実在を証明する真理があるという事実が残る。
 このことに答え、もし命題が実在でないなら、あらゆる事実は何らかの精神に現前しなければならないが、あらゆる事実についての真なる信念を受け入れる全知の存在に頼った命題の実在は避けようとする。(1)しかし、たとえそうした全知の存在が証明され、何ものも知られることを避けることがあり得ないことが確かだとしても、命題の実在を信じるものは沈黙することはないだろう。というのも、彼らの反論はより根本的な形を取り得、こうした方法では捉えることができないからである。たとえあらゆる真理が知られているとしても、真理が知られることに依存しているということは確かではないではないか、と彼らは尋ねることができる。「XはYである」は私が真の信念を抱いているから真なのではない。私が抱く信念が真なのはXはYであるが真だからである。かくして、全知の存在があらゆる真理は信じるべきだと保証したとしても、真理は信念からは独立している。もしそうなら、信念以外の真なる何かがある。真理は客観的なものであり、事物は真であると信じることによって真とはなり得ない。

(1)真理の蓋然性が知ることに専念した存在に依存していることは満足のいくこととは思えず、赤は緑ではないという真理のみならず、赤が緑ではないことが真であるという真理、赤が緑ではないことが真であることが真であるという真理、とどこまでも無限に後退してしまうからだ。そうした信念は後退が進むにつれて意味合いや重要性が減じ、結果的に、その意味合いや重要性においてどれほど低いものであろうと、こうした信念の割合に比較すれば、ずっと大きなものとなってしまうだろう。
 全知の存在がいるとしても、こうした方向に進む必要はない。というのも、もしあらゆる実在が存在するなら、その知識は直感的なものであり、全知の存在は、論述によるのではなく、直感的な知識(ある意味知覚に類した)によってすべてを知り、すべての真理を――あるいは実際にはいかなる真理をも――信じる必要はないからである。そして、この種の知識を持つ全知の存在が上述したような難点に陥ることはないだろう。


 16.間違いないのは、我々が採用した理論から導き出されるのは、心的状態以外に真は存在しないということである。しかし私は、この帰結を主張しても、批判に耐えられないような結果が生じてくるとは思えない。というのも、この理論では、信念から独立した真理は存在しないが、信念から独立したなにか――信念に対応する事実――はあるからである。命題がそれを信じているものによって主張されているように、こうした事実も信念とは独立しているが同じ立場にあり、その真理を決定する。自己中心的であるが、その自己中心性を自分自身や他の人間に疑われ、感じられている男を例に取ろう。そのとき、「Xは自己中心的である」というのは真の真実ではないかもしれないが、Xの自己中心性は真の事実かもしれない。彼の自己中心性が知られていると想定すると――全知の存在か誰か他のものによって――彼の自己中心性に他する信念の真実は、いかなる命題に依存する必要もなく、彼が自己中心的であるという事実に依存することになろう。
 かくして、難点とされているものは消え去ると思われる。そこでの厳正な要素とは、真の信念にとって本質的なのは、それがなにものかに対応しているという真実に依存しているという事実である。そしてそれは、事実との対応によって満足される。真理がそれそのもの以外の真であるなにかに依存する必要はなく、そうした必要性を想定するのは、敵対する反論を厳正ではないとするためである。
 我々の理論に対する反論として言われる、真だと信じられる、あるいは想定されることによって真になるというのはあり得ない。信念や想定なしには何ものも真とはならないと論じられるなら、「XはYである」はそれを真であると信じる、あるいは想定することで真になることになろう。しかし、ここには曖昧さがある。「真であると信じることによって真になる」というのは、信念が真理について本質的であることを意味するのだろうか、あるいは、真理について本質的なことがそれですべてだということを意味するのだろうか。第二の意味に取るならば、物事は真であると信じることによって真にはなり得ないことを認めなければならない。第一の意味に取ったときにのみ、我々の理論は物事は真であると信じることによって真となることを含むことになる。
 ある主張が信じられるという単なる事実によっては、それが真であることに求められるすべてではないのは確かである。そして、我々の理論は、それが求められるすべてだといいはしない。反対に、ある信念が真であるためには、それが事実と対応することが本質的であるという。そうでなければ、それは偽となろう。そこで、我々の理論は何ものかについての信念がそれを真だとするに十分であるとは主張しない。それが信じられなければ何ものも真ではないことを主張するが、信じられる以外に、事実と対応しなければならないことが理解されたときに、擁護できないことがなくなる。


 17.第二に、真であるものは何であっても、無時間的に真であり、この事実が命題を掛け替えのないものとし、それらにおいて、それらにおいてのみ、その無地感性は見いだされるからである。すべての信念は間違いなく時間のうちにあるので、それを事実についての信念に見いだすことはできない。また多くの事例において、信じられる事実はしばしば時間のなかにあるので、そのなかに見いだすこともできない。ワーテルローの戦いが1815年にあったことは無時間的な事実だと言われる。戦いそのもののなかにも、あるいはそれについての誰かの信念のなかにも、それらはいずれも時間のなかにあるので、無時間的なものは何も見いだすことはできない。しかし、命題が真であるなら、それは非存在であり、存在物以外の何ものも時間的なものではあり得ないから、それらは確かに無時間的である。ここにおいて、ここにおいてのみ、必要性のある無時間性が見いだされ、それゆえ、命題は実在となるに違いない。
 この見解の支持者は、真の命題に対応する信念は、時間のなかにあったとしても、正当に真と呼びうるだろうことを否定しないだろう。しかし、彼らはそうした信念の真理は単に派生的なものであり、命題との対応に依存しているということだろう。究極的な真理は命題の真理であり、真理の無時間性は命題の無時間性によって救われるということになろう。
 しかし、あらゆる真の主張は無時間的な真であるというのは確かだろうか。あるときには真であり、別のときには真ではないといった無時間的真がないことは確かである。そして、あるときには真であり、別のときにはそうではないなにかを一見したところ主張する信念もある。「私は空腹である」という信念は私の信念を完全に曖昧なところなく表現しているとしても――真であるときもあり偽であるときもあり、それゆえ、真であるときにも、無時間的な真を主張することはできない。こうした結果を避けるために「私は空腹ではない」という意味から説明しようとするものもある。この説明に私は同意できないが、その点はここでは十分に論じることはできない。(1)

(1)第五巻で論議されるだろう。そこで待ち受けるこうした、または同類の問題は、時間が非実在であり、その結果何ものも変化しないという理論を含むものとなろう。しかしそうした結論は、いま論じられている無時間的な命題の論議に助けとはならないだろう。というのも、無時間性に逃げ込む命題を要求する議論は、信念には見られないものだからである。それゆえ、その他諸々とともに、信念が無時間的だということが最終的にあらわれるなら根拠がないことになろう。


 18.また、それはいまの議論になんの影響ももたらさないので、論じる必要もない。何らかの信念が主張されたものは真であるときもあり、偽であるときもあり得る。しかし、大多数の信念が主張されたものは、真であることもあり偽であることもあることがないのは確かである。何らかの信念があるときにはこれを、別のときにはそれを主張するのは、過去、現在、未来への何らかの言及を含んでいるからでしかない。その他の信念はすべて、時間に言及する主張もなく、真や偽であるなにかを主張している。「1815年のワーテルローの戦い」は戦いの間は真の信念であるし、それから百万年たっても思い起こすものがいれば真であろうし、百万年以前にも、そう予言するものがあったのなら真であったろう。
 しかしながら、こうした信念が常に真だといってはならず、同じ信念が異なった離れた時間に存在しうるとき、真でないこともあるからである。信念は人間の精神にある心理学的事実であり、私の信念があなたのと同じであることはあり得ないし、自分のものでも次の年には同じものであり得ない。我々はむしろ、そうした信念は、それらが形成された時間とは関係なしに、真あるいは偽であるといわなければならない。そのことから、Xにたいする信念が真あるいは偽であるなら、Xに対するそうした信念はそれがいつ作られたとしても、すべて真か偽になるであろう。(1)

(1)同じものについて二つの異なった信念がある場合のことを尋ねられるかもしれない。我々がいま考察している真の信念の場合には、答えは単純である。その真実が同一の事実と対応しているなら、二つの信念が同じ事物に信念としてあることになる。信念が偽であるとき、それによって何が意味されるかについては、21で考察することになろう。

 しかし、このことはそうした信念が無時間的な真の命題に対応すると結論することを正当化しない。もちろん、無時間的な真の命題があれば、そうした命題についてのあらゆる信念は、それらがいつ作られようが真であることになろう。しかし、逆のことはいえない。いつつくられたものだろうと真である信念があるとしても、それらが無時間的な命題、あるいは無時間的ななにかに対応していなければならないとはいかない。主張Xがそのように事実に対応しているという信念が真であるなら、同じ主張であるあらゆる信念は、その主張が過去、現在、未来への言及を含まない限り、いつ作られようとも、真であることになろう。ワーテルローが1815年に起こったという信念は、いつ作られようが真であり、それを守るために無時間的ななにかを必要とはしない。同じ事実を指し示すあらゆる信念によって守られており、過去、現在、未来に言及されることもない。


 19.そこで、真の信念の真実が真の命題との対応に基礎づけら得ていないことが可能であり、その限りにおいて、我々は命題の実在を信じる根拠を見いだすことがない。しかし、間違った信念の場合はどうだろうか。そうした信念は間違いなく存在し、間違った命題に対応していることによって偽なのだといいうると主張されている。
 ある信念を偽にするのはなんなのだろうか。我々は信念の真理がその一貫性、完全性、体系的本質、あるいは私に働きかける、私を満足させる、私にとって自明な事実にはないことを見てきた。同じように、信念の間違いはそうした特徴の欠如にはないことも明らかであると思える。それらの特徴の一つの不在が間違いの判断基準にはなるかもしれないが、それが間違いを構成するのではない。
 真の信念がその真理を事実との関係に負うているように間違った信念はその間違いを事実との関係に負うていると思える。もちろん、それは事実との対応関係ではあり得ず、もしそうならその信念は真になるだろう。問題となる関係はあらゆる事実と対応しない関係だと思われる。AがBと対応関係にないならば、それと非対応の関係にある。私が提示するのは、ある信念を偽にするのは、まさしくそれに対応する事実がないことである。もし私が「私のテーブルは金でできている」といったら、それは私のテーブルが持つ特徴と、金であることとが事実ではないから間違っている。もし私が「私のテーブルは木製ではない」といったら、私のテーブルの特徴と木製でないことが事実ではないので間違っている。もし私が「1919年のケンブリッジのカレッジには礼拝堂がない」といったら、1919年のケンブリッジのすべてのカレッジの性質と、そのすべての集団が礼拝堂をもたないというのが事実でないために、間違っている。もし私が「ケンブリッジのカレッジが何であろうと、象であるに違いない」といったら、ケンブリッジのカレッジの特徴と何であれ象であるに違いないものが持つ特徴が事実ではないために間違っている。


 20.この見解に反対して、あらゆる信念は何らかの対象に言及しなければならないと論じられてきた。しかし、このことは二つの真理を混同することから来ているように思われる。その一方は、あらゆる信念は何らかの事実、より特殊にいえば、我々がすでに論じてきた仕方で対応することを主張する。しかしそれは、あらゆる信念は真であることを明言する、あるいは別の言葉で言えば、なにかを信じることはそれが真であることを信じることを意味しているに過ぎない。あらゆる信念は何らかの対象のことを語っていることを公言するが、真であるものに対してのみ実際にそうするのである。もう一つの真理は、あらゆる信念は実際になんらなかの事実あるいは諸事実に関係を持っており、それによって真や偽が決まるとする。これは我々の理論で認められるものである。間違いは関係を混同することから生じ、あらゆる信念は参照されるものと関係を持つが、あらゆる信念はそれを持つことを明言するが、間違った信念ではそうはならない。


 21.我々の理論は、二人の人間が、あるいは異なる時間における同一の人物が、同じものに間違った信念をいだくということになんらかの意味を与えることができるかどうか問われるかもしれない。スミスとブラウンがどちらも地球は平らだと信じているなら、ごく一般的に、彼らは同じ間違った信念をいだいているといえるだろう。それは不正確であり、ある信念は二つの心にはあり得ない心理学的事実であるから、二人の人間が同じ信念を持つことはあり得ない。しかし、ある意味において、彼らが同じものに間違った信念をいだいていることを否定することは不可能である。さて、間違った命題があるとして、我々は同一の命題に彼らが信念をいだいているということができる。彼らの信念が真であるなら、彼らは同じ事実に対応しているということができる。しかし、間違った信念の場合、もし我々の理論が真であるなら、同じ実在に二つの信念が対応することはない。実際、彼らは二人ともすべての事実について非対応の関係を取っているのではなく、同一のものについての信念とは呼べない『ハムレット』をベーコンが書いたというロビンソンの信念については関係を共有している。
 しかし、我々の理論は、二つの間違った信念に適用される「同じものについて」ということの意味合いにおいて完全に満足のいく意味を与えてくれる。二つの間違った信念は、彼らが双方とも同一の事実に対応する信念だと公言したときに、同一のものについての信念である。間違った信念の場合、そうした事実はなく、それゆえ対応の関係もない。しかし、そうした対応を主張することがそうした信念の性質だろう。ある信念は事実との関係においてのみ真や偽であり得るのだが、二つの信念が共通の性質をもつ点において同じものについての信念であるべきではないという理由はない。
 繰り返せば、二つの信念が同じ事実の対応だと公言するならば、その事実の不在はそれらの信念を間違いにする。それゆえ、我々は二つの誤った信念は両者を間違いにする同じ事実が不在であるときに、同じものについての信念だともいうことができる。スミスの信念はこの惑星と平坦であることが実在を欠いているために間違いとなる。ブラウンの信念も同じ不在によって間違いとなる。このことが彼らを結びつけ、彼らをなんらかの異なった不在によって間違いとなった――つまり、ベーコンと『ハムレット』の著者を結びつけるなにか――ロビンソンの信念から区別する。


 22.かくして、間違った信念の虚偽を、間違った命題との対応に基礎づけることなく考えることができ、いまだ命題の実在を信じる根拠をもっていない。真の信念が真の命題に対応しなければならないと結論づけねばならないとしても、間違った信念が間違った命題に対応しなければならないことにはならないだろうということができる。というのも、真の命題の実在は、間違った信念は何ものにも対応しないという我々の結論になんら影響を及ぼすことはなく、もし真の命題があるならば、間違った信念の最良の説明は、それらが真の命題に対応していない信念だからというものであるだろう。この説明は、真の命題の実在に適合しない間違った信念の実在に対するいくつかの反論に対して、付加的に推奨されるものとなろう。(1)

(1)ラッセル『哲学的エッセイ』VII. 176頁参照。


 23.かくして我々は真の信念の真理、間違った信念の虚偽について、命題との対応を導入する必要もなく、満足のいく説明を与えられた。命題の実在が信念に対して与えられることに対して、この対応の必要性以外に――つまり、「命題」が我々の信念とは独立した真、あるいは偽の非存在の実在という意味で用いられるかぎり――どんな理由があるのか私にはわからない。命題の実在という問題は、哲学において存在物の研究を越えたものが必要であるかどうかが問われたときにのみある意味合いをもつ。たとえば、命題が信念の構成物として実在であると主張され、さもないと、存在する事物の構成物そのものだけでは存在することが不可能であり、命題は存在しなくなるだろうと言われるような場合である。しかし、存在しようがしなかろうが、我々は存在物の研究において命題を研究すべきであり、存在する信念の構成物でないような命題などないだろうからである。


〈そして、信念は非存在である諸事実の実在を含むのか。真であろうと偽であろうと、存在する諸事実に関係するものだと公言している信念はこれを含んでいない。〉
 24.我々のここまでの結果は、我々が考察してきた命題の実在を確実に反証することはできないが、その実在を主張する理由がないという結論にいたった。しかし、さらなる疑問が生じてきた。我々は、あらゆる信念が事実、あるいは諸事実との関係から真や偽を生じさせることを見てきた。それらの事実が非存在物であったとしても、それらは事実からなり、命題からなっているのではないにしても、なんらかの非存在の実在であることを主張せねばならなかった。
 しかしながら、なんらかの非存在の事実があり、あらゆる信念の真や偽はすべての事実が存在であるという仮定のもと説明されるという主張には根拠がないと私には思える。
 信念はこの探求の目的のためには二つの種類に分割される――存在する事実に関連することを公言するものと、そうではないものである。もちろん、どちらにも真と偽の信念が含まれている。
 第一の種類の真の信念に関していえば、それらが非存在の事実との関係をなんら必要としないことは明らかである。もし私が「私のテーブルが存在する」、「私のテーブルは四角である」、「1919年のケンブリッジのカレッジにはダイニングのホールがある」といえば、それらを真にするのは、それらが関連していると公言している事実との対応――存在という特徴をもった私のテーブル、四角という特徴をもった私のテーブル、そのメンバーのそれぞれがダイニングのホールをもつという特徴をもった1919年のケンブリッジのカレッジ――である。テーブルやカレッジが存在しないならそうした事実は存在し得ず、それゆえ事実は存在する事実である。
 この種に属する誤った信念には非存在の事実との関係は必要とされないことは同じように明らかである。もし私が「私のテーブルは金でできている」あるいは「1919年のケンブリッジのカレッジにはすべてプールが備え付けてある」といえば、そうした主張は存在する事実と対応するときにのみ真でありうる。もしそのどれかが存在する事実に対応していないなら、それは間違いであり、その間違いは非存在の事実の実在を主張する根拠になるものではない。


〈しかし、存在する諸事実に関係するとは公言しない信念についてはどうか。〉
 25.二番目の種類――存在する事実との関連を公言しないタイプの信念に来た。それらはより困難で複雑な問題を提示する。「完璧さは一つの性質である」、「三角形の二つの辺は常に残りの一辺より長い」などはこの種の信念である。諸事例の要約とは異なる、一般的法則についてのすべての信念もまたそうである。「1919年ケンブリッジのカレッジのすべてはダイニングのホールをもっている」は、すでに見たように、それが我々が受け取る普通の意味において、一般的法則を主張しているわけではないので、第一の種類に入った。しかし、「すべてのライオンは死ぬ」という信念をとってみよう。どんな意味でも、また誰もがこう主張することを正当化され、誰も過去、現在、未来のすべてのライオンの死を観察したわけではないので、個別なライオンの個別な事実をまとめ上げたものではない。たとえライオンが存在しなくとも、真であることを保つ一般的法則に対する信念である。実際、この場合、ライオンの死を観察することをもとにして帰納的に確定することはできないが、あらゆる動物は死ぬという法則を帰納的に確立すれば、そこから、ライオンの定義とともに、すべてのライオンは死ぬであろうし、その結論はライオンが過去においても未来においても存在しないとしても、確実であり真であることだろう。こうした法則は、存在する事実に関するものだと公言しない。実際、それは常に存在する事実との関係から真や偽が引きだされるものなのだろうか。


〈こうしたあらゆる信念は一つの特徴の存在が別の特徴の存在を含むと主張する。〉
 26.存在する事実に関連することを公言しないすべての信念はひとつの特徴を共通にもっている――それらはすべて、ひとつの特徴の存在が別の特徴の存在を含んでいる。(1)

(1)すべての信念を含むことは、ひとつの特徴の存在や不在が別の特徴の存在や不在を含んでいると言わねばならないと言われるかもしれない。しかし、ある特徴の不在は否定的な特徴の存在ともとられ、かくして上の表現は不正確である。
 含意の本性については十二章で論じることになろう。いまのところは、私がこの言葉を通常の意味で用いていると言うだけで十分だろう。

 このことを明らかにするために、「私は幸福である」や「これは赤い」のように、主語が直接的にその主張をする人物によって知覚されているような信念のように、随伴する特徴を主張しない信念を取り上げよう。そうした信念は明らかに存在する事実に関連することを明言するものである。こうした例外を除けば、あらゆる信念は互いに随伴する特徴を主張している。主張されているなにかである主語が特徴であり、それについて主張されているのが別の特徴をもっていることに過ぎないような場合にこのことは明らかである。しかし、主語が特徴ではないとき、それが知覚されないものであれば、諸特徴によって定義し記述されねばならず、定義や記述の諸特徴が主張された特徴に加えて見いだされることになる。「すべての人間は死ぬ」というのは、人間を定義する特徴が死ぬという特徴を除いては決して見いだされないことを意味している。「スミスはジョーンズよりも賢い」というのは、ジョーンズよりも賢いという特徴をもつ実体においてスミスが見いだされ、その特徴によってスミスの同定が可能になることを意味している。


〈前項の続き。〉
 27.しかしながら、諸特徴は一方が他方を含むことなしにも随伴しうる。事実、我々の信念の多くは、含意のない随伴を主張している。たとえば、私は1919年のケンブリッジのすべてのカレッジにダイニング・ホールがあることを知っているが、それはその年のカレッジの特徴がダイニング・ホールをもつという特徴を含んでいるからではなく、事実上、その年に十七のカレッジがダイニング・ホールをもつことを知っているからである。
 包含を含まず随伴を主張する信念が存在する事実に関連することを明言し、こうした関連を明言しない信念を見やるとき、主張されている包含とともに常に随伴するものがあることが見いだされる。ケンブリッジに十八番目のカレッジがあるとすると、そのカレッジは象ではないだろうと主張できるが、それはカレッジであるという特徴のなかに象ではないということが含まれているからである。しかし、それが七十人以下の人間しかいないカレッジやダイニング・ホールをもつカレッジに似ているだろうとは主張できないのは、そうした特徴が1919年のケンブリッジのカレッジであることに含まれないからである。また、幾何学で勉強したように、三角形については、三角形であることの特徴に含まれることしか主張できない。(1)

(1)包含はこうした種類のことで、我々には経験的にしか知られることはない。明日、ウェストミンスター・ホールにライオンがいたとしたら、それは緑ではないだろうと主張できるが、それは、経験的にではあるが、ライオンであることの特徴には緑ではないことが含まれるという信念に対する有効な証拠を私がもっているからである。

 存在する事実に対する関係を明言しないあらゆる信念は、ひとつの特徴の存在がもうひとつの特徴の存在を含むことを主張している。最初にこの種の真の信念について考慮し、それらが関連する事実がいかなる事例においても非存在であるべき必要があるのかどうかを考察しよう。


〈そうした信念は、もし問題になっている特徴が存在するのなら、非存在である諸事実の実在を含まない。〉
28.最初に、「すべてのライオンは死ぬ」という一般的法則を取り上げよう。すでに見たように、これは存在する事実との関係を明言していない。それはライオンであることや死ぬ存在がないとしても、真であるような二つの特徴の関係を主張している。しかし、私にはその真理は存在しない事実との対応に依存していることは明らかなように思える。ライオンであるということと、死ぬという特徴は、それらを持つ存在する実体がなければ存在しない。法則に対する信念は、ライオンであるという特徴が死ぬという特徴を含むか、等価値の事実として、死ぬという特徴がライオンであるという特徴を含む存在の特徴であるという事実に対応した真理に負うている。そうした事実は、それぞれが存在する特徴によって特徴を持っているので、存在する事実である。


〈存在しない特徴はしばしば存在物とのある種の関係によって決定される。〉
 29.しかしながら、この場合、特徴がたまたま存在する実体のものであったために単純な解決が可能になっただけであり、それは、すでに見たように、法則の妥当性にとって本質的なものではない。このように扱うことのできない多くの信念がある――たとえば、「人間はフェニックスよりも価値がある」や「人間はフェニックスたり得ない」など。ここでは人間であることの特徴は存在しているが、フェニックスについての特徴はなんら知るところがないと想定するあらゆる根拠がある。もちろん、フェニックスはいるかもしれない。しかし、人間がフェニックスたり得ないという私の信念の確実性は、この可能性に依存しているわけではない。「完璧にまで高徳な人間は全世界の征服者よりも尊敬されうだろう」といった信念の場合、どちらの特徴を持つ存在する実体も存在せず、それゆえ、どちらの特徴も存在しないこともあり得る。
 間違いなく、非存在の特徴の本性は多様な仕方で、存在する特徴の本性によって決定されるかもしれない。第一に、存在する特徴は、非存在の特徴の一部であるかもしれない。フェニックスであることはおそらく存在する特徴ではないだろうが、鳥であることはそうである。もちろん、このことは非存在の特徴のすべての本性を決定するわけではないが、その部分を決めはするだろう。そして、このことは信念を正当化するのに十分であるかもしれない。人間は鳥たり得ないので、フェニックスたり得ない。かくして、信念の真理は「鳥である」という存在する特徴の本性によって正当化される。
 第二に、存在しない特徴は存在する特徴との関係において決定されるかもしれない。たとえば、部分的な美徳の特徴の本性が与えられれば、それは、少なくとも部分的には、完璧な徳の本性を決定する。かくして、部分的な徳の特徴がかくしたものならば、完璧な徳を持つ人間はアレキサンダーよりも尊敬されるということが導き出されるかもしれない。この場合、信念の真理は存在する特徴の本性によって決定されるだろう。同じ原則はどちらの特徴も存在しない信念に場所を見い出す場合にも適用され――たとえば、完璧な徳を持つ人間は全世界の征服者よりも尊敬されるだろうという信念になるかもしれない。
 もう一度くり返せば、非存在の特徴は別の種類の存在する特徴との関係によって決定されうる。非存在の特徴とは、人がある存在する特徴を知覚したときに、存在すると信じる傾向をもっていることから来るのかもしれない。あるいは、何らかの限定的な間違いが議論のさなかにあっても、その他のすべての議論は論理的に性格である場合のように、その存在そのものが存在する特徴から推論されることもあるかもしれない。
 たとえば、バークレーが正しいなら、空間も直線も存在しない。だが、二つの直線で空間を閉じ込めることができないことは真であり続けるだろう。事物は、確かに、空間的な感覚データであるという特徴を持って存在している。そして、人間は空間的な知覚データを知覚したときに、空間と直線を信じる傾向にある。また、限定的な間違いがそれ以外には正しい議論に紛れ込んだ場合のように、空間と直線の存在は空間的な感覚データから推論されうる。かくして、空間である、直線であるという特徴は、空間的感覚データであるという特徴に結びついており、というのも、後者はその通りの本性をもっており、全二者の本性には、空間であることが。二本の直線によって囲い込むことが不可能であることを含むものでなければならないからである。もう一度いえば、信念の真理は存在する特徴の本性との関係によって定まっている。


〈しかし、そうした諸関係は我々が望むものを与えてくれない。〉
 30.特徴の間のそうした関係は実在であり、重要である。しかし、それらは我々の目的には役にたたないだろう。第一に、真の信念は一筋の道で存在する特徴と関連しているわけではなく、それを得るのにいくつかの特徴があると証明することも困難であろが、そうした関係を持たないなにかがないと証明することも容易なことではないと思われるからである。
 第二に、そうした関係は対応の関係ではない。人間はフェニックスたり得ないという私の信念は、鳥であるという特徴が人間性の特徴の不在を含んでいるので、間違いなく真であると決められる。しかし、それは真理を構成する特殊な対応をする事実と対応していない。それは鳥であるという特徴に関してなにかを主張しているのでなく、フェニックスであるという特徴に関して主張している。それが真であるためには、フェニックスであるという特徴について何らかの対応がなければならないだろう。もしそうした特徴が存在しないなら、我々は非存在の事実に関する何らかの信念との対応を避けられないだろう。その立場は、完璧な徳を持つ人間や(バークレーが正しければ)空間と直線に関する主張を形成する信念に関しても同じである。


〈しかし、ある特徴として存在しない特徴は、つねに、否定的な特徴の一要素として存在する。〉
 31.しかし、さらに進むと、あらゆる特徴は存在物の特徴であるか、または存在物の特徴の要素であるかという道筋を見いだすだろう。というのも、その特徴が何であれ、すべてに関して真であり、あらゆる存在に関して真であるならば、何であれその特徴を持つかもたないかとなる。特徴を持たないことはそれに対応する否定的特徴を持つことと等しい。人間がフェニックスたり得ないならば、あらゆる人間は非フェニックスの否定的な特徴を持っていることになろう。この特徴は存在するものであろうし、「フェニックス」は「非フェニックス」の一要素であるので、それも存在することになろう。というのも、存在するものの部分はそれ自体存在するに違いないことは明らかなように思えるからである。かくして、あらゆる特徴は、それが存在する事物の特徴であろうがそうでなかろうが、存在することになろう。
 そうであれば、なんの存在物ももたない特徴についての主張が、にもかかわらず存在し、存在する特徴の一要素として主張されることになるだろう。存在する事物との関連を明言しないあらゆる主張は、ある特徴がもうひとつの特徴を含みもっていることを思い起こそう。そうした主張の真理は二つの特徴の関係への対応に存する。そして、この関係は特徴両者の特徴である。たとえば、グリュプスであることの特徴は、フェニックスであることの特徴を持ち得ないなんらかの特徴をもっていることにある。同じ両立不可能性は、フェニックスであることの特徴の特徴でもある。グリュプスであることとフェニックスであることの特徴がなんであれ存在するものの本性の要素として見いだされる――たとえば、それはなんらかの机の本性のうちにあり、それはグリュプスでないこととげニックスでないことの特徴を備えているからである。それゆえ、信念は机の本性として見いだされるものに対応し――存在するあらゆるもの――つまりは、存在する事実に対応している。机の本性をフェニックスでないもの、あるいは素数ではないものとして扱い、そうした特徴を机であることの特徴、あるいは、椅子でないことの否定的な特徴と同一のレベルに置くことは、逆説的で故意のものだと反論されるかもしれない。間違いなく、実際的な観点から見るならば、どんな実体であれ、この場合は机であるが、それが机であり椅子ではないという特徴をもっているというほうが、フェニックスでない、あるいは素数ではないという特徴をもっているというよりは重要な真である。すべての実際的な考慮を離れたとしても、我々は最初の二つの特徴をもっていると理解した方が、後の二つの特徴をもっていると理解するよりも、その実体の本性についてより多くの知識を得ることになろう。しかし、にもかかわらず、後の二つの特徴は最初の二つと同じく実体の特徴として真であり、客観的であることは残る。
 というのも、テーブルは素数ではないと主張する人物が、真であるなんらかのことを主張するかもしれないことは否定できないからである。主張は重要ではなく、馬鹿げていて、時間の浪費かもしれない。しかし、それが偽でないなら、真であるはずなのだ。そして、それが主張がなされるものの本性において真でないならば、真であることはあり得ない。もし素数でないことが机の特徴ではないなら――もしそれが机の本性の一部でなく、主張がなされようとなされまいとそれに独立しているものであるなら――そのとき、主張がなされたとしても、それは真ではあり得ない。そして、フェニックスでないことは机の特徴でなければならない。


〈かくして、存在する諸事実に関係することを公言しない信念は、そうした信念が真であるとき、非存在の諸事実の実在を含むことはない。〉〉
 32.かくして我々は、存在する事実に関係しないと明言されない真の信念の真理は、非存在の事実の実在を含むものではないという結論にたどり着いた。というのもすべてのそうした信念は別のものの特徴を含むことを主張し、あらゆる特徴は、それ自身の権利によってか他のものの要素としてかはあるが、存在し、それゆえ、それらに関するあらゆる事実は存在する事実であるからである。
 あらゆるものは、言葉の最も広い意味において、肯定的な特徴と同じく多くの特徴を備えており、各々の事例において肯定的な特徴か否定的な特徴かをもつことになろう。肯定的な特徴の数を決定するように求められたら。それは究極的な事実だと答えねばならず、それは真の命題の理論において、その命題の数が究極的な事実であるのと同じである。ある特徴の実在の評価基準は誰であっても自覚されないもので、誰も気づかぬ、実在ではない特徴だと気づくことが不可能な数多くの特徴が存在するからである。


〈信念が偽であるときも同様である。〉
 33.我々は存在する事実と関係すると明言しない間違った信念についた。これらの信念は、他の間違った信念と同じく、あらゆる事実に対応しない関係にあることに間違いがある。たとえば、あらゆる人間は哲学者でなければならない、という間違った信念をあげてみよう。すでに見たように、これは人間であるという特徴がそれ自体において、さらに哲学者であるという性質をもっていることを意味している。人間であることがこうした特徴をもっているという事実はない。それが信念が対応しうる唯一の事実なので、あらゆる事実に対応しない関係についての信念であり、それゆえ間違っている。
 それはいかなる非存在の事実の実在をも含んでいない。この信念に対応する事実がない限り、あらゆる事実が存在しようと、そのいくつかが非存在であろうとその信念は誤りだろう。しかし、我々はさらに進み、信念を間違ったものにするのは存在の本性に違いないと指摘できる。というのも間違って主張されているのは、ある特徴が別の特徴をもつということだからである。さて、我々はすべての特徴が存在することを見てきて、ある特徴が特徴をもつことは、それが実在なら、存在する事実となるだろうことを見てきた。かくして、存在の本性は、もしこの事実を含まないならば、信念を間違ったものにするのに十分である。
 我々はこの過程において、存在する事実との関連を明言する間違った信念と、それを明言しない間違った信念との相違に気づくことができる。すでに見たように、この関連を明言しないものはすべて、ある特徴が別の特徴によって含まれていることを主張している。そして、すでに見たように、あらゆる特徴は肯定的にか、否定的特徴の一要素としてか存在する。実体に関する間違った信念は二つのうちのどちらかである。たとえば、「現在のイングランドの大蔵卿はムハンマドである」のように実体がまったく存在しないために間違っているか、「現在の教皇ムハンマドである」のように、実体に主張された特徴をもたない場合に間違いであり得る。しかし、我々は特徴に気づくことなくある本性をもつ特徴を信じることはできないし、我々が気づくあらゆる特徴は実在であり、肯定的であれ、否定的特徴の一要素としてであれ、存在する。その結果、特徴に対する信念が、実体に関する信念が偽でありうるということで間違いにはなり得ない。
 我々はあらゆる種類の信念を考察してきた――存在する事実に関連すると明言するものしないもの、そしてそのそれぞれにおいて真であるもの、偽であるものである。そして我々はそれらのどれも、それらを真とし偽とする関係、いかなる事実をも必要とはせず、非存在の事実を必要とするだけなのを見た。


〈(b)特徴。上述の通り、すべての特徴は、独立して、あるいは別の特徴の諸要素として存在する。〉
 34.我々は章の始めで、命題に加え、特徴も存在することなしに実在すると肯定されることがあることを見た。しかし、命題の議論によって導かれる事実に関する議論は、すべての特徴が存在するものと我々が見ることを可能にする。フェニックスであるという特徴、あるいは素数であるという特徴はそれ自体存在する何ものかの特徴に関して存在するものではなく、存在する事物に属する否定的な特徴の要素として存在する。実際、もし我々が存在する事物の本性についてすべてを知っていれば、各存在物はその本性の部分として各特徴をもっていたりいなかったりするので、すべての特徴について知ることになろう。


〈(c)蓋然性。それらもまた存在することなく実在しない。〉
 35.命題や特徴以外に、可能性は存在することなく実在でありうるといわれることがある。可能性は曖昧な語であり、それがどのような意味をとろうと、存在しないような実在を含むことはないと思われる。
 可能性は我々の知識の限界を意味しうるだけかもしれない。かくして、もし明日雨が降ることが可能だといったとしたら、その言葉の明らかな意味は雨が降るか降らないか知らないということである。明らかに、この場合、非存在の実在に関する言明ではなく、わたしの存在する知識についての言明である。
 しかしながら、可能性は実在が可能であるとされることと異なったところでも主張される。かくして、私は昨日くしゃみをしたにもかかわらず、しなかったということができる。このことは二つのうちのひとつを意味している。昨日くしゃみをしたことの理由を見いだせないことを意味しているだけかもしれない。この場合、それは再び私の存在する知識に関する主張であることが明らかである。しかしまた、私は昨日なぜくしゃみをしたのかわからないが、その主張をするかもしれない。私は昨日くしゃみをしないことが可能であったというかもしれないが、鼻をクンクンいわせている事実がそれが現実である可能性を妨げている。この場合、可能性はある特殊な状況で私がくしゃみした保証をなんら意味しはしない。たとえば、その日に私が生きていたという事実が、息をしていたことのように、くしゃみをしたことを保証しないようなことである。
 可能性が言及されるような特殊な状況は、通常、この場合のように、可能性が単一のことについて主張されるような場合においてのみ発見されうる。たとえば、この場合では、可能性は、鼻をクンクンいわせることはときにはくしゃみを誘い、ときには誘わないことを意味しうる。しかし、可能性が、単一のものではなく、定義されたような一群の事柄について主張されると、特殊な状況が通常定義によって囲い込まれた状況からなることになる。「ある三角形は等辺であることが可能である」と言われたとすると、自然に三角形であるという特徴は等辺をもった形であるとももたない形であることも含まないことを意味するだろう。(1)

(1)しかしながら、幾何学に無知なものの口からは、それは彼の知識の限界を示すものであり、彼が三角形が等辺であらねばならないか、等辺であり得るか、あり得ないかわからないことを意味することになろう。我々が明日の天気についてそうであるように、二つの特徴の関係について無知であることもあるかもしれない。

 かくして、可能性がこの意味でとられたとき、別の特徴にある特徴が含まれることが主張される。別の特徴にある特徴が含まれることは常に存在する事実であることはすでに見てきたとおりである。それゆえ、可能性がこの意味でとられたときも、他の場合と同じように、非存在の実在を受け入れる必要はない。


〈我々は非存在の特徴と蓋然性が存在しないことを見てきた。〉
 36.我々に非存在の実在を信じさせるようななにものをも存在しないように思える。我々に命題の実在、あるいは非存在の特徴、事実、可能性の実在を必要とさせるものは存在しない。私のしるかぎり、主張される唯一のものは存在しない実在である。
 しかし、我々は更に先に進み、非存在の実在を積極的に拒否してもいい資格があるのではないだろうか。特徴と可能性に関していえば、我々の議論は存在しない実在などあり得ないことを肯定することを正当化している。というのも、はじめに、すべての特徴は存在することを我々は見ているからである。そして、可能性についてのすべての発言は、存在する知識についての発言か、特徴に含まれるものについての発言に還元され、それゆえ、存在に関する発言となる。


〈非存在の命題について。我々はその実在を主張する根拠をもたない。我々の実在に関する理論は、それらが排除されるなら、より簡単なものとなるだろう。しかし、このことは、それらが実在ではないことを証明することはないであろう。〉
 37.しかし、命題はどうだろうか。そこでは問題はかなり異なっている。もし命題が、我々がその語を使用しているような意味で、実在であるなら、それは非存在でなければならない。かくして我々が前にする問題は――命題が実在でないことを我々は肯定的に認めることができるだろうか、あるいは、命題の実在を主張する必要性が我々にはないという前の結論で満足しなければならないのだろうか。
 命題の実在が斥けられれば、少なくとも我々の実在に関する理論はより簡単になるといえる。「フェニックスはグリフォスではあり得ない」といった信念は命題によっても、我々の理論によっても簡単に説明はできないとおそらくは反論されるかもしれない。前者の場合、信念は真の命題に対応するので、真であろう。しかし、命題が存在しないとしたら、信念の真理はあらゆる実体に属するフェニックスでないこと、グリフォスでないことという特徴に立ち戻ることによってのみ説明されうることになる。
 しかし、この反論は不公正であろう。我々の理論によれば、信念の真理の説明は非常に簡単である。信念は、それがフェニックスであるという特徴が別の特徴を含む、実際にそれを含むことを主張するがゆえに、真であるといえる。命題があろうとなかろうと、存在する事実に及ぶと公言されたあらゆる信念は、すでに見たように、ある特徴が別の特徴に含まれるという主張であり、それらの特徴の本性にしたがって真あるいは偽となる。
 我々の理論に複雑さがあるとしても、それは信念の真理についての説明においてではなく、特徴の存在の説明についてである。そして、この複雑さは、命題を信じるものでさえ、フェニックスが存在しないならば、あらゆる存在はフェニックスでないという特徴をもっていなければならないということを利用しているので、我々の理論に特有のものではない。
 この点に関して、我々の理論は他の理論と同様である。別の点では、より簡単である。というのも、真の信念はたったひとつの対応しか必要としないからだ――信念と事実との対応である。しかし、命題の理論はそうした対応を二つ必要とする。信念は真の命題と対応しなければならない、といわれる。それはまた事実と対応することは否定できない。もし私の机が四角というのが真であるなら、机が四角であることとそれに対応する信念がなければならない。
 かくして二つの対応が必要とされ、それぞれが独立しているように見える。命題の真理は、私が理論を正しく理解しているならば、究極的なものであり、事実の生起に依存し得ない。そして、事実は命題の真理に依存し得ない。テーブルが四角であることはテーブルが四角であるという命題の真理に依存すると主張し得ない。
 しかし、問題のもっとも単純な解決が常に真であるとは限らない。我々に知られているすべてのデータが命題なしで考えられたとしても、命題が存在しないということにはならない。しかし、より遠くを探ると、命題を斥けるより積極的な根拠が見出されるように思われる――命題の余地がないような場である。


〈だが、それらを排除する根拠があるようにも思える。〉
 38.もし私が私のテーブルは四角であるという真の信念を持っているなら、一方において、この信念そのものがある。それは真だが、主観的で、信念を持ち、知る主体の存在に依存している。他方において、命題の支持者が認めるように、テーブルが現実に四角であること――事実がある。それは、知る主体の存在に依存しないという意味で、客観的である。そして、それは真ではない。この両者のあいだに、命題が来るというならば、来なければならない。一方において、命題は事実と同じく、また信念とは違って、客観的である。他方において、信念と同じく、また事実とは違って、真である。さて、もし命題が信念と明らかに区別されるのならば、それが事実と区別され続けることは不可能であるように思われる。信念の主観的要素が抹消されたとき、真理もそれとともに去り、我々は無時間的で非存在の真の命題ではなく、真ではなく(信念の真理を決定するにしても)無時間的であるかもないかもしれない、またすでに見てきたように常にある方法で存在する事実しか残されていないことを認めることになろう。
 もしこれが正しいなら、真の命題の実在は余計なばかりではなく、維持され得ないものとなる。そして、もし真の命題が捨て去られるなら、偽の命題の実在を主張するものはいないだろう。私の知る限り、偽の命題の実在を主張する唯一の根拠は、あらゆる命題がある命題と対応して真か偽でなければならないという観点による。もし真の命題についてこうしたことが捨て去られるなら、真である命題に適合しない偽の命題の実在に対していくつかの反論があるときのような場合特に、偽の命題を主張する根拠があり得ないことになる。
 もし命題がないならば、非存在には何も残されないことになろう。実体、特徴、事実がすべて存在するものと見なされる。かくして、我々は存在しない実在はないと結論づけることを保証されるだろう。


〈たとえそれがいくつかの事例において実在であるとしても、存在物を研究している我々はすべての実在を研究すべきである。〉〉
 39.しかし、たとえ命題が存在するとしても、我々は我々の哲学を構築する際に、存在する実在のみを考慮することに安んじて自らを限定できることを主張する権利がある。というのも、すでに見たように、あらゆる主張は存在する事実への関わりを公言するものか、あるいはある特徴が他の特徴に含まれているかを述べるからである。かくして、いかなる命題で何が主張されようとも、存在するものを扱うこととなるだろう。
 もちろん、この結論は、我々が存在の特徴、そしてそうした特徴の要素そのものが存在すると取る見解に依存している。しかし、もしこの観点が却けられるとしても、結果は実体としては相違しないだろう。というのも、我々が存在するものを、存在する特徴とともに研究するというか、そうした特徴の特徴とともに研究するかと言うときに、あらゆる実在を研究するのだということにさしたる相違はないだろうからである。


〈上述のことから、存在物はそれとは独立した存在物の蓋然性に限定されるものではない。〉
 40.そこから、実在と存在の関係が言われる際に、現実に存在するのはある種の存在の可能性の枠によって取り巻かれており、存在するものはそれに依存はしないが、限定を受けているとなりはしない。「XがYになることは可能である」というのが、我々の知識の限界についての言明でないならば、特徴Xは特徴Yの不在を含まないということを意味する。かくしてそれは、特徴の包含についての言明であり、もちろん、その可能な包含についての言明ではなく、現実の包含についての言明である。ある三角形が直角以上の角をもつことは可能であるが、それは三角形であることが直角以上の角の不在を含んでいないからである。そして、それは可能性として含むことができないのではなく、現実に含んでいないのである。
 かくして、可能性についてのあらゆる言明は実際には現実性についての言明であることがわかった。そうした言明の現実性なるものが特徴の本性であり、存在する実体の特徴としての特徴の存在に依存していないことは確かである。存在する何かが三角形であろうとなかろうと、三角形であることは直角以上の角をもつことと共存しうる。しかし、すでに見たように、あらゆる特徴は何らかの仕方で存在している――存在する事物の特徴としてか、あるいは存在する事物の特徴の一要素としてか。それゆえ、可能性についての言明は現実の特徴の本性についての言明なので、それは存在の現実の本性についての言明であろうし、そこから独立したものではないだろう。
 しかしながら、たとえ可能性が存在の本性から独立したものではないとしても、存在するものの内部で、そうあらねばならぬものと現にあるものとは異なったものでありうるものとを区別することは許されるだろう。この問題は、現在の探求とは関係がないが第十九章で議論することになろう。
 多様な結果が帰納以外の過程によって到達され、機能が多様に限定された二社選択を決定できることがわかったとき、我々の探求の後の段階にいたっとときに可能なのは間違いない。しかし、事実においては、帰納が使用されうるような機会を見いだすことはないだろう。
 我々の方法は帰納ではあり得ない。それは一般的にアプリオリなものだろう。しかし、二つの事例において、我々の結論は、直接に知覚による観察に依存するだろう。


第三章 方法

 41.便宜上、この作品で採用しようとしている方法についてあらかじめ述べておく方がいいだろう。すでにいったように、我々の対象は、第一に、第二、第三、第四巻で考慮するようにあらゆる存在の特徴、あるいはまた、全体としての存在に属するものである。第二に、第五巻、六巻、七巻では、我々が経験的に知っている存在の多様な部分に関して存在の一般的な本性から理論的実際的な関心事を引きだすことができるかどうか考えねばならない。こうした最初の目的に採用される方法は、ある点において、第二の部分で採用される方法と異なったものとなるだろう。


 42.最初の探求に関していえば、まずはじめに、帰納に頼れないことは明らかである。それには二つの理由がある。第一に、後に示すように(1)機能の妥当性は決して自明のものではない。もしそれが受け入れられるなら、存在の本性がある種の特徴をもっていることが証明されなければならないだろう。そして、それを帰納によって証明するのは悪循環になる。結果的に、存在の本性の探求をはじめるにあたって、我々は機能を使うことはできない。

(1)第二十九章


 43.第二の理由は、たとえ帰納の妥当性が確立されたとしても、帰納によっては我々の探求の最初の部分ではいかなる妥当な結果にも到達することが不可能であろう。我々は存在するあらゆる物に属する特徴、全体としての存在に属する特徴を探求しなければならない。帰納は同じクラスのいくつかのものに見出される同じ特徴を観察することからはじまり――たとえば、この人物、あの人物、その他の人物は死ぬものであるといったような――全体としての存在に属する特徴は帰納によっては達することができない。さて、それらがあるクラスにあるものではあり得ず、そのそれぞれが全体としての存在であることは明らかである。それゆえ、全体としての存在に属する特徴は帰納によっては決して到達し得ない。
 またそれによって、存在するすべてのものに属する特徴についてなんらかの結論に達することもできない。というのも、そうした存在する事物の数は、理論的にいかに大きくとろうとも、我々が観察できる特徴は全体の非常に少ない部分でしかないだろう。後に、我々が観察できる特徴の数は限定的なものであり、存在する事物の数は無限で、観察するのはその無限に小さな部分であるだろうという根拠を見ることになろう。
 さて、その他は等しいとしても、推論の蓋然性は推論の領域である観察の範囲によって直接的に変わる。もし、百のものについて、特徴Xをもっており、次に、そのなかの五十のものについてまた特徴Yをもっていることを見出したとしたら、そのすべてが特徴Yをもっている蓋然性は百のうちひとつから五十を知るに従って増していくだろう。
 帰納が観察と推論の領域の割合のみによって蓋然性を変えることがないのは明らかである。実際、ひとつの事例を観察することが非常に広範囲にわたる結論の蓋然性を推論することを可能にすることもありうる。しかし、どこでそれが生じようと、それは、可能な選択がそれ以前の推論によって狭められているためである。(1)それゆえ、それは存在の一般的な本性を決定するような形而上学的な議論の最初の段階にあらわれることはあり得ない。そうした議論では、帰納による蓋然性は二つの領域の比率によって変わるかもしれないが、その場合、観察の領域は推論の領域より無限に小さく、結論にはなんであれ妥当性はない。

(1)たとえば、千のサイコロが同じ作り手によるものであり、その正直さが疑う余地のないAによるものか、不正直なBによるもので、すべてのサイコロに仕掛けをしている、とあらかじめ知っているとしよう。この場合、一つのサイコロに仕掛けがしてあれば、すべてのサイコロに仕掛けがしてあることの公正な根拠となり得る。


 44.私は知覚という言葉を覚知の一種として、存在するものについてのものを指す――覚知は知識であり、信念とは違う心的状態である。特にこの三巻においてどちらの言葉も非常に頻繁に用いるので、覚知と知覚によって意味するところをより明確にするのは非常に重要である。私はどちらの言葉もラッセル氏のよって「獲得知覚と記述による知識」(1)についての論文で説明され、用いられる意味で用いている。

(1)『神秘主義と論理、その他のエッセイ』次の説の引用は209-212ページから。

 「私は対象と直接的な認知的関係を持っている」というとき――私は対象について覚知し、対象を知る、というのと同義語として用いられている。「事実、私が知ると呼ぶ主体と対象との関係は、単に、現前を構成する対象と主体との関係を反転させたものである。つまり、SはOを知るということは、本質的に、OがSに現前するというのと同じ事である。」「我々が知ったのはどんな種類の対象かと問われたとき、第一に、最も明白な例となるのは感覚データである。私がある色を見たり、音を聞いたとき、私はその色や音を直接的に知る。」我々はまた内省によって「対象の認知的能動的な我々との関係をしる。私は太陽を見るとき、しばしば私が太陽を見ていたことに気づき、太陽に気づいていたことも知る。また食物を欲するとき、私が食物を欲していたことに気づくこともしばしばである。」「私が考えている覚知はすべて個別な存在に対する覚知であり、大きな意味合いにおいて知覚データと呼ぶことができる。(1)というのも、知識の理論の観点から見ると、内省的な知識はまさしく視覚や聴覚からきた知識と同じレベルのものだからである。しかし、上述の、個別なものについての覚知と呼びうる対象に関する覚知に加えて、我々はまた・・・普遍的なものの覚知と呼べるものをもっている。」「我々は個別は黄色を覚知するだけでなく、十分な数の黄色と十分な知性を持っているなら、普遍的な黄色にも気づく。この普遍は、『黄色は青とは違う』や『黄色は青よりも緑と違う』などといった判断の主語になる。そして普遍的な黄色は、『これ』が個別な感覚データである『これは黄色である』といった判断の述語となる。そして、普遍的な関係も覚知の対象である。上下、前後、類似、欲望、覚知自体等々はすべて我々が覚知できる対象であるように思える。」(2)

(1)ラッセル氏が「大きな意味での感覚データ」というものを「知覚データ」と言い換え、内省とは異なる視覚や聴覚によって与えられたデータに「感覚データ」という語を取っておくことを提案する。
(2)私は内省による覚知の対象の性質についてはラッセル氏の見解を保留することなしには受け入れられないが、そのことは覚知の意味に影響するわけではない。

 これが覚知によって意味されるものである。知覚は、ラッセル氏が普遍と呼ぶものの覚知とは異なり、個別なものについての覚知である。私が提案した用語法によれば、それは特徴の覚知とは異なる実体の覚知である。知覚の最も明白な事例は身体感覚からのデータを覚知するもの、そして内省によって我々の精神に与えられる内容の覚知である。(1)

(1)実体と特徴の相違は第二巻で論じることになろう。いま述べた以外の実体をなにか知覚することができるかという問題は第五巻で論じることになろう。


 45.知覚に訴える最初の事例は、全課程の最初の段階にあるものだろう――何ものかが存在するかという問題である。なにかが実際に存在するかどうか尋ねなくとも、存在するもの、あるいは存在の全体に含まれる特徴を考えることは可能だろう。しかし、存在にどんな特徴が含まれているのかを決定するには、我々は何ものかが存在しているのか、それゆえ、そうした特徴を持っているのか知りたいと思う。そしてそのことは知覚に訴えかけることによってのみ決定できる。というのも、もし私がそれを知覚しないなら、あるいは、その経験が私が知覚する何ものの存在をも含まれていないならば、私にはなにかが存在するか知ることが決して可能ではないからである。
 我々が知覚に訴える他の場合については第七章で扱うことになろう。存在する全体が部分と異なるという判断は知覚に訴えかけることだろう。実際には、このことはアプリオリにも結論されることかもしれない。というのも、後に論じるように、実体が単純であり得ないことはアプリオリに確実なことであり、そこから存在する全体は部分とは相違することが導き出されるだろうからである。しかし、実体は単純ではあり得ないという見解は、私はそれが正しいと信じてはいるが、新しい議論のあるところで、知覚による訴えかけによって存在の相違が証明され、対称的でないことがわかれば、より同意を得やすいだろう。
 これら二つの事例において、我々の確実性の基礎にあるのは経験的なものであって、アプリオリではない。しかしながら、そのことがより確かさを損なうことはないだろう。知覚に直接基づいた判断は、アプリオリに明らかなものと同じくらい確かなものでありうる。そして我々の前にある事例においては、判断は多様な知覚の結果からの帰納に基づいたものではない――この章の前半において根拠として信用しがたいとされた。ただ一つの知覚がどちらを証明するにも十分である。もし我々がなにかを知覚し、知覚された事物が存在することが「何ものかが存在する」という命題(1)を証明するのに十分であれば、それが第一の事例において求められたことである。そして、単一の知覚が、知覚された事物が部分に区別されると判断することを保証するものならば、それは存在する全体が一つの相違のない全体を形成せず、少なくとも二つの部分がそこには存在することを証明するのに十分である。

(1)前の章で、非存在の命題の実在を却ける根拠を見いだした。それをなし終えたいま、その心的事実としての存在というよりは、その内容を命題としての信念と語っても、使い方に矛盾はなく、便宜にかなっていよう。


 46.知覚経験に基づいた信念を持つ人間は、究極的な経験的信念を持つといえるだろう。それが正しく究極的といえるのは、それが他の信念に基づいているのではなく、知覚に基づいているからである。アプリオリな究極的信念と経験的な究極的信念には重要な相違がある。アプリオリなものは一人以上によって究極的な信念と捉えうる。たとえば、究極的な真理としての排中律の法則についての信念は、私自身には限定されない。しかし、経験的な信念は、その信念を持つ人物によって知覚された知覚物が記述されたときに究極的となり得る。さて、二人の人間が同じ知覚物を知覚したことは確かではない。そして、すぐに見るように、究極的な経験的命題に訴えかける二つの事例において、議論は大まかにいって、それらが基づく知覚物そのものが知覚、内省によって知覚されたものであるという信念をめぐるものとなろう。さて、少なくとも我々の現在の経験では、誰も自分以外の知覚を知覚することはできず、それゆえ、どんな知覚も一人の人間の知覚以上のものではあり得ない。私がいまある種の知覚をもっていることは究極的に確かなことかもしれない。スミスが私がその種の知覚をいまもっていると確信することは正当であるが、彼にとってそれは究極的に確かなのではなく、推論によって到達されたものでしかない。
 しかしながら、このことによって、この種の経験的命題に基づき、一人以上の人間には効果的ではないとして議論を妨げる必要はない。たとえば、私の知覚が存在する故に何ものかが存在すると私が論じたとすると、こうした前提をもった議論は、スミスに直接的に私の知覚を確信させるわけではないので、スミスになにかが存在することを証明することはないだろう。しかし、彼の知覚もまた働いているので、類推による議論によって、何ものかが存在しなければならないことを示唆することにはなろう。そして、この議論は私のものと同じくらい厳密であり、同じ結論にいたり、彼が直接的に確信される前提からそこに導かれるのである。


 47.続く三つの章で、私は存在の多様な性格を次々に定めていくよう努めるだろう。それらの定められる順序は、おおむね必然的な順序に従っている――特徴Yは特徴Xののちに定められ、というのも、Yの生起を唯一可能にする提示は、Xの生起という事実から出発する必要があるという具合になっているからである。しかし、提示の順序はこのように完全に決定されるわけではないだろう。実際に採用される順序と論理的には異なっているような多様な場合がありうる。そうした場合、選択された順序は、明確さと便宜を考えて決めることができただけである。
 こうした方法はヘーゲルとの類似が見て取れるもので、両者の類似と不一致を詳細にわたってみる価値はあろう。第一に、こうした方法を使用することで、我々は存在の特徴に含まれる特徴、あるいは存在する全体の特徴を発見することで哲学を基礎づけようとしている。同じように、ヘーゲルのカテゴリーは、その妥当性をそれが本来的な純粋存在――ヘーゲルはそれによって、我々が存在あるいは実在という言葉を用いていることを意味している――のカテゴリーに含まれるという事実に負うている。
 第二に、存在の本性の決定は、ヘーゲルのカテゴリーのように、単一の連鎖を形成するだろう。それは互いに独立した異なった議論に分割し得ないだろう。それらは系列を形成し、多くの項の正確な場所が論理的必然性によって固定され、正確にはそうした方法によって決定されないものも、論理的は必然性によって少数の選択肢しかない位置に置かれるだろう。純粋な存在から絶対的観念へのカテゴリーによって形成された鎖は、ヘーゲルの体系のもっとも特徴的なものであり、この点で類似することは、二つの方法の関係を決定するのに大きな重要性をもたざるを得ない。


 48.しかし、こうした類似点の傍らに、重要な相違点がある。ヘーゲル弁証法の主要な特徴のひとつは、その三幅対にある。カテゴリーの全体的系列は三つの部分に分けられる――存在、本質、概念である。そのそれぞれが再び三つの部分に分けられ、同じ原則がどの系列においても等しくというわけではないが、運用される。特徴から特徴へと移る我々の過程には、こうした三幅対のリズムは見出されないだろう。
 また、ヘーゲル体系の三分割は、彼が弁証法の否定的側面と呼ぶものに密接に関係している。それは、ヘーゲルによれば、弁証法的過程というのが誤り――つまり、部分的誤り――から真理への運動であることに依っている。我々が三幅対のそれぞれの最初の成員――命題――を考えたとき、その妥当性を留保なくそのまま主張しようとすると、矛盾を含み、維持できなものとなる。だが、ヘーゲルによれば、我々は論駁し得ない議論によってそこに到達したのであるから、留保なしに命題を破棄することはできない。かくして、我々は同じように矛盾を欺き、維持しがたいものとする反定立へと駆り立てられ、さらにそれが三幅対の最後である総合へとおもむき、難点は取り去られ、命題と反定立とを矛盾を取り除いた変更された超越した形で有しているものに行きつくことになる。総合はまた新たな矛盾をあらわにし、三幅対から三幅対へと追いやられ、矛盾などがまったく見出されない最後の三幅対の総合である絶対精神に到達する。(1)

(1)この考察は非常に一般的ではあるが、不正確ではないと思う。このことを正当化し、ヘーゲル体系に対する私の他の発言を参照するには私の『ヘーゲル弁証法の研究』と『ヘーゲルの論理学注釈』を見てもらいたい。

 ヘーゲル体系の一般的原理に従うと、絶対的観念以外の体系のいかなるカテゴリーに関しても、その妥当性を主張することは、完全に間違いではないにしても、完全に正しくもないことになる。
 ヘーゲルは常に細部にわたるまでこのことを一貫しているわけではない。彼の絶対的真理の観点には、より低次のカテゴリーが完全に妥当なものとして受け入れられている。こうした場合、次のカテゴリーへの道筋は、カテゴリーが絶対的に真であるのではなく、さらなるカテゴリーの存在を否定するのは真ではない、と提示されるだろう。そして、このことはまったく異なることである。原則として、彼の提示はより低いカテゴリーは完全に間違っているわけではなくとも、現実には間違っていることを証明することに向けられている。ヘーゲルが彼の体系のすべてのカテゴリーでそうしたことを要求しているのは一般的な考察としては疑問の余地はない。
 この点について、我々はヘーゲルの原理、そしてまた彼の通常のやり方から出発する。我々の過程で提示されたそれぞれの特徴は過程の最後までそのまま残るだろう。もちろん、それらは完全な真理ではなく、そのすべてがまったく真であることを妨げられているわけでもない。我々は、最初の特徴が真であることを主張することを含む矛盾によってではなく、最初のものが真であることを主張し、第二のものが真であることを否定する矛盾によってある段階から次の段階へと導かれるだろう。


 49.第三に、ヘーゲルは、各カテゴリーの妥当性を、それ以前のカテゴリー、あるいは以前の二つのカテゴリーの妥当性を除外したいかなるデータもなしに証明すると公言している。この主張がどこまで文字通りに受け入れられるかは疑問である。もしまったく文字通りに受け取るなら、一つのカテゴリーから次のカテゴリーに移る議論のなかで――しばしば長い複雑な――ヘーゲルが多様な論理的推論の自明な原理に従っており、またそうしなければならないのだから、このことは明らかに間違っている。
 彼がこのことを否定するだろうとは私は思わない。おそらく彼の主張の真の意味とは、自分がそれ以前のカテゴリーあるいは諸カテゴリーを除いたなんらかの前提を使っているのだと自ら信じているということだろう。通常の三段論法の議論では、用いられた様態の妥当性が個別の議論の妥当性に本質的なものであり、大前提、小前提に付加される第三の前提として判断されることはないことがある。ヘーゲルはそれ以下のことを主張しているのでないことはまったく明らかだと思われる――少なくとも、それ以前のカテゴリーあるいは諸カテゴリーは唯一の前提だというのが彼の主張である。
 彼がこうした発言について正しいのかどうか、そして、実際に、適切にではあろうが、他の前提に依拠していないのかどうかは疑われるところだろう。しかし、彼が他の前提に依拠していないと公言していることは確かなように思われる。他方において、この仕事の議論については、他の前提が、それ以前の段階のものを除き、しばしば要求され(1)、ヘーゲルの実践においてはどうであるにしても、その原則とは異なっていることが見出されるだろう。
 
(1)なにものかが存在しているかどうかの問題を知覚に訴えることはヘーゲルとまた異なる相違を構成しているとは私は思わない。(私の『ヘーゲル弁証法研究』の18,79節を参照のこと。)しかし、相違を証明するために知覚に訴えることは違いとして付け加えられる。


 50.第四に、既にいったように、論理的必然性が我々の体系の個別な段階の位置を大きな部分で決定することは見出されるだろうが、それはそのいくつかの位置を正確に決定するというわけではない。ある事例においては、二つあるいはそれ以上の選択肢による秩序において、多様な段階の妥当性がしめされ、現実に採用される順序はただ便宜性のみを根拠にすることもあり得よう。
 ここにもまたヘーゲルとの顕著な相違があり、彼は間違いなく、弁証法に示されるように、あらゆる細部にまでわたる論理的な必然性、いかなるカテゴリーも絶対的観念に達する唯一の秩序があることを信じていた。彼のカテゴリーはすべてその妥当性を認め、その提示の仕方を認めるとしても、いくつかのカテゴリーはその位置を変えられないが、その可能性を認めないことが確かであるかどうかは疑問にできよう。
 最後の相違は、ヘーゲルはその弁証法が存在にのみ適用されるか、あるいはすべての実在(これらの言葉はヘーゲルが用いたものとしてではなく、我々が与えた意味で用いている)に適用されるかどうかについて完全に明確ではないように思われる。一般的にいえば、弁証法は存在にのみ適用されるようだが、議論によっては、後に再び存在のみの考察に戻ってくるとはいえ、非存在の実在についても述べているように思われる点がある――この動揺は彼自身によっても明確に自覚されたもの、あるいは論理的に正当化されるものとして自覚されていないように思える。
 もし我々がこれらの相違をすべて同時に取り上げるならば、我々の方法はヘーゲル的な特徴をもったものではないといわねばならないと思われる。三分割を受け入れず、より低次のカテゴリーの部分的な誤りを認めない方法はヘーゲル的なものとは理論的には分類し得ない。他方において、それは他の哲学者よりもヘーゲルの方法により近い場所にあるだろう。


 51.ヘーゲルの体系を擁護するには、彼の方法を一般的にあらかじめ正当化することを含めるのが必要である。というのも、その方法は二つの特徴をもち、少なくともそのひとつは、我々の通常の考え方には未知な、あるいは対立さえするものに思われるからである。より低次のカテゴリーには部分的な間違いがある(それは正反対の妥当性があるカテゴリーに含まれていることと関連している)、そして正反対の項のとの調停と超越がある。一見したところ、そのどちらも通常の考え方に、さほど奇妙でも、異質でもなく、どちらもうまく擁護できるように思われる。(1)しかし、擁護は確かに必要である。

(1)つまり、このように結びつけられた実在の主要な性質にあらかじめ不可能性が存在するわけではないと考え、もしそれがそのように関係しているならば、ヘーゲル弁証法は――あるいは同じタイプの弁証法は――真であることになろう。しかし、実際の所、それらはこのようには関連づけられていないと私には思われる。

 我々の方法の場合、立場が異なる。我々が進めていくやり方は、存在のひとつの特徴から別の特徴へと進んでいく多かれ少なかれより厳密に決定されたもので、哲学のまた他の主題においてもいたるところで採用されている議論のしかたと特別異なった特徴をもたらすことはないだろう。それが細部において正確かどうかはまた別の問題だが、細部の正確さが方法の一般的な誤謬によって不可能になることはあり得ないと思われる。
 我々の議論の多産性についてなんらかの正当化が必要だろうか。ヘーゲルの体系の場合、そうした正当化が必要とされた。そこに取り入れたものよりもずっと多くのものが手に入るといわれている。我々が出発点とするのは、純粋存在というカテゴリーだけであり、それはできうる限り抽象的で、最も少ない内容しか含んでいないことを理由に選ばれた。そこから我々はカテゴリーからカテゴリーを移り、それぞれのカテゴリーの内容を豊かにし、絶対観念のなかでもっとも完璧で具体的な内容に達することになる。このことは正当ではあり得ないといわれている。妥当な議論は前提より結論の方が豊かではあり得ない。弁証法の後の段階にいたって内容が増加するのは、すべて排除されていると公言されていた経験的な内容が不合法に導入されたからに違いない。この反論は、かつてヘーゲルについてなされた注釈のなかでも最も重要で啓発的だと私には見なせる一節で、ブッラッドリー氏によって扱われた。(1)

(1)『論理学』第三巻、第一部、第二章E。

 私は我々の方法にこうした正当化が必要とされるとは思わない。経験的なデータが始めばかりでなく、過程の後のある点において導入されるという事実は、それ自体として取り除く難点ではなく、というのも、過程の最後にまで到達した我々は、最初の段階よりずっと多くのものに到達しているのであり、最初の段階の後に経験的に加えられた単一な要素(存在の相違)と相反することはないからである。しかし、アプリオリな過程の多産性は、多様な総合的命題がアプリオリに明白であることを思い起こしても、不思議な感情や疑いを引き起こさないだろう。結果的に、我々は何であれ存在するものがBであるときに、何であれ存在するものがCであることを確立できたときに、Bが何であれそれがCでも在ることはアプリオリに明白である。この説明は、あらゆる移行はそれ以前のカテゴリーを除いてはすべての前提を却けるものであるというヘーゲル弁証法では認められないものである。というのも、「なんであれBはCである」は、「何であれ存在するものはCである」という結論であるのと同じく、「何であれ存在するものはBである」というそれ以前の過程の結果でもあるからである。しかし、我々は前提にそうした制限を認めず、結果的に、過程の多産性は他の議論で見いだされたものとなんら関わりはなく、特別な正当化も必要としないと言うことに与する。


 52.我々の方法とヘーゲルのそれとを比較する過程で、我々は別の点に行き着いた。我々の方法、そしてそれによって到達された結果は、存在論的なものであり、認識論的なものではないことである。
 カント以後、現代哲学の多くはもっぱら――あるいはほとんどもっぱら――認識論的なものである。それは知識の事実、あるいはむしろ信念の事実から出発する。どんな種類の、またいかなる条件の信念が正しいものでありうるのかが探求されてきた。このことから、厳密に真ではなくとも、何が知り得、何が信じうるのかから結論が引き出され、真理とのある種整合した関係を持った一貫した体系が形づくられた。そうした体系の結論が信念以外の存在をなんら扱うことがない限り、ある種の信念が真であり、ある種の信念が真であり得ないと言うことを保持する限り、主として否定的なものであるが、信念以外の存在する事物の本性について結論を引き出すことも可能である。しかし、この種の結論はすべて、信念と関係する結論であり、そうした体系は、それゆえ、まさに認識論的だといえる。
 我々の方法は認識的なものとはならないだろう。我々は信念だけから考察を始めることはない。反対に、我々は全体としての存在、あるいはそれらが信念であろうとなかろうと、存在するすべてのものに適用される一般的な特徴を決定しようと努めるだろう。
 かくして、我々が到達する結果は、通常また正確には観念論と呼ばれるもので、バークレーの、ライプニッツの、そしてヘーゲル――と私は思う――となるだろう。それはカント、あるいはときに新ヘーゲル派と呼ばれるものとは異なることになろう。つまり、知る主体に、あるいは知識の事実に知識の対象が依存していると主張するような観念論ではなく、精神なしには何も存在しないと主張することに依存する観念論である。(1)

(1)ここでの精神は、個的な精神だけを含むものではなく、諸精神の部分や集団を含むようなものとして使用される。そして、そうした精神、またその諸部分や集団の特徴は、それ自体として存在するだろう。
 テキストで行った区別は、カント自身が、バークレーの観念論は経験的なものであり、自身のものは超越論的だとしたことにある。彼が用いた用語は、より一般的な、存在論的と認識論的というものほど適切ではないと思うが、この一節において彼らが同じ区別をしていることは明らかなように思える。


 53.さて、我々はこの三巻で、採用されてきた方法について考えるわけだが、そこで我々は経験的に知りうる存在の多様な形に関して存在の一般的な本性を引き出しうる理論的、あるいは実践的な関心の結果を探求する。この探求は三つの部分に分かれるだろう。
 第一に、第五巻で扱うことになるが、我々は経験が我々に与えるもの、少なくとも、それが存在するあらゆるものによって、あるいは何らかの存在によって明らかに備えられたものについての多様な特徴について考えなければならない。以前の探求によって定められた存在の一般的な本性についての我々の結論から出発して、我々は、まず始めに、それらの特徴が真に存在するものによって備えられたものなのか、正反対の外観にかかわらず、実際には備えられないものであるのかどうかを尋ねなければならない。さらに我々は、存在についておそらく真である特徴が実際に真であると知られうるかどうか――おそらくは外見が自明だとする以上に――尋ねなければならない。
 探求の第二の部分は、第一の部分に依存したものとなろう。第一の結果によって、ある種の特徴が、肯定的であれ否定的であれ、存在によって所持されるという結論が、実際には所持されていないことを結論づけることになろう。それゆえ、第四巻では、どうしたそうした概観が生じ得るのかを探求しなければならない。さらに異なったあらわれの変奏と異なった実在の変奏の間になにか斉一な関係があるのかどうかを発見しなければならない。(たとえば、時間があらわれであるとわかったならば、以前と以後との関係の明らかな生起が、それ自体無時間的な実在のあいだの関係の生起の斉一的な関係なのかを探求しなければならない。)もしそうなら、問題になっているあらわれの様々な姿はあるあらわれである実在の多様なあり方に対する知識を与えてくれることになろう。(1)

(1)あらわれはライプニッツの言葉で言えば、phaenomenon bene fundatumといわれるかもしれない。そうした場合、実在はあらわれるとおりのものであるという発言は、しばしば、現象的にいえば正しい。しかしながら、この発言は誤解を招く。そうした発言は、真理との一定の関係をもっているとはいえ、実在は実際にはそうであるところではないと主張しているので、それ自体として間違っている。

 第三に、我々が一般的な存在の本性として得た知識によって、実践的な観点であり、またそう思えるものについての多様な問題が存在する。それらは我々の探求の第三部の主題をなすもので、第七巻に含まれる。こうした問題については、通常、多様な特徴として述べられ、我々が想定する根拠ただ外見上のものだけであり、実際には存在によって所有されてはいないことが見出される。そうした場合、我々は問題として語られているあらわれに対応する実在はなんなのかを探求し、どうすれば問題が存在する世界に適応するように再提言されるべきものとなるか、再提言された問題に対してどんな答えが正確なのかを探らねばならない。


 54.この三巻では、議論は先の探求のように、連続した鎖を形づくることはないだろう。また前の議論とは異なり、さほど厳正でもなくなるだろう。この初期の探求で、我々は絶対的な提示を目指していた。我々の結果は議論のいくつかの間違いによって誤謬となるか、確かなものとなるだろう。様々な点で、可能性について語ることがあったが、それは単に偶然によるものだった。そうした可能性についての主張は、議論の主要な流れの段階を形づくることなく、絶対的に提示される各段階の主張に影響を与えるものではなかった。
 後の探求では、それが異なってくる。実際、第一に、ある種の問題は絶対的な提示としてあらわされるかもしれないが、否定的な性質のものとしてだけである。以前に決定された存在の一般的な性質を見るとき、考慮される特徴のいくつかは存在について真だとは考えられないと完全な確かさをもって示すことが可能となるかもしれない。しかし、肯定的な結果は完璧な確実性がなければ達することはできない。最初の三巻で決定された存在の一般的な本性を示すことができるには、我々が知る、あるいは想像できるものが、問題となっている特徴なしには一般的な本性を持ち得ないことを示すことが最上となろう。しかし、このことは可能性の問題でしかない。というのも、一般的な本性は、我々が決して経験したことがない、想像さえすることができないものであることも可能だからである。たとえば、我々が存在は単純な部分なしにもなければならないことを証明し、我々が知るなにも、あるいは想像もできないものが精神以外には単純な部分をもたないことが示されたとしたら、それは我々にすべての存在するものが、あるいは実際には存在する何らかのものが精神的であるという絶対的な提示を与えることにはならない。というのも、精神性が単純な部分の不在と共存しうるという特賞は、我々が決して経験したことも想像したこともないことだからである。それは部分、あるいはすべての存在に見いだされる他の特徴であるのかもしれない。
 同じように、後の探求の第二、第三の部分に至ると、我々が示すことができるのは、確かな解決が可能であること、我々はいかなる選択肢も知ることはないし、想像もできないということである。しかし、ここでもまた、別の解決を知る、あるいは想像することの不可能性は、我々の経験の限界から来ているに過ぎない。経験によってしか知ることのできない、また経験によって知る機会のなかった何らかの特徴が、別の可能な解決の鍵となり、その解決が実際には真であるかもしれないというのも可能である。それゆえ、この種の問題については、我々の議論はより高い可能性に達することはあり得るが、決して確実性へ至る望みはあり得ない。

 

 

第二巻 実体

第四章 存在

 55.存在するものすべて、あるいはまた、全体としての存在に属する特徴が何でありうるかについて、我々は考えていこう。しかし、もう一つ予備的な問題を定めるべきである。何が存在するのか。
 このことを論じなくとも、存在の特徴に含まれる特徴が何であるのか考えること、そして、なにかが存在するとき、それがもつ特徴を条件付けていうことは間違いなく可能である。(1)しかし、我々の探求の実践的な関心と重要性の全体は「何が存在するのか」という疑問の答えに依存しており、この質問を考えることが我々の出発点となろう。

(1)こうした議論では、我々は存在の特徴に含まれる特徴を決定できるだけで、知覚に訴えかける存在の相違を確立することはできない。しかし、前の章でいったように(45)、知覚への訴えは、存在の相違を確立するのに最も便利で確かな方法であるにもかかわらず、確立されうる唯一の方法ではない。

 我々がいま関係するのは、なにかが存在するかどうかである。どれだけ存在するか、どんな種類のものが存在するかは関係がない。求められているのは、「なにかが存在する」という発言の真理を決定するだけである。そして、この発言は、当然、存在を主張する他の発言が真であるときに正しい。


 56.しかし、存在を主張する何らかの発言は正しいのだろうか。現実的なものであれ可能なものであれ、存在を主張するあらゆる判断が間違いであるようなことはあり得ないのだろうか。デカルトと同様の議論によってこの疑問を投げかけるいかなる人物にも我々は答えることができる。懐疑論者が「私はなにかが存在することを否定する」あるいは「私はなにかが存在するかどうか疑問を感じる」といったとしたら、この主張は彼自身の存在を含んでいないのか、そして、なにかが存在することを証明してはいないだろうか。ヒュームのように、自己の実在を否定するなら、その発言は、何ものかの存在は否定される、あるいは疑われるといった形になるだろう。そして、それにも、どのようにかどこでか、否定や疑いをもつものの存在が含まれることになろう。否定や疑いが自己と同じように幻影だと言われるべきだとするなら、それは幻影の存在を含むことになる。そして、この幻影の存在もまた幻影だと、続くならば、その連鎖の先に真の幻影があり、それゆえ、それが真に存在することになる。同じような議論は、それを肯定することも、否定することも、疑うこともないなにかが存在するかどうか問う思想家の場合にも当てはまる。


 57.このことは厳密だと思う。もちろん、他の議論と同じように、最終的には究極的に確実なものに依存しているわけであり、それに挑まれると、更なる議論によって証明することはできない。たとえば、何ものも存在しないということが幻影に過ぎないという信念を主張し、その説明が幻影が存在することを含むことを否定するならば、私にはどうして彼が反駁できるのかわからない。しかし、私は彼が間違っていることを信じている。そして、それは一般的に――実際普遍的にだと思われるが――受け入れられることを信じている。
 何ものかが存在するということ自体は非情に一般的に受け入れられる命題だといえ、もしそれを疑ったり否定するだけの懐疑家がいたとするなら、懐疑家がもしその懐疑主義を十分先にまで進めているのなら、懐疑家も疑いあるいは否定するような議論によって彼らを反駁しようとしても無益である。このことに対する答えは、経験によって示される有用性である。何ものも存在しないことが可能だと考え始めたものには、経験は、彼らは可能性のことを考えているのだから、可能性についての思考は存在するということを指摘し、それが可能だと考えることは止めにするよう示す。
 なにかが存在することを否定したり疑ったりすることから出発することの利点は、他の主張よりも、否定や疑いが、もちろん、より感情に訴えることが多いからでしかない。何ものかが存在するという命題は、2足す2は4や、あるいは5であるという場合のように、それ自体のうちに肯定や否定の存在が含まれているので、同じようなやり方で肯定や否定の証明ができる。しかし、我々は存在そのものを疑うあり得べき懐疑家をどう扱うかを考慮しているのであり、我々は彼がなにかが存在することを疑ったり否定しているのに、2+2の合計について何らかの主張をもちうるかどうか確信が持てないのである。


 58.「何ものも存在しない」という命題は、我々は排除するが、自己矛盾ではないことには気づいている。「どんな命題も真ではない」というのは、もしそれが真なら、他の命題と同時にその命題も真ではなくなることになるので、自己矛盾的な命題である。しかし、「何ものも存在しない」の真理は、主張そのものと、あるいは何ものかによってそれについて考えられているということと相矛盾するかもしれないが、それ自体と矛盾することはない。かくして、「何ものかが存在する」というのは、「何ものかが真である」という命題同様に、純粋な論理だけで確実視することができる命題ではない。
 また、「なにかが存在する」という命題は、自明ではない。すでにいったように、それは何らかの個物が存在すると主張するいかなる命題にも含まれているという事実に基づいている。さて、前の章でいったように、何らかの個物が存在するという証拠は常に知覚によって成り立っている。我々が直接にXを知覚するか、Xの存在を含むYを知覚しないならば、Xが存在すると信じる根拠は持ち得ない。かくして、「なにかが存在する」という命題についての信念は、知覚に依存している。たとえば、ある者が何ものかが存在するかどうかという疑問を上述の議論によって考えるならば、彼の精神の存在の状態――何ものかが存在するかどうかという問題を考えている――を内観によって知覚することによるだろう。
 しかし、その否定が自己矛盾ではないこと、その真理が自明ではないことから、何ものかが存在するという言明は、いかなる言明でもそうでありうるような確かさしかもっていない。もちろん、知覚されたものを誤って描くような判断も可能であるから、知覚に基づいた判断が間違っている可能性もある。しかし、そうした誤りは、この特殊な判断を無効にすることはできない。というのも、すでに見たように、Xが存在するという判断がそうした間違った記述によって間違いであったとしても、間違った記述は存在しなければならず、何ものかが存在するという判断はいまだに真であるからである。

 

第五章 性質

 59.そのとき、何ものかが存在する。そこで我々はより先に行くことができる。というのも、存在は、それ自身を越えた関連づけをもたぬ語ではなく、存在するものの本性は存在することであるといって十分なわけではないからである。なにかが存在するということは、否応なくその何かが何であるかという疑問を生じさせる。そして、この疑問は存在以外のなにかを主張することで答えなければならない。
 この議論の力は、もし我々が「なにか」を文字通りにとってはならないということを思いおこなさいならば、失われてしまうだろう。「なにか」というのは我々が得うる、最も抽象的で非確定的な語ではあるが、文字通りに取ると、十分に不確定というわけではなく、というのも、それは何らかのものを意味しているだろうからだ。そして、もし我々が存在を通常の意味におけるものだというなら、我々はそれについて単に存在しているという以上のことをいっていることになる。我々はここで「なにか」というのを完全に非限定的なもの――述語の抽象的な主語――ととらねばならない。ドイツ語のetwasは、少なくともヘーゲルの使用法によれば、我々の現在の目的にとっては限定的すぎるものではあるが、より誤りが少ないだろう。
 そしてまた、それは存在を述語づけるのを抑制する単なる実定的な性質なのではないともおぼえておかねばならない。これ、またはあの性質を持たせるだけではなく、それらの性質を持たないことは、存在に存在とは別の本性を与えることになる。同じ事は関係についても当てはまる。存在はその存在を越えた本性――実体性――なしには実体ではあり得ない。もし我々が存在でとどまり、それ以上進むことを拒むなら、存在とは完璧で絶対的な空白であり、それだけが存在するということは何ものも存在しないということに等しい。
 かくして、我々は、なにかが存在するという前提から出発し、何ものも存在しないという結論に達したのであるから、矛盾に巻き込まれたことになる。それゆえ、我々はこの矛盾に導く仮定を捨て去らねばならない――存在には存在を越えた本性はないという仮定である。
 同じ結論に別の方法を使ってたどり着くこともできる。それが存在するという事実以外に存在に真であることがないならば、たとえば、それが四角だということも真ではないだろう。しかし、そのとき、排中律の法則によって、それが四角ではないということは真であろう。すると、結局、その存在以外になにかが真であるということになる。


 60.そのとき、我々は第一の段階を越えなければならない。なにかが存在することは真であり続け、そのなにかについては、存在以外のなにかが真でなければならない。なにかについて真であることはなにかの性質である。それゆえ、なんであれ存在するものはそれ自体性質である存在以外になんらかの性質をもっていなければならない。
 性質は定義し得ないものと考えられるべきだと思われる。我々はなんであれなにかについて真であることは性質でなければならないといったところである。しかしながら、すべての性質がなにかについて真であるわけではないので、それを性質の定義ととることはできない。もしなにも赤でなかったとしても、赤は一つの性質だろう。しかし、我々はなにかについて真あるいは偽であるものとして性質を定義することができるだろうか。第二章で、我々は性質という概念を導入することなく真と偽を定義したが、真でない性質はなく、それが我々が性質についての定義を与えると考えられる。
 しかし、これは間違いであろう。我々が「真」として定義するものは、信念と想定には適用しうるが、性質には適用できない。それは性質について適用しうる「について真である」とはまったく異なったものであり、信念や想定には当てはまらない。同様の相違は「偽」と「について偽」の間にもある。「について真」と「について偽」を定義するなら、XがAに属すると主張するのが真の信念であるときにXはAについて真であり、XがAに属すると主張するのが偽の信念であるときにXはAについて偽であるといえるだけだろう。XがAに属することはXがAの性質であると主張しているのと等しい。かくして、我々の性質の定義は、悪循環を含んでいる。
 もし我々が何かが性質であるのかないのか見出そうと努めるならば、我々の疑問を「それはなにかについて真であるのか偽であるのか」という形にした方が有効なのは間違いない。しかし、そうすることは、定義によって「性質」という語を置き換えることではない。我々が語る主語が、諸性質を、また諸性質だけを特徴としてもっているのかどうかを探求するだけのことである。
 性質は定義できないものなので、我々にできることは、諸性質の例を指摘することである。なにが性質であるのか確かなものにしようとするのは簡単なことではない。一見して性質と見えるものは、実際には関係であることもあり得、関係と思われたものが実際には関係に依存する性質であることもあり得る。しかし、いくつかの事例では、間違いがない。善、幸福、赤、甘さは性質である。


 61.なにかが存在し、それが存在以外のなんらかの性質、あるいは諸性質をもつこともある。しかし、それがもっていない諸性質があるというのも確かなことである。
 互いに両立しない性質があるのであるから、それは確かである。四角であることと三角であること、赤であることと青であることは両立しない。(1)それは、なんであれ存在するものはある種の性質をもたないということを証明するのに十分である。もしそれが四角であるなら、三角ではない。三角であるなら、四角ではない。どちらでもないなら、少なくとも二つのもっていない性質がある。

(1)その証拠は単に経験的なものだと言われるかもしれない。しかし、私はそうではないと思う。赤であるものが青であり得ないのは、帰納によっては証明されない普遍的な命題であり、赤と青がなにを意味しているか知っている誰にでも明白である。それゆえ、それは経験的ではない。感覚知覚なしに赤や青の概念を持つことが決してないのは明らかである。しかし、感覚知覚なしには我々は直線の観念を持つことも決してないのであり、それによって幾何学が経験的なものになるわけではない。

 ある性質をもたないことは積極的な側面ももっている。我々がXという性質を否定するときには、Yという性質を肯定するときと同じように、真の知識を得ている。Aが三角形ではないということは、Bが三角形だと知るときと同じくらい学ぶところがあるので、三角形とは両立しない本性の相違は、三角形と両立する本性よりもずっと大きいのである。かくして、Aが三角形でないと知ることは、Aについてなんらかのことを我々に伝える。そして、既に限定された肯定の領域内では、ある性質の否定は、別の性質の肯定を含みうる。
  ある性質を持たないことの肯定的な側面は、ある性質の否定を矛盾を認めることに転用することで便利に表現することができる。三角形や精神が四角である性質を持つことを否定する代わりに、我々はそれが非四角形的な性質を持つことを主張できる。「これは四角ではない」と「これは非四角である」との相違は些細なことに思える。しかし、我々の目的にとっては、後者は前者とは異なり、あらゆる否定の肯定的な側面を強調するために意味がある。


 62.存在するものは何であっても、複数の性質を持つ。実際、存在するすべてのものは実定的な性質と同じくらい多くの性質を持つだろう。というのも、それはそれぞれの場合において、肯定的な性質やそれに応じた否定的な性質を持つからである。さらに、それらはそのうちにおいて一つ以上の否定的性質を持つことは確かである。というのも、非四角、非三角、非円という三つの否定的性質について、あらゆるものは少なくとも二つの性質を持たねばならないことは明らかだからである。存在するものは何でも、一つ以上の肯定的な性質を持つであろうことも明らかである。というのも、存在自体が肯定的な性質であり、何であれ存在するものは肯定的であれ否定的であれ、複数の性質を持つものであるから、多くのもので性質づけられているのも真であろう。そして、これ自体が第二の肯定的な性質である。(1)

(1)「多くのもので性質づけられている」とは、間違いなく多くの性質のそれぞれとの関係を含んでいるが、ある性質であって関係ではない。


 63.諸性質は分析によって認められるものに分割でき、それゆえ分析の言明によって定義することができ、分析し得ないものはそれゆえ定義し得ないものである。それは単純性質と呼びうる。前者は分析の性質にしたがって二つに分類され、それぞれ複合的、複雑性質と呼ぶことにしよう。
 複合性質は、諸性質が統合されたものとして分析しうるものを意味している。何らかの二つの性質が一緒になったものは複合性質を形づくる。赤くて甘いは、特別な名称はないが、複合的な性質である。何ものもそうした特殊な性質を持ち得ないと知っているにもかかわらず、四角で三角だというのもそうである。複合性質の最も明らかな例は、自然史の種に見いだされる。たとえば、人間は理性的動物だという古い定義を採用するなら、人間性は動物性と理性からなる複合的性質である。複合性質を構成する性質はその部分といいうる。
 複雑性質は諸性質を寄せ集めてなるものではないが、諸性質であれ諸関係であれ、またはその双方であれ、他の特徴によって分析し、定義されうる。かくして、もし我々がうぬぼれを事実として正当化される以上に自分自身について高い評価をもつことと定義するなら、うぬぼれは分析は可能だが、諸性質の集まりを分析しているわけではないので、複雑性質だといえるだろう。あらゆる否定的な性質は複雑であり、というのも、一つは否定、もう一つはそれに対応する肯定的な性質と分析され、そうした項の寄せ集めではないからである。複雑性質は分析によって得られる特徴の寄せ集めではないので、そうした特徴は複雑性質の要素ではなく、部分と呼んだ方がいい。


 64.複合的あるいは複雑性質の直接的な部分や要素は、単純な要素である必要はなく、それ自体が複合的で複雑であるかもしれない。XがYとZに分析可能であり、ZがVとWに分析しうるものなら、XはV、W、Zに分析しうるというのが「分析可能」な関係である。(1)かくして、何らかの定義において、複合的あるいは複雑な用語を見いだすときにはいつでも、その項を定義と入れ替えることができ、この過程は本来の用語の定義が完全に単純な特徴としてあらわされるまで続きうる。

(1)つまり、関係は移行的である。84.参照。

 しかし、この結論はあらゆる複合的、複雑性質が到達することは確かだろうか。分析された諸性質が再び分析され、そこで到達された用語が再び分析され、無限に続き、単純な用語には決して到達しないこと――あるいは少なくとも、分析された用語のすべてが単純であるような分析はないこともあり得るのではないだろうか。
 しかしながら、これは可能ではない。もし我々が何らかの特殊な性質が何であるかを問うたなら――なにかの述語とするときにそれが何を意味するかということである――答えは、単純ではない性質の場合、分析しうる用語が何であるかによるということになる。それゆえ、いずれにしろ、分析が無限に続きうるとしても、性質が何であり、それを述語とするとき我々が何を意味するかは、最終的な用語をもたない系列の最後の用語によるということになろう。かくして、それはなんら特殊なものではなく、述語にしたとしても何も意味しないことになろう。ある性質においてそれは不可能である。分析の系列は、そのとき無限ではあり得ず、完全に単純な特徴からなる分析で終わらなければならない。
 このことは、ある性質の分析が無限に差異化し得ないことを意味するのではない。たとえば、単純な性質の無限の数が存在するなら、それらをなり立たせる複合的な性質があるだろうし、そうした性質は無限に差異化しうるだろう。(1)そして、複雑性質はまた、無限に差異化する分析をもつかもしれない。そうした諸性質は人間精神には知り得ないが、にもかかわらず実在であるかもしれない。不可能なのは、決して単純な特徴に終わらない分析があるということである。

(1)すべて単純な性質からなるものがあり得ない以上(赤であるとともに青であるような)、すべて単純な性質からなる複合性質が決して、一つの性質として存在し得ない。しかし、あらゆる存在物の性質となり得る、対応する否定的性質の要素としては存在するかもしれない。

 二つ、あるいはそれ以上の性質が複合性質を形成するのであるから、何らかの特殊な事物が有するすべての性質は複合性質である。そして、この複合性質は事物の本性といえるだろう。

 

第六章 実体

 65.なんであれ存在するものは諸性質をもっている。それらの性質はそれ自体存在しているか、さらに諸性質をもっており際限なく続くかとなろう。しかし、この系列の冒頭には、それ自体が性質ではない性質をもっているものが存在するだろう。その通常の名は、私はそれを最良だと思うが、実体である。


 66.この結論はしばしば反駁される。諸性質が通常実体の述語となるような場合、我々が正しい見解をとれば、実体なしで済ますことができ、性質の概念だけを使用すればいいと主張される。通常の見解によれば、ある実体の述語とされるような性質の集合は、ひとつの述語がなくても存在するかもしれない。
 しかし、なんらかの性質はなにかの述語となり得ることは否定されるか、すべての性質がなにかの述語となり得ることが認められて、その幾ばくかが実体の述語となり得ることが否定されるのではないだろうか。二者択一の最初の方をとると、その場合、その集合について、それは集合であるとも存在であるともいえず、それを構成する性質が性質であるとも、存在しているとも言えないので、不条理にいたる。それゆえ、理論は我々の真理と両立し得ない。
 しかし、もし我々が他の選択肢をとるなら、明らかにある実体の述語であるそれらの諸性質がが実際にはなんの述語だといえるのだろうか。一般的に、それぞれの性質はそれ自体の述語であるということでこの問いに答えることはできないと認められていよう。たとえば、私がスミスは幸福だと述べたとき、私が真に意味しているのは、幸福の性質が幸福なのだと主張はされないだろう。
 それに、それぞれの性質が諸性質の集合の述語となり得、そのうちのひとつが、一般的な見解に従えば、実体の本性だといえるだろうか。もしそうだとしたら、通常の言葉において、我々が実体のある性質を述語とするときはいつでも、我々はその実体の本性を述語との主体と交換しうる。そして、それは可能ではない。たとえば、我々はスミスが幸福だと述語づける。彼の全本性は、知恵、善、正気、幸福から成っているとしよう。さて、我々がスミスは幸福だというとき、スミスをそのどれかの性質または全性質をもって代替することができないのは確かである。我々は知恵、あるいは善、正気が幸福なのだと意味してはいない。これら三つの命題は限定された意味をもっており、そのどれもが我々がスミスは幸福だと主張していることを意味していない。同じように、知恵と善と正気の寄せあつめ、あるいはそれらによって形成された体系が、体系を結びつける関係の本性がどんなものであろうが、幸福だと意味することはできない。
 上述のことは、我々が例にとったもののように、実体についての命題が真であるのに、性質についての命題が偽でなければならない場合を考えるとより一層明瞭になる。スミスが幸福であることは真であるかもしれない。しかし、幸福、知恵、善、正気、あるいはその寄せ集め、それらによる形成物は幸福たり得ないものであり、というのも、意識的な存在以外にはなにも幸福たり得ず、性質や性質の寄せ集めあるいは体系などは意識的存在となり得ないからである。
 かくして、諸性質と実体を取りかえる試みはあきらめなければならない。存在の実際の本性は、我々が取り上げた四つの性質に限定された例などよりもはるかに複雑なのが常である。しかし、複雑さが増すことは困難を取り除くこととなんの関わりもないだろう。
 また、なにかの本性は統一であるとともに複数的であるのも真である。しかし、我々はこの統一を異なった諸性質が述語づけうるものとしてとることはできない。善、知恵、正気の複合物がいかに統一に近しいものであろうが、それが幸福たり得ず、たとえ幸福たり得たとしても、そして、スミスが善良で、賢く、正気であるとしても、我々がスミスの幸福を主張するときに、それらが幸福なのだと主張することはできないことは真にとどまるだろう。


 67.存在の諸性質が述語とされうることは、それ自体、また互いに存在の性質となり、あるいはその統一となることはあり得ない。しかし、いずれにしろそれは実体ではないだろうか。あらゆる場合ではないにしても、いくつかの事例において、もう一つの性質になることはあり得ないだろうか。
 しかしながら、それは不可能である。というのも、性質がそれ自体において存在することはないからである。ある性質に関する主張が存在についての主張となり得る唯一の事例は、その主張が性質と存在する他のなにかと結びつける場合だけである――勇気はネルソンの性質であったと我々が言うときのように。他の諸性質以外になにも結びつけることがないならば、悪性の無限の系列が生じるだろう。というのも、我々が系列を始める最初の項が存在する別のなにかと結びつかなければならないからである。もしこの他の何かがまたある性質でなければならないとしたら、第三の存在に結びつくことのみによって存在を得ることができ、第三の存在もまた性質を持ち、第四の存在と結びつくことによってのみそれを得ることができる、と無限に続く。かくして、第一の項と存在とを結びつけることは、最終的な項などない系列の最後の項に依存していることになろう。それゆえ、諸性質以外になにも存在しないという見解を保持することは不可能である。存在し、それ自体性質ではない諸性質を持つなにかがなければならない。
 同様の議論によって、存在し、性質ではない諸性質を持つものはいかなる場合においても関係ではあり得ないと示すことになろう。というのも、性質と同じように、関係はそれ自体においては存在し得ず、悪性の無限な系列が性質の場合と同様に生じるだろうからである。
 なにかが存在し、それ自体は性質でも関係でもない諸性質を持っていなければならない。そして、それが実体である。次の章において、すべての実体は関係を持ち、かくして、それ自体は性質でも関係でもない諸性質を持ち、関係するなにかが存在するという結果に達することになろう。これは伝統的な実体の定義であり、私が採用を提案するものである。(1)

(1)厳密に言えば、存在し、それ自体が性質でも関係でもない一つあるいはそれ以上の性質を持つと実体を定義するだけで十分だろう。しかし、あらゆる実体は一つ以上の性質を持ち、一つ以上の関係を持っている。(実際、後に見るように、あらゆる実体は無限の性質を持ち、無限の関係に置かれている。)それゆえ、教科書に見られるような通常の定義に従うことで不便なことは起きないだろう。

 実体は性質ではないが、実体は実体性という性質を持つだろうことは注意するべきである。もちろん、我々はそれは実体であるという事実によって実体を主張できるが、それは実体性という性質に述語づけられたものである。しかしながら、この性質の存在は、存在を完全に諸性質に還元することはできない。というのも、この特殊な性質は、もし存在がそれ自体性質でないならば、いかなる性質に関しても真ではないだろうからである。


 68.実体が存在するという結論に対し、実体は諸性質を離れては存在せず、それゆえ、諸性質と切り離された実体の概念は不可能であり、その名称そのものが無意味な言葉であると反論されている。しかし、これは間違いである。もちろん、実体が諸性質と分けてしまえば何ものでもないのは確かである。もし我々が諸性質のない実体の概念を形づくろうと試みるなら、その企ては面のない三角形の概念をつくりだそうとするほど希望のないことだろう。しかし、実体は諸性質と離れては何ものでもない故に、諸性質とつながる何ものもないということにはならない。そして、我々が諸性質ではない実体の概念を形成することができない故に、諸性質のある実体の概念を形成できないということにはならない。
 もし議論が妥当なものであるなら、存在する諸性質とともに実体についても決定的に正しいものとなるだろう。というのも、性質は存在する他の何ものかの性質としてのみ存在しうるからである。我々はこの他の何ものかが、いかなる場合においても実体ではないと想定することが維持しがたいことを見てきた。それゆえ、存在するものの諸性質は、諸性質なしの実体のように、実体なしには不可能である。また、もし実体がこの議論を根拠に排除されるなら、我々はまた存在する諸性質もまた排除しなければならない――その帰結は、実体を排除し、存在する諸性質を保ちたいと望んでいるこの議論の支持者にとっても予見されないだろう。
 我々がいま論じている謬見は珍しいものではなく、一般的に、ここでと同じように不整合なものとなる。AとBは関係においてしか存在し得ない。そこで、そのうちのひとつ、たとえばAは、BのないAはなにものでもないから、Aはなにものでもない、と主張される。そして、Bはそれだけ残されて、事物のなかの唯一の実在であり、自律したものだと主張される。しかし、このことは、AはBと関係がないかもしれないので、Aが何ものでもないことにはならない。もし議論がAにとって致命的なら、同じくBにとっても致命的だろう。


 69.同じような反論がスタウト博士によって提示されている。「それでは、属性とは区別される主語とはなんであろうか。すべての存在はその属性が属する存在によって成り立っていなければならないと思われる。次の疑問に答えねばならない――かく関係しているのはなんであるか。」(1)

(1)『アリストテレス的社会会報』1914-15.350頁。

 ある主体の全存在はその属性との関係においては成り立ち得ないことを認めることは可能である――あるいは、我々の用語を用いるなら、ある実体の全存在はその属性との関係において成り立つことはあり得ない。しかし、実体の存在に入ってくる他の要素のことは言及せず、その性質だけに限ったとしても、我々が実体はその性質に関係しているというとき、最も重要な点には触れていない。間違いなく、実体はその性質に関係している。スミスが幸福なら、実体であるスミスと幸福という性質になんらかの関係が存在する。彼は幸福という性質に関係しているだけではない。彼は幸福である。そして、根本にあるのは後者である。彼が幸福だという事実は一次的な事実であり、彼が幸福という性質に関係しているという事実はその派生物に過ぎない。というのも、彼の幸福という事実が幸福という性質に対する関係に還元されうるなら、同じ原理によって、幸福という性質への関係はその関係と二つの項――スミスと幸福という――のあいだの二つの関係に還元すべきであるからである。そして、我々はブラッドリー氏にすべての関係の実在を否定せしめた無限の系列を辿りはじめることになる。(1)

(1)88参照。

 かくして我々は、実体に性質を与えることによって関係するものはなにかというスタウト氏の疑問に答えることができる。関係されるものであるスミスは、幸福であり、また人間等々である。


 70.別の観点から見れば、我々は実体という概念の代わりに主体という概念をとるべきだという批判が為される。この批判において、主体という言葉は述語をもつ論理的意味において用いられているのではなく(我々がいま考慮したスタウト博士の一節にあるように)、知識をもつ意識的な自己という認識論的意味において用いられている。さてそれは――第五巻において示すように――その諸性質と諸関係を伴った精神、諸部分、精神の諸グループ以外にはなにも存在しないような事例であるかもしれない。しかし、そのことは実体という概念を捨て去ることを正当化するものではないだろう。そうした諸精神、諸精神の部分とグループでは、それらが実体であるという事実を除いて多くのことが真であり得、それらがそれ自体において性質でも関係でもなく性質を持ち、関係づけられているのであるからいまだ実体であるかもしれない。
 この反論は、通常自らをヘーゲルの後継者と位置づける思想家によって為される。ヘーゲルの哲学に弁解の余地があることは確かである。知る主体という概念は彼の弁証法においては最も高いカテゴリーに含まれるもので、実体というカテゴリーはもっとずっと下にある。より低いカテゴリーは部分的に誤っているというヘーゲルの原理に従えば――我々の受け入れない原理であるが――何かを実体の名で呼ぶことは常にある程度の誤りを含むことになる。
 しかし、私が語っている現代の実体に関する批判は、ヘーゲルの原理に正当化されうるよりもずっと先を行っているように思える。というのも、この原理によれば、低次のあらゆるカテゴリーは部分的に真の実在であり、それに続く弁証法が幾許かの誤りを示し、超越する場合を除けば、絶対的に真なのである。かくして、実体のカテゴリーは、決定的に間違っていると示される点がない限りは真の実在であろう。しかしながら、これらの批評は、何ものかが主体であると証明されれば、ちょうどある形が正方形であると証明されれば、それが三角形であるという以前の間違った信念に基づいた結果をすべて払いのける資格があるように、実体であるということから推論されたすべての帰結を一度に払いのける資格があるとしている。そして、これはヘーゲルの原理によって正当化されないことは確かだろう。


 71.より早くから実体という概念に達することは可能ではなかったのだろうか、と問われるかもしれない。存在の概念から直接に進むことは可能ではなかったのだろうか。というのも、結局のところ、存在そのものがひとつの性質だからで、存在以外の他の性質の存在を演繹するまではその名を用いなかったのではあるが。そして、このことだけから我々は実体を演繹できる。単に存在する存在はあり得ないからである。他の性質以上にそれ自体で存在が存在することはできない。なにかが存在するなら、存在するという存在という性質以上のなにかでなければならない。このことは我々に再び実体のカテゴリーにもたらさないだろうか。
 これらの問題には肯定的に答えなければならないと私は思うが、それは我々がとってきた道のりを咎めるものではない。第三章で指摘したように、我々の方法にはときに選択の道が開きうるからである。Aから、BとCを含む結果にいたる資格があるなら、ある場合には、AからBに、そしてCに、あるいは、AからCに、そしてBにと進む可能性があることも驚くべきことはない。
 より早く実体を導き入れ、実体に達するまで性質のことを先延ばしにすることも可能であっただろうと思う。しかし、私が進んできた道筋は同じように妥当で、より便宜にかなったものだと思われる。それには二つの理由がある。第一に、より非論理的だというのではないが、性質の多数性とそれに帰せられるすべてを混同するよりも、実体とそれに帰せられる唯一の性質を混同することの方がずっと容易に扱えるからである。諸性質がそれ自体を述語化するだけのものであれば、赤と非―青とは同じ性質ではないのであるから、赤でありかつ非―青であるものなど存在しないことになるのは明らかである。かくして、同じ主語に多くの性質が述語化されざるを得ないと理解するのに応じて、主体は述語化される性質ではあり得ないことがより明らかになる。そして、我々は、歴史上の事実として、しばしば多数性に対して統一が実現されること、それがひとの注意を実体の存在に向けることを見ている。
 第二に、実体の必然性を示すためには、実体を述語となる性質、実体に属する他の諸性質、或いはそれら諸性質の混合物、或いは諸性質によって形成されたシステムと代替することができないと示さねばならなかった。そしてこの点は、性質の多数性が存在するということを示すまでは自然に生じてくるものではなかった。


 72.実体の概念は残りの探求において主軸となる重要なものであり、我々が採用した定義を詳細に検討するのに本質的なものである。さもないと、この定義によって、通常はそうされない数多くのものが実体に分類されるので、混乱が生じることになろう。実体という名は、その他の特徴のなかでもとりわけ、無時間性、或いは時間を通じて存続するもの、多よりもより根源的な一、としてしばしば限定され、特殊な重要性をもつものの統一ととられている。くしゃみは通常実体とは呼ばれないだろうし、政党や教会の赤毛の大執事たちも単一の実体とは考えられないだろう。しかしこの三例はそれぞれひとつの性質でも関係でもなく、諸性質を持ち関係されているので、我々の定義に適合する。それゆえ、後の二例は明らかにいくつかの実体の混合物であり、後に見るように、最初の例も(そして実際には、他のあらゆる実体も)そうした混合物ではあるが、どれもが単一の実体と呼べるものとなろう。
 通常の使用法と大いに異なっているので、我々の用語がかくも広範囲にわたることは便宜にかなわず、望むべきことではないといわれるかもしれない。しかし、すでに述べたように、我々の実体の定義は一般に広く受け入れられるであろうし、用語の相違は不整合からのみ生じるのである。


第七章 差異化

 73.かくして、実体は存在する。しかし、更なる疑問が生じてくる――多くの実体が存在するのだろうか、それともひとつのみなのだろうか。この疑問を自らに課してみなければならない。より端的にいえば、実体とは差異化するのだろうか。私は差異化という言葉を実体の多数性にのみ用い、諸側面や性質の多数性には適用しない。たとえば、ある人物が実体だとすると、カレッジは幾人もの人物からなっているので、差異化されているというべきだろう。しかし、私はある人物がその本性において、実体と諸性質の二つの側面に差異化できるから、或いは、彼が多数の性質を持っているからという理由で、差異化されているとはいわない。他方において、ある人物がいくつかの実体からなっているとわかったなら、彼は差異化されているといえるだろう。
 実体が差異化されるかという疑問は、すべての実体が差異化されるのかという疑問から区別されるべきである。単純な実体が存在しないのであれば、あらゆる実体は差異化され、いっそう有力な論拠によって、実体は差異化されることになる。しかし、数多くの――有限であれ無限であれ――単純な実体が存在すると想定すると、一つ以上の実体が存在し、単純な実体が存在するのであるから、あらゆる実体が差異化するのではないことになる。
 実体は、我々が言葉として定義する意味では、差異化すると一般的に想定されている。実際、それを一貫して否定しているのは、エレア学派や二三の東洋の汎神論者だろう。(1)しかし、一般的に認められているこの見解は、証明できるのだろうか。

(1)スピノザによっては一貫して否定されていない。彼の様態は、我々の定義によれば実体である。それに、彼がその様態の関係を等し並みに否定しているとはいえない。

 このことを証明するには、45で述べたように、知覚に訴えかけるのが最上である。そうした訴えかけは、その箇所でも述べたように、厳密に必然性があるとはいえない。というのも、後に論じるように、実体が単純なものであり得ないこと、すでに見たように、そのことから実体が差異化されていると証明されることはアプリオリに確かだからである。しかし、実体は単純なものではあり得ないという見解は、私はそれが正しいと信じているが、目新しく議論の多いところなので、知覚に訴えて実体の差異化を証明することは、逆のことはできないにしても、より一般的な同意を得られるように思える。


 74.存在物が通常我々が判断するようなものであるなら、実体が差異化していなければならないことは明らかである。第一に、独我論が正しく、私自身なんの実在ももっていないのではない限り、私となにかが存在することは明らかであり、それは実体が差異化することを証明するだろう。この結果は、我々がヒュームとともに、或いはブラッドレー氏とともに、自己は実在ではなく、二人の著述家がしたように、間違って自己と想定される異なった実在があるだけだとしても、変わることはないだろう。
 しかしながら、独我論は擁護されてきた。それを却けるのに十分な理由があると私は思う。しかし、そうした理由は、我々がすでに到達した地点を越えてさらに遠くへと探求を進めるまでは明らかにならないので、ここで私自身と他の何ものかへの実体の差異化に頼るのは安全とはいえないだろう。


 75.しかしながら、たとえ独我論が認められたとしても、通常の立場――もし我々が通常の独我論について語れるとしたならば――差異化された実体を保持するだろう。というのも、もし時間が実在だとすれば、継起する時間のそれぞれの瞬間にある私の状態は、諸性質や諸関係であることなしに、諸性質を持ち、関係されるので、実体だろうからである。そこで、私の存在は、時間の一瞬以上で、差異化された実体であることが証明されるだろう。(1)或いは、時間が非実在と取られるなら、我々が間違って時間のなかにいると信じている状態さえも、異なった状態であり、差異化を証明することになろう。

(1)たとえそうした異なった状態が、自己の本性の変化によって分かたれるときにのみ存在するのだとしても、実体は差異化されていると証明されるだろう。というのも、私は時折変化するのは確かであり、私自身の一回の変化であっても実体が差異化していると証明するのに十分であろう。

 しかし、差異化のさらに明らかな証拠を求めてさらに先に進んだ方がいい。というのも、時間の実在は否定されており、私も第五巻で、それは排除すべきだと示そうとしているからである。すでに見たように、時間の排除が時間のうちにあらわれる諸状態を異なった実体として残しているならば、より単純な過程によって差異化を証明するような例を見いだすことができればよりよいことになろう。
 我々はそうした例を、常に明らかとはいえないが、ほとんどの場合に明らかな知覚野の差異化に見いだすことができる。赤と鋭い音を同時に感覚し、経験したとき、私は二つの異なった知覚データの存在に直接に気づく。私の知覚データは実体である。それらは時間にしたら束の間かもしれないし、私にだけ感じられたことで共有する者はいないかもしれないが、私の一部である。そしてそれらは諸性質を持ち、関係し合っているが、性質でも関係でもない。それらは実体であり、それらが一つ以上のものであれば、実体は差異化されている。
 これで十分だろう。しかしさらに進み、単一のデータの知覚は実体の差異化を証明することに気づくのは興味深いことである。というのも、知覚データを別にして、知覚もまた存在するからである。もし、私がこの事例に当てはまると信じているように、知覚が心的状態ならば、その状態とデータは二つの実体である。他方において、ときに主張されているように、知覚とはデータがひとつの項である関係なのだとすれば、他の項もまたなんらかの存在物――おそらくは自己――でなければならず、再び、二つの実体が存在しなければならない。


 76.さらに先に進み、すべての知覚ばかりではなく、すべての思考も、実体の差異化を含んでいるといえるだろうか。もしできるなら、とりわけ、実体は差異化しないという命題の主張が、命題が誤っていることの十分な証明になるといえるべきだろう。すべての思考が実体の差異化を含むかどうかは、その答えが我々の思考についての理論にかかってくる問題である。少なくとも二つのことを自覚しないでは判断も仮定も下せない。たとえば、私が実体は差異化しないものであるという命題を肯定、或いは考慮するならば、実体と差異化されないということの意味が何であるかを自覚していなければならない。もしこうした自覚が私の部分であるなら――私はそうだと思うが――自己の部分は実体であるので、実体の差異化が存在する。しかし、もし、考えられているように、判断や仮定が自己と多様な非存在的項との関係でありうるなら、判断や仮定は自己以上のいかなる実体の存在をも含む必要なないことになる。
 しかし、たとえ、こうした考えが実体の差異化を含まないのだとしても、私がいだいた考えの知識はそれに含まれている。というのも、知覚に基づく知識、その思考は私がデータをもっていると知っていることについてであり、他の知覚同様、それは実体が差異化することを含んでいる。
 しかしながら、思考を問題にしないでも、実体の差異化は確かである。誰にとっても知覚をもっていることは自明である。たとえ自分自身の外部にはなにも存在しないのだとしても、また、たとえただひとつの知覚をもっているだけなのだとしても、すでに見たように、そのことで、実体は差異化することを証明するには十分だろう。


 77.そこで、実体は差異化する。我々が頼りにするその証拠は、すでに見たように、経験的なものである。いくつかの個別な差異化についての知識をもとに実体は差異化するという信念は基づいており――ただひとつでも我々の論点を証明するには十分であろう――それは経験的にしか知り得ないものである。しかし、すでに見たように、単一の知覚の存在で差異化を証明するのに十分なので、差異化を疑い、あるいは否定する人物の立場は、すべての知覚を疑い、否定することを含むことになろう。そうした立場は、ほとんど完全な懐疑主義に等しい。知覚を疑い、否定することを自ら知っていることを認めることなしに、知覚を疑い、否定することは誰にとっても容易ではないだろう。そして、疑いや否認の知識は知覚からのみ得られるものである。
 実体は差異化するので、多数の実体が存在する。しかし、我々が到達したこの結論に至る議論のなかには、存在するすべてのものはまた単一の実体であるとすることを妨げるものはなにもない。実際、それが単一の実体でなければならないことは明らかである。というのも、もし我々が存在するものすべてをとれば、それが諸性質をもち、それ自体が性質や関係ではないことは明らかである。実際、それは我々が採用した実体の定義の結果であり――その結果は定義を採用したものに常に理解されるわけではないが――実体のすべての部分、実体のすべての集合はそれ自体実体である。誤解を避けるためにこの点をここで述べておくのが望ましいと思えたが、我々の議論の序の部分は、単一の実体の本性に含まれるものについてさらに探求した後まで先延ばしにしなければならない。

 

第八章 諸関係

 78.いまや多数の実体があり、それゆえ、実体のなかに諸関係があるだろうことも明らかである。そこにある関係とはなんであるのか、というのはこの著作の多くの部分が費やされる問題だが、なんらかの関係が存在することは疑いがない。すべての実体は、みな実体であるので、互いに似通っているだろう。そして、すべての実体は、異なった実体であるので、互いに多様でもあろう。(多様ということで私が意味しているのは、時に数的な相違と呼ばれるもので、似ていないということではなく、多様性との関係は第十章で考慮することになろう。)互いに類似する、あるいは互いに多様な実体は、互いに類似性と多様性の関係にある。
 関係は、性質と同様、定義しかねる。例をあげて意味するところを示しうるだけである。AはBよりも大きい、Bと等しい、Bの父親である、Bの右側にある、Bを愛する、Bを無視する、というとき、我々はAとBの関係を主張している。なにかがなにかに対してある、なにかとなにかをつないでいるといった言葉で関係を定義できないのは、それらの言葉に関係について真である意味を与えるためには、事物が関係したときにそれがどんな種類の対峙、あるいはつながりかを定義しなければならないからである。かくして我々の関係についての定義は循環的になるだろう。


 79.関係は、A、B、Cが等しいというときのように、二項以上でもあり得る。また、少なくとも言葉の通常の意味では、一項だけでも関係は可能である。というのも、主体は自らに対して関係をもつこともありうるからである。すべての実体はそれ自身に対して同一性の関係をもっている。実体が自らと等しくなり、自らを軽蔑し、自らの受託者となり、縁者となることもある。
 かくして、我々はすべての関係がひとつ以上の項をもつということはできない。だが、関係のうちにあるものは、たとえ関係がひとつの項しかもっていないとしても、ある種多数性の側面をもっている。というのも、関係は常になにかをなにかに結びつけるからである。たとえ、それが自身と結びついているだけにしても、自ら結びつく項は――誤りに導くことはないと思われる隠喩を使うとすれば――関係の両端であり、それはもちろん、実体の多数性ではないとしても、多数性のある種の側面をもっている。このことは、いかなる関係も二つの項を、或いはひとつの項を二度使うことなしには表現できないことに気づけば明らかとなろう。Aは自分以外の誰も愛さないがその例であり、それは「AはAを愛する」や「Aは自分自身を愛する」と表現されるべきである。単に「Aは愛する」といって表現するはことはできず、それは誰と特定することもなく、Aは誰かを愛することを意味するだけである。
 自己に対する関係を考慮する際には単純化する傾向にあり、言葉を違った方に用い、たとえば、自己愛には二つの項があり、どちらの項も同じ実体にあるというようにいう。しかし、全体として、ひとつの事物は常にひとつの項でしかないととるほうがより便利であり、自己に対する関係を語る場合、ただひとつの項との関係とみた方がいい。


 80.関係と性質の相違は、どちらも定義不可能であり、その相違を定義することも不可能であるが、十分に明らかである。我々は性質についてはなにかについての性質ということができるが、関係はなにかについての関係ではなく、なにかとなにかのあいだにあるものである。しかしながら、このことは相違を理解する助けにはなるが、ここで用いられている「についての」と「のあいだの」は性質と関係の概念の助けとして理解しうるだけなので、定義を与えてくれるわけではない。
 もし我々がいったことが正確なら、関係は存在を記述するのに欠くことのできない概念である。存在物は関係を持ち、関係の概念は定義不可能であるので、等価のものとして取り得るような他の概念で代用することは不可能だろう。
 存在に関する理論に関して関係の概念を関わらせようと多様な哲学者たちにより精力的な努力が為されてきた。それらの努力が仮定するもっとも通常的な形式は、あらゆる場合において、関係の主張を性質の主張で代用しようとするものである。この目的のために提唱される理論は、関係が、存在においては確かなものではあるが、究極的なものだとは限定せず、性質によって定義可能であり、関係に関する言明は性質に関する言明へと翻訳しうるという。彼らは関係の概念は明らかに根拠がなく――どこにおいても正確に適用されるものではないと主張する。同時に、彼らは関係を主張する言明は完全に、端的に間違いだとまではいわず――たとえば、ロンドンはケンブリッジより大きいという言明は、ケンブリッジはロンドンよりも大きいという言明と真であるかについては等しいとする。そうした言明は性質についての混乱した不正確な言明であり、そうした性質についての混乱し、不正確な言明は同じように混乱し、不正確な性質についての間違った言明よりは真理に近い。性質についての言明は、ときに、関係が主張するそれぞれの実体の性質についてのものであり――上の例でいえば、ケンブリッジとロンドンである。ときに、それらはどちらの実体をも含むなんらかの性質に関するものともとられる。
 関係を排除する主要な理由は、それらがどこにもそうしたものとして存在しないからである。どちらかの項を除けば、存在しなくなることは明らかである。どちらの項についても、別々に取り上げることはできない。それは項のあいだにあり、それらのなかにはないといわれている。そのなかになにかが存在しうるのだろうか、と問われる。その答えが否定であるなら、それらは不可能であることが結論される。(1)

(1)これはロッツェの議論の仕方であり、実質的にライプニッツもそうである。ブラッドリー氏の反論は異なっており、異なった結論に導くものである。彼は、ライプニッツやロッツェのように、関係を性質に還元しようとはせず、性質も関係も同じように排除する。(88.参照)


 81.しかしこれは、それが性質のようにげんにあり、備わっているものが見いだされているのに、関係は不可能だと仮定しているのであるから、根拠として乏しい。関係の可能性を検証するものとしては、それが正確に性質のように振る舞えるのかどうかを問題にし、それが可能ではないと認められれば、関係は不可能であり、実在に関する真の見方においては、関係についての判断は性質についての判断に取って代わられると結論される。
 しかしながら、性質がそうであるように、固有なものであり得ないのならば、関係が不可能であると仮定することはなんら正当性がないことになる。「どのような関係なのか」という疑問には、それはなにかあるものでは決してなく、二つ、或いはそれ以上の項、或いはある項とそれ自体に関わるものであり、「のあいだ」という概念は「のなかに」の概念と同じように究極的なものであり、同様に妥当だと主張される。両者ともに究極的であり、どちらも矛盾を含まず、両者の使用を正当化するものは性質、関係のどちらの実在も主張、或いは含意することなしに、何事かをいうのが不可能であるという事実にある。性質に関し、関係に関し不可能であることはすでに見た。我々に直接関する事例は、実体と実体との関係は、実体は存在しているので、それ自体と同一でなければならないか、すでに指摘したように、一つ以上の実体が存在しているので、それらは互いに似ているか、互いに異なっているかでなければならない。
 こうした関係を主張する命題は絶対的に真であろうと留意しなければならない。単にそれを否定することによるよりも、主張することによってより真理に近づくというのではない。もし実体がそれ自体と同一であることが絶対的に真でなければ、いかなる実態もあり得ないし、諸実体が似ており、多様であることが絶対的に真でなければ、一つ以上の実体が存在し得ない。


 82.関係という概念は、存在と同じく確かなものと受け入れねばならない。しかし、確かだとは認められても、究極的で定義不可能なものであることは否定される。実際実体は関係のうちにあるのは真であると言い得るが、このように表現される事実は関係を持ち込むことなしに、性質のみによって表現されうる。しかし、これもまた間違っている。実体のあいだの関係として述べうる事実は、関係の概念を除いては述べることはできない。(私は「実体のあいだ」という言葉を「実体とそれ自身」を含んだものとして使用している。)
 この点について疑問となる三つの事実があると思われる。第一に、関係がそれぞれの項の性質に基づいていることは間違いない。しかし、このことはそれが性質に還元されうることを意味しない。もしAがBよりも大きいならば、この関係はAがマイル四方、Bがエーカー四方を覆っている事実に依存している。もしAがBを腹立たせたなら、この関係はAの政治的意見とBの感受性に依存しているだろう。しかし、Aの大きさについていうこととBの大きさについていうことは、そのことから確実、また直接に結論はされるだろうが、AがBよりも大きいという言明と等しくはない。そして、Aの意見とBの感受性について述べることは、人間本性の法則から導き出されるのだろうが、AがBを腹立たせることと同じではない。
 第二に、次の章で見るように、二つの実体のあいだの関係の存在は、それぞれの実体の性質の存在を含むことは確かである。「AはBに感嘆する」は、AとBとの関係を述べたものである。しかし、その真理には、「AはBの讃仰者である」と「BはAの讃仰の対象である」というAとBの性質を述べた真理が含まれている。しかし、我々はこれらの性質を関係の概念を除外して述べることはできず、というのも、最初にBを讃仰する人物の性質があり、次にAによって讃仰されるものの性質があって、そのどちらも讃仰という概念を導入することなしには述べられないが、それは関係であるからである。
 第三に、関係はその関係の項を含む全体の性質を決定する。椅子Aと椅子Bを含み、AがBより大きいというのはこの部屋の或いは宇宙の性質だということもできる。しかし、この性質は「よりも大きい」という概念を使用することなしには述べることができず、それゆえ、関係を抜きにして述べることもできない。


 83.関係は、性質で取り替えることはできない。性質は関係で言い換えることが可能だろうか。私が知る限り、この観点は決してとられたことがない。もしそれがとられるなら、ラッセル氏が指摘するように(1)、「正確な類似」が性質群には分析されえず、多様な種類の正確な類似性が存在しなければならないという見解をとる必要があるだろう。AとBがどちらも白いという性質を持つという代わりに、AとBは互いにある特殊なものについて正確な類似性をもつ二つの項だというべきである。

(1)『アリストテレス協会会報』1911-12年、9ページ。

 しかしながら、性質が存在するという明白な観点から出発するべきだという根拠はなく、それを疑うような理由も与えられていない。正確な類似性が単純な関係であり、諸性質の仲間からは独立したものであるという見解は明らかに誤っている。それゆえ、――すでにいったように、私はそれがかつて反駁を受けたとは思っていないが――諸性質は関係に取って代わることはできないという結論を甘受しなければならない。


 84.性質同様、関係は単純、複合、複雑いずれかである。単純な関係は分析できないもので、それゆえ、定義することもできない。複合的な関係は、単純関係の混在と分析されうる。複雑関係は、他の関係の混在からなり立っているのではないが、他の特徴、性質、関係、またはその両方によって分析、定義することができる。
 すべての関係はまた、性質に対応するものがなく、他のクラスに入る。第一に、あらゆる関係は関係そのものに関わり、それ自体にのみ関わることができるのか、それ自体に関わることができないか、或いはそれ自体か他のなにものかに関わることができるのかいずれかである。たとえば、ある実体はそれ自体と同一であることしかできないが、自らの父親となることはできず、それ自ら、或いは他のなにかを讃仰することはできる。あらゆる関係は、そこで、反映的であるか、非反映的であるか、或いは単に反映的ではない。
 第二に、あらゆる関係は、AがBと関わるなら、BはAと関わらねばならず、あるいはAと関わることはできず、あるいはAと関わるかもしれないし、関わらないかもしれない。かくして、もしAがBと等しいなら、BはAと等しい。もしAがBの父親なら、BはAの父親となり得ない。もしAがBを愛しているなら、BはAを愛しているかもしれないし、愛していないかもしれない。かくして、我々は対称的、非対称的、単に対称的ではない関係のクラスをもつ。
 第三に、あらゆる関係は、もしAがBと関わり、BがCと関わるなら、AはCと関わらねばならない、或いはCと関わることはできない、あるいはCと関わるかもしれないし関わらないかもしれない。もしAがBの先祖であり、BがCの先祖なら、AはCの先祖である。しかし、もしAがBの父親であり、BがCの父親なら、AはCの父親ではあり得ない。また、もしAがBの実のいとこで、BがCの実のいとこなら、AはCの実のいとこかもしれないし、そうではないかもしれない。かくして、我々は推移的、非推移的、単に推移的ではない関係を持つ。
 実体の関係のなかでのこうしたクラスの例から我々は何を知ったのだろうか。我々は同一性、多様性、類似性の関係が実体にあることを知った。それらに加え、あらゆる実体は生来もつそれぞれの性質、項のそれぞれの関係と関係を持つ。
 最初のグループの三つのクラスがすべてあらわされたのは明らかである。同一性は反映的であり、多数性は非反映的であり、類似性はもし我々がある事物はそれ自体に対して類似しているといえるとするなら、単に反映的ではない。
 次のグループでは、多数性と類似性は対称的である。主語と性質との関係は、実体がある性質のなかに保たれていることはできないので、非対称的である。まだ単に対称的ではない関係が生じる理由をもたないが、後に、限定の関係が生じたときに、このクラスを見ることになろう。
 第三のグループでは、類似性は単に推移的ではない。というのも、AがXという特徴においてのみBに類似し、BがYという特徴においてのみCと類似するなら、AとBの類似性とBとCの類似性はAとCの類似性を含むか排除するからである。(1)しかし、特殊な類似性は推移的である。AがXという点についてBに類似し、BがXという点についてCに類似するなら、AはXという点についてCに類似している。我々はいまだ非推移的な関係について述べていないが、それは次の章で、派生的な特徴の系列、XがYの次に来る項で、YがZの次に来る項であるとき、もちろん、XはZの次にくる項ではあり得ないことを述べる際に生じてくるだろう。

(1)事実においては、AとCは、それらがなんであれ、どちらも実在で存在する実体であるので、類似しているだろう。しかし、このことから、AとBの類似性、BとCの類似性は出てこない。

 

第九章 派生的特徴

 85,前章で「AはBを讃仰する」と表現される事実は、「AはBの讃仰者である」、あるいは「AはBを讃仰するという性質を持っている」とも表現できることを見た。すでに見たように、このことで関係の概念を不要にすることはできないが、にもかかわらず、重要な事実である。これによって、派生的特徴の概念に進むことになる。
 しかしながら、この限りにおいては、我々は派生的特徴というひとつのクラス、つまり派生的性質を見いだしただけである。いかなる関係の発生にもそれぞれの項の発生が含まれ――存在の性質がその関係の項となる。
 ある実体の為す関係は、このように、ひとつの性質だけでなく、多くの性質を生みだす。もしAがB、C、Dを讃仰するならば、このことはAをひとつの関係に位置づける――讃仰の関係である。しかし、Aには三つの派生的な性質が生じるだろう。「Bの讃仰者である」、「Cの讃仰者である」、「Dの讃仰者である」という性質を持つことになろう。讃仰と平等は関係であり、AのBに対する讃仰とAとBとの平等が関係であるといった方がいい。それぞれの関係がそれぞれの実体に性質を生みだし、それがその関係の項なのだといえる。Aは「Bの讃仰者」という性質を持ち、Bは「Aの讃仰の対象」だという性質を持つ。
 そうした性質は、関係に含まれてはいるが、それらと明瞭に区別することができる。というのも、性質は、関係とは異なり、述語化され、すでに取り上げた事例のように、関係が反映的ではないときには、単一の実体の述語となるからである。関係はAとBとのあいだのものだが、性質はAにだけ述語化される。その相違は「よりも大きい」といった関係のときはそれほど明らかでなくなり、それは「AはBよりも大きい」と通常表現される関係が、関係によって生じるAの性質を表現する形と文法上異ならないからである。しかし、性質と関係の相違は、「AをBを讃仰する」というような関係の場合は明瞭であり、派生的性質を自然にあらわすものとして「AはBの讃仰者である」といえる。
 派生的性質は、その他の性質と同じように、追い込まれると実体の本性に含まれる。それゆえ、実体の本性が諸性質と排他的にあるとしても、主語が持つ関係や諸関係をすべて含むことになろう。実体の本性についての完全な知識は、もし可能であれば、いかなる方法によってもその実体に適用されるあらゆる情報を我々に与えるだろう。


 86.もし時間と変化が実在で、「AがいまXである」という命題が明白な意味を持っているなら、たとえ、通常の言語で、事物の変化と呼ばれるものがなにも生じないとしても、事物の本性はその関係が変わるときに変わるだろう。Bより痩せていたAが、Bよりも太ったなら、Bの体の本性は、以前と比較して太っても痩せてもいないとしても、変化したことになろう。というのも、以前はAの身体よりも太っており、いまではAよりも痩せていて、この関係の変化は性質の変化、つまりは本性の変化を含むからである。
 さらに、なんらかの実体が変化すれば、すべての実体が変化するに違いない。AとBが二つの実体なら、それらは――何はなくとも、類似性と多様性で――関係していなければならない。Aが変化すれば、ある関係にあったBの対象も変化する。たとえBが変化したAと同じ関係を保っていたとしても、その対象はいまでは異なった本性をもっており、関係も変化するだろう。XYという関係の代わりに、PQRという本性をもった実体だとしても、それはPQSという本性をもった実体になるだろう。それはBの派生的な性質が変化したことを意味し、それゆえ、Bの本性が変化したのである。
 そのうえ、過去の本性も変化するだろう。1900年にはヴィクトリア女王の戴冠がイギリスの最後の戴冠だった。1903年にはそれが終わった――六十年後に生じた出来事のために本性が変化した。これはぎょっとし、逆説的にも思えるが、時間の本性に属する一般的な難点を除けば、いかなる難点も見いだすことはできない。第五巻で、何事であれ変わりうるとしても、なにも変化することはないことを示そうとするだろう。上述の過去の変化について、それ以上の難点を見いだすことはない。
 関係のなかからこのように生じてくる性質は他のものと同様真の性質である。しかし、ある重要な点で他の性質と異なっているので、それらについて異なった名前を与えることが望ましい。私はこのように生じてくる性質を関係的性質と呼び、そのように生じてはこない性質を本源的な性質と呼びたいと思う。


 87.生じてくる性質以外にも、生じてくる関係がある。第一に、あらゆる性質はこうした関係を生じさせる。というのも、実体が性質を有しているなら、実体と性質との間に関係が生じるからである。第二に、あらゆる関係はそうした関係を生じさせる。ある実体が関係のなかにあるならば、関係が結びつける項と同じく、この関係とも関係するからである。たとえば、AがBと等しいならば、AはBと関係する以外に、それ自体とBとの関係とも関係し、それは関係の項であることはそれに関係することだからである。
 このように生じる関係を、関係的な性質とともに、派生的な特徴という一般的な名前に分類しようと思う。このように生じてくるのではないすべての性質や関係は、本源的な特徴と呼ぼう。
 派生的関係には二種類あるが、派生的性質はひとつだけで、それは派生的関係は性質と関係の双方から生じるが、派生的性質はただ関係からのみ生じるということも留意するべきである。


 88.ある実体のあらゆる特徴がその実体の特徴の無限の系列から生じることを見ることができた。もし我々が本源的な性質から始めるならば、実体と性質との間には派生的な関係が存在し、それに関係する派生的性質があり、それが無限に続く。本源的な関係から出発するならば、その関係との間にある派生的な性質があり、実体とその性質との間には派生的な関係があり、再び無限に続く。その上、それらの系列のなかから、我々が関係に行きつくときにはいつでも、その関係は、そこから派生する性質以外に、そこから派生する関係があり、そのそれぞれから無限の系列が生じ、関係があるそれぞれは再び二つに分かたれる。これら無限の系列にあるすべての性質は、それをもつ実体の本性の部分であり、それゆえ、その本性は無限の部分からなる複合した性質である。
 しかしながら、これらの無限の系列は悪循環になることはなく、というのも以前の項の意味を決定するためにそれを完成させる必要はないからである。この系列のより以前の成員の意味は後の成員に依存するのではなく、反対に、後の項の意味は先行する項の意味に依存している。Aは善良だ、という事実は性質と関係の無限の系列の出発点となる。しかし、「Aは善良だ」の意味はそれらの性質と関係を主張する命題の意味に依存しない。それゆえ、こうした無限の系列は間違いの印ではない。(1)

(1)この考察は、性質と関係の概念の妥当性を拒絶するブラッドリー氏の力を取り除くことをあえて意図している。

 間違いなく、こうした性質と関係の生起が系列の先に進むにつれ関心も重要性もなくなっていくことは確かである。Aは善良であるということは非常に重要かもしれない。しかし、Aが彼自身と善良との間に備わる関係の項であるという性質をもつことは、派生的性質の例とする以外にはまともな人間の関心を引くことはほとんどないだろう。しかし、健全な人間がなんの興味もひかないのであっても、事実が事実でなくなることはない。


 89.実体の本性をつくりあげる性質はその重要性に関して二つのクラスに分けられる。最初のクラスは、本源的性質と、本源的性質から直接発した派生的性質からなる。第二のクラスは、その他すべての派生的性質を含む。その区別は、第二のクラスにあるすべては直接的にか間接的にか、第一のクラスから生じたもので、第一のクラスについて知っていれば、第二のクラスを探求する必要はなく、それらについての知識が得たいのなら、上述したような発生の定式を当てはめればいいからである。我々はそれら二つのクラスを一次的性質と、繰り返される性質と呼ぶことができる――もちろんそうすることによって、「一次的」というのを「本源的」ということで与えたのとは異なった、より広い意味合いを与えており、一次的性質は本源的な性質と本源的関係から直接に生じる派生的な性質をどちらも含むことになろう。


 90.もし我々の議論が妥当ならば、あらゆる性質と関係の本性は、あらゆる実体と同じように、無限の部分からなる複合的な性質のものとなろうという反論があるかもしれない。というのも、あらゆる性質や関係が諸性質と諸関係をもつならば、実体の特徴がそうであるように、無限の系列を生みだすだろうからである。さて、確かに、性質と関係の本性が特徴の無限の系列を含むことは不可能であるといえるかもしれない。というのも、我々は無元の系列の全体を理解するまで、ある性質や関係がどんな意味を持っているのか知ることはないだろうからであり、それは我々には可能ではない。しかし、もし我々がなんらかの性質や関係の意味が何であるか知らなくても、性質と関係について語り、主張する権利がないわけではない。かくして、我々はその主張自体が多様な性質と関係を語るものであるので、不条理な状態におかれることになろう。
 しかし、この反論は説得力がない。特徴の特徴がその特徴の部分或いは要素であるなら妥当だといえよう。しかし、特徴の特徴は、その部分や要素でないことは、実体の特徴が実体の部分ではないのと同じである。実際、それらはその本性の一部であるが、まったく異なるものではない。
 例を挙げれば明らかになろう。赤という性質は博士のガウンの色である。三角形という性質は特殊な時期の学生の思考対象とされている。それらの性質は赤と三角形の本性の部分である。しかし、それらは赤や三角形の性質そのものの部分ではない。赤は単純な性質であり、部分や要素をもたない。三角形の部分は定義によって与えられるもので、それは特殊な学生の熟考に与えられるものではない。
 ある特徴が単純ではなく、部分や要素であるとき、我々は要素の部分の意味を知ることなしに、特徴の意味を知ることはない。人間性が合理的で動物であるという性質を意味するなら、我々は動物性の意味を知らないでは、人間性の意味を知ることはない。奇想の意味するのが意見というには際立っているということなら、我々は意見がなにを意味するのか知らないで奇想が意味することを知らない。しかしこのことは、特徴の部分や要素があまりにも多すぎて、我々の精神では捉えられない限り、特徴がなにを意味するのか知ることを妨げるものではない。特徴の要素の部分がこの条件に適合する限り、我々は、その本性が無限の性質の系列を含んでいるにしても、その意味を知ることができる。


 91.実体の本性における性質の数は、すでに見たように無限である。しかし、このことは繰り返される性質の数が無限であるという事実によるものである。なんらかの実体の本性が或いはすべての実体が無限の一次的性質を持つかどうかは考慮されるべきものとして残っている。我々がこの点についてのなんらかの意見を発言できる根拠をもつ限りにおいては。
 しかしながら、我々は後に、実体の数は無限であるという見解を採用することになろう。それぞれの実体はあらゆる他の実体と関係する。少なくとも、それらが共通の実体、多数性の関係を持ち、それらが同一の実体ではないなら、実体はあらゆる他の実体と類似性の関係を持つことになる。それぞれの実体が無限の他の実体とこの関係を持つならば、無限の本源的関係があることになり、そこから生じる無限の第一性質があることになる。
 かくして、数においては無限だと証明された性質は、すでにいったように、一次的なものであっても派生的である。実体が有する本源的性質の数については、私が理解する限り、なにか言うことは不可能である。


 92.我々は性質、実体、関係を扱い、どれひとつとして存在を考えるのに欠くことができないことを見いだした。だが、通常の見解において、なぜ性質が関係や実体よりも揺るぎない地位を占めているかについて探ることは価値があるだろう。多くの哲学体系は実体の概念、或いは関係の概念を排除するが、性質の概念は保持し、私が知る限り、性質の概念を排除して他の二つのどちらかを保っているようなものはない。(実際には、一般的性質を排除し、関係と実体を保っているものもある。しかしながら、間違って、または整合がとれずに、一般的ではない性質は保っている。)
 第一に、特徴が実体よりも厳正で、確かな立場を保っていると見いだしうる理由が何であるか問わなければならない。私には三つの理由があると思う。
 第一に、特徴は我々が知覚する唯一のものであると頻繁に考えられている――つまり、我々が存在することを直接に気づくものとして。これは間違いである。我々が知覚する知覚データは実体である。それらは不変で、独立したものではあり得ない。我々の精神における出来事、或いは状態である。しかし、それらは性質を持ち関係し、そして性質でも関係でもない。それゆえ、我々の定義によれば、実体である。
 この間違いの原因は、感覚データである知覚データでは、我々は通常の生活では、外的な対象のうちに対応する性質を信じる習慣があることからきている。黄色という感覚データがあれば、それは正しいにしろ間違っているにしろ、黄色い外的な対象の存在を信じるよう我々を導く。さて、ある規則として、感覚データの存在は私には本質的な興味を引き起こすことはないが、対象の存在が、私を信じることに導くというのは、しばしば私に大きな興味を引き起こす。私にとって手にしているのが一シリングなのか金貨なのか、出くわした動物が犬なのかライオンなのか、は関心のある事柄で、黄色という感覚データだけが私を結論に導いてくれる。黄色という感覚データが私が外的な対象にあるものとする黄色という特徴にあるのだとすれば、感覚データが特徴と混同されることも不思議ではない。
 第二の理由は、あらゆる実体は直接的に特徴と結びつき、存在の特徴は実体と直接的には結びつかないことにある。というのも、そのうちのいくつかは特徴の特徴だからである。それは実体が必要不可欠だという事実に影響しない。しかし、実体からはより独立した、間違ったあらわれかもしれないが、そのあらわれに特徴を与えるかもしれない。
 第三の理由は、ある種の特徴を知ることなしに、我々は実体の本性について何も知ることができないからである。それが実体であり、存在することを知っていたとしても、実体と存在の特徴があると知るだけで、それら以外に他の特徴を持っていなければ、個別な実体が存在していると信じる理由はない。しかし、どんな存在する実体がそれに属し、或いは属するかどうかわからなくとも、特徴の性質については多くのことを知ることができる。実際、すでに見たように、たとえそれがなんらかの存在に属していないとわかっていたとしても、その性質については知ることができる。数学者は「剛体」という性質に属する多くの性質を、剛体など存在しないと信じる正当な根拠をもっていたとしても、知っている。もちろん、このことは実体を特徴より本質的ではないものとするのではなく、というのも、なにかが存在することと、もしなにかが存在するなら、実体も存在しなければならない、という結論になんら影響を与えるものではないからである。また、すでに見たように、存在と実在の関係についての結論の妥当性にもなんら影響を与えない。しかし、こうしたことは、特徴が存在から独立しており、それゆえ、明らかに存在からは独立していない実体よりもよい根本的であるという誤った外貌を与える。
 これらの理由は、特徴が実体よりも不可欠なものであるという信念を与えるものかもしれない。しかし、なぜ性質は関係よりもより不可欠だととられるのだろうか。なぜ関係は、性質に固有なものを持ち得ないことを責められ、性質は関係の場合のように事物と関われないことで責められないのだろうか。私はその答えは、いくつかの場合、多くの思想家が認め、心に抱いている、実際に分けられるものは実際に結びつけうるという大きな反論のうちに見いだされると思う。関係の主張は、反映的な関係を除けば、この是認を含んでいる。他のあらゆる関係は少なくとも二つの項を必要とし、それは二つであるので実際に分けられるはずで、関係しているので、実際に結びつけられる。しかしながら、性質の主張は、そうした是認を含んでおらず、そうした是認を望まない思想家たちは関係から性質へと避難するのである。(1)

(1)もちろん、二つの実体が同じ性質を持てば、真の分離と真のつながりを得る。しかしそのとき、他の実体について主張することなくひとつの実体の性質を主張できるが、関係は項のひとつを切り離すと成り立たなくなってしまう。

 

第十章 実体の相違

 93.さて、二つの実体が正確に同じ本性をもつものでありうるのか、二つの異なった実体があり、それは本性において異なっているはずだとするかという問題が生じてくる。もし二つの事物の本性に相違がないならば、それは正確に似ており、我々の疑問は多数性が相違を含むのかというかたちになることだろう――相違を正確な類似を排除するのみに用い、部分的類似においては共存できるものとして。
 始めに、その本性になんらかの相違があるならば、そこには一次性質になんらかの相違があるはずだということができよう。というのも、反復される性質の無限の系列が生じるというかたちは、一次性質におけるなんらかの相違から生じることのない繰り返される性質のなかに相違が存在し得ないことだからである。
 一次性質は本源的な性質か、本源的な関係から直接に発する性質である。本源的な性質において異なることなしに、二つの複数の実体が可能であることを否定する根拠はないように思える。もちろん、すべての実体がその本源的な性質において異なっているということも可能である。あらゆる実体が、他の実体がもっていないある単純な本源的性質をもっているということも可能でさえある。よりありそうもない想定をすれば、実体の本源的性質の寄せ集めが、少なくともその構成要素のいくつかにおいて、他の実体の本源的性質の寄せ集めとは異なる、ということも可能ではある。しかし、我々には実際そうであるに違いないと想定する根拠はない。もし多数性が本性の相違を必要とするなら、その必要性は、本源的関係の相違に原因をもつ関係的な性質の相違によって満足しうるだろう。
 我々は問題が正確な類似性に関するものであること、正確な類似性はいかなる関係――通常外的で、無関係だと思われているものであっても――においても相違は存在しないことを含んでいる。二つの事物は、一方が私によって知られ、他方が知られていなかったら、正確に類似してはいない。その一つが他を抜きにして私によって知覚され、考えられるとしても、正確に類似しているものではない(たとえ、別のときに私がそれを同時に知覚、あるいは考えたとしても)。というのも、そのとき、一方は特別な時間に特別な人間によって認知されているという性質をもつが、他方はそうではないからである。また、いかに任意に当てはめられたものであろうと、名前や数によって区別されるなら、正確な類似ではない。というのも、一方が個別な時間に個別な人間によってPと呼ばれる性質をもつものとされ、他方がそのときにQと呼ばれる性質をもつものとされることもあるからである。


 94.それでは、正確に類似した二つの事物は存在しうるのだろうか。私はありえないという答えになるに違いないと思っている。多数性と相違とのつながりは、間違いなく、総合による。「AとBは二つの事物である」と「AとBは相違している」同じ事実の異なった言い方ではない。しかし、私には、多数性が相違を含むことは明らかであるように思える――二つの事物は同じ本性をもつことはできない。もし思考実験で、二つの実体からすべての異なった本性を取り除いたなら、それに成功したとき、我々はもはや二つの実体について考えているのではなく、一つの実体を考えていることを見いだすだろう。そして、それは、私が考えるように、二つの実体を区別することが不可能であることから来ているのではなく――それは二つの事物が存在しないということを証明しはしないだろう――相違なしに、多数性が不可能であることを認めることから来ている。ある実体の本性は実体がなんであるかに完全にあらわされている。実体がなんであるかの同じく完全な表現は二つの実体のそれぞれにおいて真とはなり得ない。実体はその本性によって実体となり、もし本性が同じなら、実体も同じである。
 多数の実体の間に存在せざるを得ない関係に相違が存在することは否定する者はいないだろうと思う。AとBが異なった実体なら、AはAと同一性をもち、Bとは異なっており、BはAと同一でもなければ、それ自体と異なっているわけでもない。しかし、前段の主張が正しいなら、このこと以外に、多様な実体の間に他の相違が存在しなければならない。というのも、この相違は、以前に確立した多数性に依存しており、それゆえ、多数性を必然的に認める相違とはなり得ないからである。


 95.多数性はそれ自体に依存するものではない相違を必要とするという見解は、大多数の哲学者に受け入れられるものであると私は信じる。しかし、それは否定され、なにが原因で否定されるかを考えなければならない。
 第一に、多かれ少なかれ明らかにされた物自体についての間違った概念を採用することから否定される。(私はこの言葉をカントよりはむしろヘーゲルの意味で用いている。(1))実体はその本性とは離れ区別される個別性をもっており、それゆえ、二つの実体は、同じ本性をもっていても、ちょうど二つの頭に同じ帽子がぴったりでありうるように、離れ区別されるという点で多数でありうる。しかし、これは維持しがたい。というのも、我々が実体の異なった側面で意味することを説明しようとすると、――実際、我々がそれが存在することを認めると――我々は実体の諸性質を主張することによってしかそうできない。それらの性質は実体の本性の部分であり、その本性から離れ区別されるものではない。それゆえ、その本性は同一でありながら実体が異なることを許すようなやり方で、実体とその諸性質を区別することは不可能である。

(1)私の『ヘーゲルの論理学注釈』135節を参照。

 これに反して、実体は本性から離れた個別性をもつという主張は、「これはあれの近くにある」といった判断が決定的な意味をもつことによって証明されることになろう。そうした判断は、言葉が厳密に記述され、それぞれの記述が宇宙における一つの事物に適用されうることによっては決定的な意味をもつことがないのは確かである。実際、「これ」と「あれ」は宇宙のあらゆる事物に適用されうる。だが、私が「これ」また「あれ」と指している実体を知覚しているならば、あるいは私がそれを知覚し、いまでも覚えているならば、そうした判断は私にとって曖昧なものではない。それゆえ、各々の実体のなかに、その性質とは独立し、我々が実体を知覚するときにあらわになる個別性――もちろん、実体が知覚されようがされなかろうが等しくそこにあるのであろうが――が存在するはずだと論じられる。
 しかしながら、この議論は、私には妥当性を欠くように思える。間違いなく、私はAについて知覚、あるいは記述によって、曖昧なところのない知識を――同一化を可能にする知識――持ちうる。第一の場合、Aの性質についての知識に依存することのない曖昧なところのない知識を持ちうるし(1)、第二の場合、私はAを実際に知ることなしに、Aについての曖昧ではない知識を持つことになろう。しかし、その性質から独立した実体を知り得るという事実は、その個別性がその性質から独立し、相違がない別の実体と異なったものとなりうることを証明しはしない。

(1)我々が実体をなんらかの性質を知ることなしに知覚するかどうかは疑わしく、というのも、知覚の後、我々は通常、我々が知覚したものの本性についてなんらかの判断を下すことができるからである。(この問題は第五巻で論じることになろう。)しかし、その性質についての知識が曖昧さのない記述からははるかに及ばないにしても、私は知覚によって実体の曖昧なところのない知識を持つことができる。

 実体の個別性が性質とは独立してあるに違いないという見解は、実体はその性質を知らないでも曖昧なところなく知ることができるということで、不条理に導かれる。というのも、諸性質には、知覚することによって実体を曖昧なところなく知ることができるということを除いても、「いかなる性質からも独立した個別性をもっている」という性質を含むからである。それゆえ、もしこの見解が真であるなら、実体は、とりわけ、「いかなる性質からも独立した個別性をもつ」という性質をもつことから独立して、いかなる性質からも独立した個別性をもつことになろう。そして、これは不条理である。
 このことを避けて、実体がもしそのうちに、実体性、いかなる性質からも独立した個別性、相違からは独立した多数性といったものを含む諸性質をもっていないならば、そうした独立した個別性や多数性を持ち得ないと認めることもできる。しかし、その性質のいくつかには依存していても、諸性質に完全に依存していない個別性があり、この個別性は正確に類似する二つの実体において異なったものでありうるといまだ主張することもできる。しかし、このことを認めては、議論の力は破壊されてしまうだろう。というのも、私は実体をそれが実体性を持つということ、いかなる性質からも独立した個別性をもつこと、或いは、相違性から独立した多数性をもつことを知ることなく、知覚できることになるからである。そして、にもかかわらず、個別性がそうした性質から独立していないならば、我々は、性質を知ることなく実体を知覚できるということを根拠に、個別性が諸性質から独立していると論じることはできなくなる。


 96.我々の議論を排除するこの根拠は、しかしながら、不適切なものと見られる。別の事例においては、我々の理論は、それが意味していることの誤解によって却けられていると思う。求められている相違は、関係的な性質を除いた我々が本源的性質と呼ぶものの相違でなければならないとしばしば思われている。しかし、それは間違いであり、主張されているのは、多数の実体はその本源的性質と本源的な関係双方において正確に類似するものではあり得ないということだけである。
 この誤解によって、二つの正確に類似する実体が異なった時間と空間に存在できると反論される。異なった時間と場所に存在することが可能な二つの実体は、本源的な性質において正確に類似したものであるが、異なった関係を持っており、それゆえ異なった派生的性質を持っているだろう。異なった時間にある二つの実体はそれぞれ異なった関係を持っており、一方が他方に先んじ、他方が一方に遅れているからである。そして、それらは時間の系列において、その他すべてのものと異なった関係を持つだろう。異なった場所にある二つの実体もまた異なった関係を持っている。空間を絶対的なものととれば、ひとつの実体がある空間を占め、それらの地点は他のものによって占められることはなく、他のものは別の場所にあることになる。そのとき、AはMの地点を占めることで関係的な性質を持つだろうが、この性質はBと共有されることはない。他方において、もし、空間が相対的なものととられれば、二つの実体が空間における他の実体との関係においてなんの差異もないのであれば、それらが空間において異なった地点を占めることがあり得ないことは明瞭である。


 97.時間と空間の外に、他の系列が存在し、同じように、もしそれらの実体がそうした系列において異なった場所を占めているなら、正確に類似した異なった実体があり得ることを主張することになる。もちろん、実体を数え上げ、数を割り振るときにはいつでもそうした系列をもつことになる。我々の理論への反論として考慮されるべき重要なことは、「数的に異なった」や「数的に多様な」がしばしば我々が多数性と呼ぶものの表現に用いられていることにある。
 この反論も同じ誤解によっている。もし二つの実体がそうした系列のなかで異なった場所を占めているならば、それらの関係は同一ではない。AとBが系列の異なった地点にあるなら、系列にある他の項Cと異なった関係を持つことだろう。もしCが系列のなかでAと同じ場所にあるならば、Bとは同じ場所にはないことになろう。Cが系列においてそれらのあいだにあるなら、一方は系列においてCよりも早く、他方は遅くなるだろう。もしCがAとBと同じ側にあるなら、AがBよりもより近いか、BがAよりもより近いことになる。そして、AとBの関係と関係的性質は異なったものとなろう。
 系列の順序が、なんらかの理由によって、通常の言語で、項となる実体とは関係のない呼ばれ方で決定されたとしても、このことに違いはない。今日、本棚を見て『トム・ジョーンズ』、『エヴァン・ハリントン』、『エズモンド』と順に目にとまったので、フィールディング、メレディスサッカレーという順序で考えを巡らすかもしれない。しかし、本当のところ、フィールディングは、ある種の日には、メレディスのことを思う前に思う人物であり、サッカレーは、同じ日に、メレディスのことを思う前には思うことのない人物であることも本当かもしれない。これはフィールディングとサッカレーの本性には重要な相違ではないが、実在の差異である。
 どちらも我々が妥当だと考えていることの反論にはならず、我々は多数性は相違を含み、すべての実体は互いに相違しなければならないという見解に従わなければならない。


 98.すべての実体は互いに相違していなければならないことを示しはしたが。それらが本源的性質、或いは他の実体との関係において相違しなければならないと想定することはできないと言われるかもしれない。それらは自らに属していない特徴との関係においてのみ相違できるのだろうか。たとえば、AとBが人間ならば、それらの相違は白さ、或いは厳格さという特徴との関係の違いにのみあるのではないのではないか。
 しかし、あらゆる相違はAとBの関係と他の実体を含むものであろう。AがXという特徴でYと関係し、Bは関係しないなら、もし実体CがXという特徴を持つとすると、AとBはCと異なった関係にあるだろう。というのも、CはXと関係し、それゆえXと異なった関係にある事物とは異なった間接的な関係にあるだろう。それらの関係が間接的でにしても、実体間には本源的な関係があるだろう。他方において、Xがいかなる実体ももつことのない特徴であるなら、あらゆる実体は非Xという特徴をもつことになろう。AとBがXと異なった関係を持っているなら、非Xとのそれらの関係は同じではなく、結果的に、非Xという特徴が属する実体との関係も同じではないだろう。


 99.我々が達した結果は歴史的には識別できないものの同一性として知られている。この名を発明したライプニッツが異なる実体は異なる性質を持っているに違いないと主張したとき、彼が意味していたのは、我々が採用した用語に従えば、異なった本源的性質を持っているに違いない、ということだった。しかし、ライプニッツは関係を却け、本源的性質が唯一の実体の特徴であると考えていたことを思い起こすべきである。識別できないものの同一性を保持しようとする彼の主張の本質は、特徴の相違が存在し、それが関係の差異に始まるものであることを否定することにあるのだと思われる。
 しかしながら、名称はよいものではない。というのも、この原則は、同一であるものが識別できないことを主張するものではなく、識別できなものが存在しないことを主張するものだからである。多様なものの相違を語った方がよかっただろう。

 

第十一章 十分な記述

 100.実体は特定のものであり、もちろん、否定することはできない。定義は普遍的なものである特徴にのみ、単純ではない複合的な特徴にのみ適用されうる。より単純な特徴――究極的には、絶対的に単純な特徴――は定義された特徴によって分析されうる。しかし、実体は定義できないが、記述はされうる。それは多かれ少なかれ、関係から派生する特徴も含めた。それがもつあらゆる性質によって記述される。(特徴は、定義可能であれ、可能ではないのであれ、それらが持つ性質によって記述されうる。)
 記述はこの点で定義に似ており、それを適用することによって区別することが可能になる。単純ではないあらゆる特徴、定義と認められるものは、それ自体の定義を除いた完全な定義を備えたものである。実際、完全な定義以外は、通常定義とは呼ばれない。我々は「直線で囲まれた形」を三角形の不完全な定義とはいわず、定義の一部だとする。
 他方において、不完全な記述は記述と呼ばれる。ヘンリー七世が英国国王だと語るとき、それは彼をリチャード二世やエリザベスから区別できない特徴であるが、記述している。それゆえ、我々は記述と排他的な記述とを区別しなければならない。


 101.排他的な記述ということで私が意味しているのは、ただ一つの実体にしか当てはまらないもので、実体は記述によって完全に同一化される。また、我々は排他的な記述と完全な記述を区別しなくてはならない。実体の完全な記述は、一次的、また繰り返されるすべての性質からなり、それゆえ、もちろん、無限の性質から成り立っている。それは、二つの実体が完全に同じ本性をもつことはなく、ある実体の完全な本性は決して別の実体において真となり得ないので、完全な記述は排他的でなければならないという前の章で達した結論から引き出される。しかし、排他的記述は完全である必要はない。「すべての存在のうちでもっとも高潔な」というのは、いかなる可能な存在においても完全な記述ではあり得ないが、ひとつの存在以上で真となりうることはないので、真であるなんらかの存在についての排他的記述となろう。
 記述は諸性質によってあらわされる。しかし、関係から派生するある性質による記述はときに実体を導入する。もしヘンリー七世を国王の父として記述するなら、彼を完全に特徴によって記述している。しかし、ヘンリー八世の父として記述するなら、ヘンリー八世という実体が記述のなかに入ってくることになる。これは記述にとって本質的なものである。「ヘンリー八世の父親」は「国王の父」という記述とはまったく異なるもので、というのも後者は前者によっては記述されていない多くの実体を記述しているからである。
 実体によって部分的に表現される記述は、記述で言及される実体がそれ自体記述されない限り、実体に関する我々の知識を増やす効果はないように思われる。というのも、実体が記述なしに知りうるものであるなら、記述の必要自体がなくなるからである。実体が記述なしに知り得ないものなら、記述の部分となる記述されていない実体は知られていないことになる。そして、未知のなにかで記述することは無用のことである。
 しかし、このことは、知覚によって気づく実体が存在すること、それらによる他の実体の記述は、私が気づいているもので気づいていないものを記述できることを見過ごしている。たとえば、私は自分のテーブルに気づいておらず、それを「これらの視覚的感覚データの原因」と記述するとき、私が記述しているあいだに知覚している感覚データを意味しており、私はそれを私が気づいている実体や特徴すべてによって記述している。そしてこの記述は、感覚データの排他的記述を含んでいるわけではないが、排他的であり得る。


 102.私は、記述されていない実体を含む排他的記述と、完全に特徴によってされる記述を区別し、後者を十分な記述と呼ぶことを提案する。
 十分な記述は単一で単純な性質からなるだろう。というのも、ひとつの実体しかその性質を持っていないなら、それをもつ実体はそれをもっていることで十分に記述されるであろう。それは単一で複雑な性質からなるかもしれない。或いは数多くの異なった性質からなり、それ自体は単一な複合的性質だが、その部分に他の性質があるかもしれない。
 単一の単純な性質ではない十分な記述とは、「すべての存在のなかでもっとも高潔」というように比較的単純なものであるかもしれない。しかし、それはまた単純性とは無限に離れていることもあり得て、どんな精神もそれを把握することができないので、十分な記述に収まることがないかもしれないからである。この章の後の方で見るように、ある場合には、そうした単純性からの無限の距離が、悪無限を導入することによって記述の十分さを破壊することもあろう。しかし、記述が「AはXという性質、Yという性質、Zという性質を持つ・・・」といった形の場合、A以外のすべてを排除するために必要とされる性質のリストは、悪性のものではない無限であり得るだろう。
 ひとつの実体は一つ以上の十分な記述をもつかもしれない。たとえば、「すべての存在のなかでもっとも高潔」と「すべての存在のうちでもっとも力のある」が同一人物の記述であるような場合である。


 103.すべての実体が十分な記述をもつのだろうか。我々が知りうる限り、なんらかの特殊な記述が存在する実体の十分な記述であることはほとんどない。(1)しかし、ある記述のひとつがなんらかの実体の記述であるなら、それがその実体の十分な記述であるような数多くの記述が存在する。たとえば、「すべての存在のなかでもっとも高潔」がそれで、それはひとつの実体にしか当てはまらないからである。しかし、それがどんな実体に適応されるかは確かになり得ない。実際、そうした美徳が存在することは、おそらく信頼によって主張することになろう。しかし、二つの存在が他のものよりも高潔である、高潔さにおいて互いにまったく等しいということは絶対に不可能ではない。この場合、すべての存在のなかでもっとも高潔なものは誰でもないことになろう。我々がそれは誰かを記述しているのだと確信しているなら、我々は記述されているものが誰なのか知らない。あらゆる存在のなかでもっとも高潔な人間に偶然に出会ったことがあると想定しても、自分自身の調査や信頼にたる報告によって、他のすべての高潔な存在の高潔さの限度を知らなければ、彼がその人物だと知ることはできない。

(1)このことは宇宙の場合に当てはまる。135参照。

 なにかに適用され得、その十分な記述であろうなら、もっとも比較的単純な記述がこのタイプに当たる。それらは「性質Aを最も多くもつ(或いは少なく)もつもの」という形になる。前節で言及した難点はこれらのそれぞれに起きる。
 空間と時間による記述は十分であるように見える。「1500年の英国王」はヘンリー八世の十分な記述と誤解されるかもしれない。しかし、「英国」が特殊な実体の固有名ととられるなら、この記述は、排他的ではあるが、十分ではない。唯一の選択肢は「英国」を記述し、その正式名称が英国という、或いは、習慣的にこの名で呼ばれているものを意味しているのだというしかない。そのとき、我々は宇宙のある時間と空間において――おそらくは別の惑星において――同じように英国と呼ばれる別の国が存在し得ないと、確言することはできない。もしそうであるなら、我々はヘンリー八世が王である国の十分な記述を得ることがならず、それゆえ、彼についての記述は十分なものとはならないだろう。同じような難点は時間についても生じる。暦が始まってから1500年というのは、同じように記述される出来事が現在未来に渡ってあり得ないと確かめることができないなら、十分な記述ではない。たとえば、ローマをもとにした暦というのも曖昧でないことはなく、宇宙の過程のなかでその名前がいくつか見いだされることはないというのは確かではないからである。
 ついでにいっておけば、多くの暦は、それを確立した者たちの信念が真であるならば、日時の十分な記述を与えるかもしれない。我々の現在の勘定は、暦を確立した者たちが、神が人間の姿をとられたことを信じ、時間の経過のなかでそれが唯一の受肉であったことをもとに始められている。もしそれが真であるなら、「受肉から1500年」というのは日時についての十分な記述であろう。同じことはイスラム教の暦についても当てはまり、その宗教は創設者を宇宙における唯一無比の場所におき、その暦を彼の生涯におけるある出来事から始めているからである。
 その上、この信念が正しいなら、場所についても十分な記述をすることが可能となろう。メッカ、メディナエルサレム、タイフは神と唯一無比な関係を持つものとして十分に記述されうるムハンマドの生涯と関係を持つものとして十分に記述されうるだろう。そして、どんな場所も、これら四つの場所との関係において十分に記述されうるものとなる。
 しかし、我々がある人物や出来事の唯一無比な性格を受け入れないならば、我々は空間と時間によって十分な記述を得られないことになる。もし時間に制限があるならば、その制限との関係において日時が十分に記述されることは可能である。しかし、そうして時間が限定されていたとしても、現在の知識では我々にとってそうした十分な記述を知ることは不可能であろう。
 もちろん、公平にいって、空間と時間による単純な排他的記述は数多く存在する。たとえば、ヘンリー七世について、私がこの記述を行っているこの惑星の英国において、私が書いている419年前に英国の国王であったと記述することはできよう。しかし、これは十分な記述ではなく、私が記述を行っている出来事について十分な記述を行っておらず、私の直接的な知覚を信頼しているからである。


 104.かくして、与えられた記述がなんらかの特殊な実体の十分な記述であることを知りうるのはほんの僅かの例に限られる。あらゆる実体は十分な記述をもっていることは確かなのだろうか。どんな実体も他の実体と正確に同じ本性をもっていることはあり得ないのだから、あらゆる実体は排他的な記述をもつはずである。しかし、AがBとXという関係を持つという事実を導入することなしにはAが排他的に記述され得ないということは可能ではないだろうか。そしてこのことは、現状では、あらゆる十分な記述は排他的でなければいけないのだが、それなしには十分な記述など可能ではない特殊な実体を導入するために、十分な記述に参入することができないということになる。
 しかし、AはBとXの関係をもつという事実は、十分な記述となり得る可能性を述べてはいる。始めに、AがBとXの関係をもつ実体であるばかりでなく、Xと関係をもつ唯一の実体であるというような場合である。この場合、我々は「BとXの関係をもつ」を「Xと関係をもつなんらかの実体」と言い換えることができ、この仮説によって、等しく排他的な、そして特殊な実体を導入することのない十分な記述が得られよう。