H・G・ルイス『伝記的哲学史』(途中まで)

第一部 古代哲学

 

第一時代 宇宙の本性についての思弁

 

第一章 物理学者

 

§1.タレス

 

 その生涯の出来事、哲学の正確な教義は神秘に包まれ、伝説の領域に属しているが、にもかかわらず、タレスギリシャの思弁の父祖にあたると正当に考えられる。彼は一時代をつくった。ギリシャ哲学の礎石を置いた。彼の踏みだした一歩は小さなものだったが、決定的だった。従って、ほんの僅かの教義しか残っていないにしても、そしてそれが断片的で、不整合なものだろうと、我々はある程度の確かさで、語ることができる程度にはその教えの一般的方向を知っている。


 タレス小アジアギリシャ植民地であるミレトスで生まれた。生まれたときはきわめて疑わしい。しかし、36回目のオリンピアの最初の年(紀元前636年)が一般的に正確だと受け入れられている。彼はフェニキア人のなかでももっとも著名な一族の一員で、政治的要職のすべてを務めた――それは市民たちからの高い声望から来たものだった。彼の政治での精力的な活動は、プラトンによって描きだされたその生涯を孤独と瞑想に送ったという伝統に反するものとして、孤独を愛することは政治的な活動の根拠を疑問にふすものとして、後の作者たちには否定されている。両者は完全に両立可能であると思える。瞑想は行動的人間に必ずしも合わないわけではない。活動的な生活を送ったからといって、瞑想のためにまったく時間が残されていないわけではない。賢人は行動する前に瞑想によって自分を強くすることもあるだろう。自分の見解の真理を検証するために行動することもあろう。


 ミトレスはギリシャの植民地のなかでももっとも繁栄していた。当時はまだペルシアやリディアによる束縛もなかったので、精神の発達にはこの上ない条件が整っていた。海路、陸路による通商は莫大なものだった。政治制度は個人の発達にもっとも素晴らしい機会を与えた。タレスは生まれつき、また教育によって、定着し、十分な根拠があっていわれているわけではないが、研究を完成させるためにエジプトやクレタに旅をすることもなかっただろう。そうした推測の唯一の根拠は、タレスが数学的知識に堪能だったという事実である。ヘロドトスに見られるように、歴史の最初期から、ほとんどあらゆる知識がエジプトに起源をもつことは流行のようなものだった。そうすると、旅行の途中で、ピラミッドの高さをその影によって示してエジプト人を驚かせたという話にはほとんど信頼性はないことになる。もっとも単純な数学上の問題で容易に驚くような国民が、教えることのできるものなどほとんどなにもないだろう。おそらく、彼がエジプトに旅をしなかったというもっとも強力な証拠――あるいは、旅をしたとしても、司祭たちと会話はしなかっただろう――は、タレスの哲学のなかに、自国にいたら見いだせないようなエジプトの教義がまったく欠けているという点にある。


 第一の時期におけるイオニア学派の際だった特徴は、タレスがはじめた宇宙の成り立ちに対する問いかけにある。「タレスはあらゆる事物の原理は水にあると教えた」と通常いわれている。一見すると、これは単なる突飛な考えに思えるだろう。あわれみの笑いをもって迎えられ、そんなばかげたことは受け入れられないと思われることだろう。しかし、まじめな学生なら、先人の説を単に馬鹿馬鹿しいとして非難を急ぐことはあるまい。哲学の歴史は間違いの歴史かもしれない。しかし、愚劣さの歴史ではない。受け入れられたあらゆる体系は豊かな意味をもっており、そうでなければ受け入れられなかっただろう。その意味は時代の尺度に見合ったものであり、そうしたものとして考察の価値がある。タレスは歴史上でももっとも非凡なひとりであり、非凡な革命を行った。そうした人間が子供でも反駁するような哲学を発言したとは思えない。少なくとも彼にとっては、その考えには深い意味があった。とりわけ、事物の起源を発見する試みにおいては深い意味合いをもっていた。彼の考えの意味するところを考察してみよう。彼の精神のなかでそれがどのように生じ、育っていったかたどれないものか見てみよう。


 想像しうるあらゆる多様性を一つの原理に還元するのは哲学的精神に特徴的なことである。多神論が一神論に還元されるのが宗教的考察の避けられない傾向であるように――すべての超自然的な力が一つの表現へと一般化される――あらゆる可能な存在の様態がひとつの存在そのものに一般化されるのが初期の哲学的思弁の傾向だった。


 宇宙の成り立ちを考えたタレスは、一つの原理――初源的な事実――すべての特殊な存在がその様態に過ぎないような実体を発見するよう努めざるを得なかった。周囲を見回すと常に変容が――誕生と死、形、大きさ、存在のあり方の変化――あり、その存在のありようを一つの存在と見なすことはできなかった。それゆえ彼は自問した、常に変化がある状態で、変わることのない存在とはなんだろうか。一言で言えば、事物のはじまりとはなんであろうか。


 こう問うことは、哲学探究の時代を開くことだった。それまでは、自分が見いだした世界を受け入れることで満足していた。見たものを信じ、見ることができないものを崇拝していた。


 タレスは、事物のはじまりに関して答えることがきわめて重大な問題だと感じていた。周囲を観察し、瞑想をした結果、水分こそがはじまりだと確信するにいたった。


 彼は地球の成り立ちを検証するという考えに印象を受けた。至る所に水分を見いだした。彼が見たすべてのものは水分によって養われていた。暖かさそのものが水分の働きによって生まれたものだった。水は凝縮されると地表となった。水が普遍的に存在することが確信されたので、彼はそれを事物の始まりだと宣言した。


 タレスは容易にこの考えを古代のものの見方と調和させることができた。たとえば、ヘシオドスの『神統記』では、オーケアノスとテーテュースが自然に関係する神々の親だとされていた。「彼は現代科学が『創世記』に行ったことを当時の一般的な宗教について行ったことになろう。以前には謎であったことを説明したのである。」*

*Benj.Constant,Da Polytheisme Romain,i.167

 

 このことによってタレスは哲学に地歩を占めた。アリストテレスは、彼を、神話の助けを借りずに、初めて物理的な始まりを確立しようとした人物だと呼んだ。結果的に彼は現代の作家たちによって無神論者として責められている。しかし、無神論はずっと後になって発達したものであり、タレスにその名を負わせるとしたら、アリストテレスの沈黙という否定的な証拠しか、つまり、タレスが水よりも深く、また水より先んじて信じていたり、また信じていないことがあったら、アリストテレスが黙っているはずはないという推測によるのである。水はすべてのものの始まりだった。タレスの時代から遠く離れて影響を受けたり与えたりしていたキケロが*、彼は「水をすべての始まりだとし、神は水から事物を創造する精神である」と言うとき、アナクロニズムに陥っている。我々はヘーゲルとともに、タレスは知性としての神の概念を持てなかったとするが、それはより進んだ哲学の概念だからである。造形的な知性、あるいは創造的力の概念があったかどうかも疑われる。アリストテレス*2ははっきりと、古代の物理学者たちは物質とそれを動かす原理、あるいはそれを生み出す原因と区別していたことを否定している。さらには、造形的な知性という考えに最初に到達したのはアナクサゴラスだと付け加えている。*3タレスは神々を、神々の系譜を信じていた。他のものと同じく、彼らも水に起源をもっていた。それが何を意味するのであれ、これは無神論ではない。彼がすべての事物が生きており、世界が霊や神々で充満していると理解していたのが本当だとしても、それは起源、出発点、第一存在としての水分に矛盾しているものではない。

*そして、古代の思弁の見解に満足できないものが、無批判にそれに従っている。
*2アリストテレス形而上学』i.8.
*3現在ではディオゲネスが最初にそのことを考えたとみられている。

 しかしながら、無批判的な伝統のなかで、断片しか残っていない思想家の見解を議論しても無益なことである。我々が確実に知っているのは、タレスが二つのことでもたらした影響である。――第一に、始まりを、あらゆる事物の第一物質を発見すること。第二に、もっとも潜在能力があり、偏在する要素を選択すること。人間精神の歴史を知悉すると、両者がまったく新しい時代においても意味深いものであることがわかる。


§II.アナクシメネス

 アナクシマンドロスは、多くの歴史家によって、タレスよりも後の人だとされている。我々はリッターとともに、その場所をアナクシマンドロスに与えることに同意する。我々がこの順番を基礎にする理由は、第一に、そうすることによって我々はもっとも安全な案内役、アリストテレスに従うことができるからである。第二に、アナクシマンドロスの教義は、タレスのものの発展だからである。アナクシマンドロスはまったく異なった思弁に従っているが。実際、イオニア学派の通常のあり方としては、弟子は師匠に反対するだけでなく、師匠の先生の教義に立ち戻るのだった。かくして、アナクシマンドロスは、正反対の考えだったが、タレスを引き継いだ。そして、アナクシメネスタレスの原則を実行して、アナクシマンドロスの弟子になった。212年の間、つまり六、七世代の間に、4人のもの、タレスアナクシマンドロスアナクシメネス、アナクサゴラスが教師と弟子の関係にあったといえ、読者も伝統的な関係の価値が評価できるだろう。
 本当は、哲学の偉大な先導者の名前だけが守る価値がある。教えを応用したり拡大しただけのものは、忘却にゆだねられるべきである。それはまた、現在歴史が構成される際の原則でもある。それゆえ、アナクシメネスタレスの次に置いたからといって非難するものはいないだろう。彼の弟子だからではなく、歴史的な後継者としてである。タレスとその弟子たちが残した思弁をより発展した形で後継者に伝えたからである。
 アナクシメネスの生涯で知られているのは、おそらくは63回オリンピアの際(紀元前529年)ミレトスで生まれ、58回オリンピアのときだというものもあるが、正確に日付を決定することはできない。日時計によって日食の黄道傾斜角を発見したと言われている。
 タレスの方法を追求し、自分の教義の真理に満足できなくなった。水は彼にとってはもっとも意味深い要素ではなかった。彼は自分の内部に、どうしてだか、またなぜだかわからないが、彼を動かすものを感じた。それは彼よりも高次のものだった。目に見えないがずっと存在していた。それを彼は生命と名付けた。その生命は空気だと信じられた。内部ばかりでなく、外部においても、常に動き、常に存在するのが目に見えない空気ではないか。空気が内部にあるときには生命と呼ばれ、それは彼がいなくとも空気の一部なのではないか。もしそうなら、この空気こそが事物の始まりではないか。
 彼は周囲を見回し、自分の推測が肯定されると考えた。空気は普遍的なものであるようだ。*地上は幅広く、草が生い茂っている。あらゆるものはそこから生み出された。あらゆるものがそこで分解する。息をすると、普遍的な生命の一部を取り込むことになる。あらゆるものは我々と同様空気によって養われている。

アナクシメネスが空気について語るとき、タレスが水について語る場合のように、それらの要素を地上であらわれるときのあれこれの限定的な形で理解するべきではなく、エネルギーに満ち、無限の変化が可能な生命力に満ちたものとして捉えるべきである。

 古代人の多くにとってと同じように、アナクシメネスには、吸って吐かれる空気はまさしく生命の流れであり、身体を構成する異質な実体をまとめ上げ、それらに統一ばかりでなく、力、生命力を与える。生きている世界についての信念――つまり、有機体としての宇宙――は非常に古いもので、個人の生から普遍的な生へ一般化したアナクシメネスは、どちらも空気に依存するのだとした。多くの点でこれはタレスの教えより進んでおり、読者は現代科学との一致を見いだして喜ぶかもしれない。デュマのような厳粛な化学者は「植物と動物は空気から生じ、空気が凝縮したものではないが、空気によって生き、そこに帰って行く」というかもしれないし、リービッグは『化学書簡』のよく知られた一節で、同じ考えを雄弁に表現している。


§III.アポロニアのディオゲネス

 アポロニアのディオゲネスは、無批判的に師の説を採用したことで、自分の時代を形成しなかったが、アナクシメネスの正統な後継者である。かくして、テンネマンは彼をピタゴラスの後に置いた。ヘーゲルは、奇妙な見逃しによって、ディオゲネスについては名前以外に何も知らないといっている。
 ディオゲネスクレタのアポロニアに生まれた。それ以上確かなことはいうことはできない。しかし、アナクサゴラスの同時代人だといわれているので、80回オリンピア(紀元前460年)の頃に全盛を迎えたと推定できる。彼の作品『自然について』はシンプリキウスの時代(六世紀)には存在していて、いくつかの文章が書き抜かれている。
 ディオゲネスは事物の起源が空気であるというアナクシメネスの説を採用している。しかし、彼は魂との類推により惹かれ、より大きく深い意味を与えている。*この類推の力によって、彼は究極的なところまで結論を推し進めた。空気を事物の起源たらしめているのは何であろうか、と彼は自問した。明らかにその生命力である。空気は魂である。それゆえ、それは生きており、知性を持っている。しかし、この力、あるいは知性は空気よりも高次の存在であり、空気を通じて自らの姿を現す。結果的に時間の点に先行したものでなければならない。それは哲学者が探していた実体であるはずである。宇宙は自発的に進化し、生命力によって変容する生きた存在である。

*魂によって、我々は現代的な意味における精神よりも、むしろもっとも一般的な意味における生命と理解するべきである。かくして、アリストテレスの魂についての論考は、精神を含んだ生命原理に関するものであり、心理学的論考ではない。

 この考えにおいて、二つの顕著な点があり、どちらも考察の大きな進歩を示している。第一に、αρχη第一実体が与える知性という属性である。アナクシメネスは第一実体を生気のある実体だと考えた。彼の体系では、空気は生命であるが、生命は必然的に知性を含むわけではない。ディオゲネスは生命は力であるのみならず、知性だとみた。彼のなかにかき立てられた空気は刺激するだけではなく、教え導くものでもある。あらゆる事物の起源である空気は必然的に永久で、破壊し得ない実体である。そして、魂として、必然的に意識も備わっている。「それは多くを知っており」、この知識が第一実体であることのもう一つの証拠である。「というのも、理性なしには」と彼はいう、「すべてを適切に、均衡をもって配列することが不可能である。そして我々がどんな対象を考えようと、最良に、最も美しいやり方で配列され秩序づけられているのが見いだされるだろう。」秩序は知性から生じうる。それゆえ、魂が第一にある。この考えは間違いなく偉大なものである。しかし、読者はその重要性を過大評価し、ディオゲネスの残りの教えも同じように、正当で深遠なものだと思わないように、また、歴史的真理を守るためにも、この考えの適用の仕方にも言及しなければならない。つまり、
 生命ある統一体である世界は他の個体のように、生命力を全体から引き出さねばならない。それゆえ、彼は世界に呼吸器官に当たるものを与え、それを星々にも発見したと空想した。あらゆる創造と物質的運動は呼吸の作用でしかない。水分が太陽に引かれ、鉄が磁石に引かれるように、呼吸の過程を同じように見た。人間が獣より知性において優れているのは、地面に顔を垂れている獣よりも人間のほうがより純粋な空気を吸っているからである。
 現象を説明しようとするこうした素朴な試みを見れば、ディオゲネスが大きい一歩を踏み出してはいたが、旅を達成するにはほど遠いことがわかるだろう。
 彼の体系の第二の顕著な点は、タレスが開いた探求の道を閉じたそのやり方にある。四要素のひとつが世界の起源であるという確信から出発したタレスは、水をその要素だとし、アナクシメネスはそれに続き、空気が水よりもより普遍的な要素であるばかりか、それは生命でもあり、普遍的な生命に違いないとした。それに続いたディオゲネスは、空気は生命であるばかりではなく知性でもあり、知性が事物の最初であるに違いないとした。
 それゆえ我々はリッターとともに、物理学的な方法を用いた哲学者としてはディオゲネスが最後だとすることに一致する。彼の体系において、この方法はその達成を見た。かくして、思索の大きな流れをたどってきた我々は、同時期に別の方向に進化を遂げたものたちに目を向けねばならない。

 

第二章 数学者

§1.ミレトスのアナクシマンドロス

 「ここで、ギリシャ哲学の歴史においてはじめて、我々は同時代的な発展に出会うのであり、観察してみれば、哲学の最初期において、相互影響の歴史的な証拠が、どちらの系列も完全に間違ってもいなければ、信用に値する価値がないと余計なことを考えることもないだろう。他方において、内的な証拠は非常に限定された価値しかなく、というのも、他方において進化し活用された観念がもう一方においては完全に無視されていることを理解することは不可能だからである。古い哲学者は共通の源泉から、同じ考え方の習慣に従って考えを導いているので、知悉されたことから出発する議論は広範囲にわたるものでもなければ、容易に理解することもできない。実際、これら二つの方向がとことん追求されたなら、自然と宇宙に対する正反対の見方について活発な争いの十分な証拠が見られただろう。実際には、初期の哲学者たちが自分の考えを伝える不適切な方法のことを思えば、それぞれの体系は長い間非常に狭い仲間内でしか知られていなかった。しかしながら、当時の哲学的衝動が真に国家的な欠如感の結果だと想定すると、多様な要素がほぼ同時期にイオニアに、独立して、外的な関わりなく姿をあらわしはじめたことはありそうなことである。」*

*リッター、I.265

 我々が考察しようとする学派の長は、ミレトスのアレクシマンドロスで、42回オリンピア(紀元前610年)に生まれたとされる。彼はタレスの友人とも、また弟子とも言われる。前者の関係の方が好ましい。少なくとも歴史を見る限り弟子ではない。政治的、科学的知識についての評判は非常に高かった。多くの重要な発明が彼によるものであり、そのなかには日時計や地図がある。天体の大きさと距離の計測について小冊子が書かれたが、それはもっとも早い哲学的著作だとされている。彼は情熱的に数学に熱中していて、一連の幾何学的問題を心に抱いていた。彼はアポロニアの植民地のリーダーだった。また、ピタゴラスアナクレオンが住むサモスに専制君主ポリクレトスの宮殿を建てたと伝えられている。
 アナクシマンドロスの教義については、どの歴史家も一致していない。実際、相応の歴史的位置についてもほとんど同意されていない。
 アナクシマンドロスは事物の起源にアルケーαρχηという語を用いたとされている。この言葉根本原理でなにを意味していたのか、古代の作家たちによって様々に解釈されている。彼がそれを無限と呼んだことについては一致しているが、無限によって彼がなにを理解していたかについてはいまだ決定されていない。*

*リッター、i.267.

 一見したところ、この教義「無限が万物の根源である」にはなんら理解できるところはない。ずっと後の一神論のようにも思えるし*、神秘主義の言葉遊びのようにも思える。我々の精神には、多かれ少なかれ、タレスの「水は万物の根源である」という説よりは理解するのが困難である。想像力によって当時に戻り、こうした意見が起きた理由を考えられないか見てみよう。

*それがあり得ないことは確かである。この種の誤解を防いでおくために、制限のない力でもなければ、現代の概念に含まれているような制限のない精神でもないことを言っておこう。一世紀後に生まれたアナクサゴラスでは、τεαχειτονは巨大さでしかない。――シンプリシアス『物理学』83,b、リッターによる引用を参照。

 アナクシマンドロスを、偉大な先行者であり、友人でもあるタレスの傍らに置いてみると、彼の思考の際だった抽象性に衝撃を受けざるを得ない。沈思黙考する形而上学者の代わりに、我々は幾何学者を見る。タレスは、その有名な警句「汝自身を知れ」によってもわかるように本質的に具体的であり、「無限は万物の根源である」と言い、究極的な努力によって抽象にいたったアナクシマンドロスとは対照的である。こうした傾向を認めよう。彼のうちにモラリストや物理学者よりも幾何学家を見てみよう。いかに万物が彼の精神に抽象的な形をとってあらわれるのか、いかに数学が諸科学の科学であるかを理解しようとすれば、おそらく彼の説を理解することができるだろう。
 万物の起源を探したタレスは、すでに見たように、水が起源だと考えた。しかし、抽象的に物事を見ることに慣れていたアナクシマンドロスは、水のように具体的な事物を受け入れることはできなかった。分析にはより究極的ななにかが必要とされた。タレスとともに、水が宇宙の材料だと考えたとしても、それは諸条件に従うものではないだろうか。それらの諸条件とはなにか。万物がそこから成り立つ水分は、多くの場合水分であることを止めているのではないか。あらゆるものの起源が常に変化し、個別の事物において常に混乱するものだろうか。水自体は事物である。しかし、ある事物がすべての事物であることはできない。
 タレスの教義に対するこうした反論が彼をしてこの説を捨てさせた、あるいは変更させた。彼は、アルケーが水ではないといった。それは制限のないすべてξο απειρουでなければならない。
 この理論が曖昧で、無益なことは間違いなく明らかだろう。「すべて」という抽象は言葉の上の単なる区別であるように思える。しかし、我々は繰り返し気づくことになるが、ギリシャ哲学において、言葉の上での区別は一般的に事物についての区別と等しい。数学者が自分の科学の本性に従って、いかに抽象を実在とみるか――形式を切り離し、それだけが物体を構成しているかのように扱う――を読者が考えてみるなら、アナクシマンドロスの有限な事物と無限な全体との区別を考えることは難しいことではなかろう。
 かくして、我々が彼の説を説明できるのはただひとつの方法による。この説明はアリストテレスとテオフラテスの証言によるもので、それによれば、無限とは、分離によって生じた個物の基本的な部分の多数を意味するという。「分離によって」という箇所は意味深い。それは抽象から具体への過程を意味している――そして全体は無限な事物の内に実現するのである。無限を存在の名で呼び、「存在そのものとなにかの存在がある。前者が存在で、多様な存在する事物がいつまでの流れ出る源泉である。」こうしてみれば、おそらくアナクシマンドロスの意味が理解可能なものとなるだろう。
 リッターのいうところを聞こう。アナクシマンドロスは「第一実体が無限だとし、我々を取り巻く制限なく多様な事物を生み出すのに十分だと論じるものの代表である。アリストテレスはこの無限を混合物として特徴づけたが、我々は単にそれを多数の一次的要素だと考える必要はない。というのも、アレクシマンドロスにとっては、それは不死で滅することがなく――永久に生産し続けるエネルギーだからである。この個物の生産から彼は無限の永遠の運動を引きだした。」
 アナクシマンドロスによれば、第一存在は疑問の余地なく統一である。それは一者であるだけでなくすべてでもある。そこにはすべての日常的なものが構成される多数の要素がある。それらの要素は自然の異なった現象としてあらわれるときに分離される必要があるに過ぎない。創造は無限の分解である。どうやってこの分解は生じるのか。無限の条件である永遠の運動によってである。「常に始まりの状態にある無限は、無限の要素が常に分泌しては凝固するものでしかない、と彼は見ている。それゆえ、全体の部分は常に変化し、全体は変化し得ないものだということができる。」
 抽象が存在――あらゆる事物の起源である――にまで高められるという考えは十分な根拠がない。それはこういっているようなものである、「1,2,3,20,80,100という数がある。そしてまた抽象的な数があり、これらの個別の数はその具体的な実現化に過ぎない。数がなければ、どんな数字も存在しないだろう。」と。だが、人間精神から抽象を除き、それを抽象に過ぎないと考えることは困難であり、この欠点は哲学体系の大多数の根に存在する。現代において賞賛されているヘーゲルやその他にも、幾分言葉は異なるにしろ、同じ特徴が残っていることを学べば、アナクシマンドロスの間違いに対してある種寛容の心を抱く助けとなるかもしれない。彼らは創造は神が活動することによって起こり、その行為によって尽きることはないという。別の言葉で言えば、創造は神のごく日常的なありかたである。有限な事物は永遠な運動、全体のあらわれに過ぎない。
 アナクシマンドロスは抽象に具体的なものよりもより高次の意味を与えることによってタレスと自分を区別した。この傾向において、我々はしばしば数学学派と呼ばれるピタゴラス派の起源を見る。タレスの思弁は宇宙の物質的構成を発見することに向けられていた。それらはいかに帰納が不完全なものだろうと、観察された事実からの帰納によってある程度見いだされた。アナクシマンドロスの思弁は完全に演繹的である。そして、そうしたものとして、純粋な演繹の科学である数学に向けられていた。
 この数学的傾向の一例として、我々は彼の物理的考えを例に引くことができる。宇宙の起源の中心的な点は地球にある。というのも、底部と高さが1:3の円筒となっており、中心部は世界の果てまでの等しい距離によって支えられているからである。
 上述の説明から、読者はアナクシマンドロスタレスの後継者と位置づける一般的な歴史的議論の妥当性を判断できるだろう。彼が思弁的探求の偉大な系列の一つから現れ、その系列はおそらく古代を通じても最も風変わりなものだったことは明らかである。タレスにとって、万物の根源である水は実在の物理的要素として捉えられていたが、後継者たちには徐々に、まったく異なったもの(生命あるいは精神)の代表的な証票でしかなくなった。そして、代表として名を貸しているその要素は、それが標章である一次的力から派生した二次的な現象と見なされるようになった。水はタレスにとっては真の一次的要素だった。ディオゲネスでは、水は(それ以前に空気に取って代わられていたが)精神の標章に過ぎなかった。アナクシマンドロスの全体は、抽象的であるが、にもかかわらず、多くの点で物理的である。それはすべての事物である。彼の無限の概念は観念的なものではない。それは象徴の状態に移ることはなかった。それは単に存在の一次的な事実の記述であった。とりわけ、日常的な有限な事物を例外として、知性の概念を含んでいなかった。彼の先験的なものとは無限の存在であり、無限の精神ではなかった。このことの後の発展は、後にエレア派においてみることになろう。

 

§II.ピタゴラス

 ピタゴラスの生涯は、ぼんやりとした荘厳な伝説に包まれていて、そこから救い出そうとする試みは希望がない。ある種の一般的証拠は間違いなく信用される。しかし、それはほとんどなく、曖昧である。
 その伝記に必要とされる難点の一例として、古代の作家たちや現代の学者たちが探求の結果あげた誕生年のことをあげよう。ディオドロス・シクラスは61回オリンピアのときだと言った。クレメンス・アレックスは62回オリンピア。ユーセビウスは63あるいは64回オリンピア。スタンレーは53回オリンピア。ゲールは60回。ダンシエは47回。ベントレーは43回。ロイドは43回。ドッドウェルは52回。リッターは49回。サールウォールは51回。48年の幅で変わっている。もし選択をしなければならないなら、ベントレーに決めることになろう。素晴らしい学者にたいする敬意のためだけではなく、ピタゴラスの友人や同時代のアレクシマンドロスによって知られている誕生の日と合致しているようだからである。
 ピタゴラスは通常、偉大なる数学の創設者に分類される。このことは、彼の広範囲にわたる労作、彼が主に専念していたのは広がりや重量の決定、音楽の音の比率にあったことなどを知ると納得される。彼の科学と技術は、彼の生涯とともに、無意味なまでに過大視されている。伝説によると、彼は聖人であり、奇跡の使い手であり、人間の知恵の教師以上の存在だった。生まれもまた驚くべきもので、ヘルメスの息子ともアポロの息子ともいわれている。その証拠として彼は金の腿をあらわしていたと言われる。国を荒廃させたダフネの熊を飼い慣らした。彼はメタポンタムとタウロミニアムの異なった場所で、同じ日同じ時間に講義を開いた。川を横切るときは、川の神が「これは、ピタゴラス」と挨拶をし、彼にとって天球の調和は音楽に聞こえたという。
 伝説はこうした驚異を記している。しかし、伝説的な伝承としてさえ存在しうるのは、ピタゴラスの意味深い偉大性ということである。リットン・;ブルワー卿に十分にいわれているように、「ピタゴラスに関するあらゆる伝統だけではなく、彼個人が後にイタリアにもたらした強い影響は、彼が人類に及ぼした個人的影響、道徳的命令を必要としていた者に及ぼした熱狂、諸派閥や制度の創立者であることは、彼がいまだ名前のない芸術を有していたことを証明している。ピダゴラスの時代と教えに多くの者が服従したが、彼が入念にギリシャの古代からの宗教と政治を探求し、異邦人ではあったが、訪れたデロスの伝統を(いかに寓話によってそれを損なったとしても)拒否し得ず、デルフィーの敬虔な奉仕者から教えを受けて感動したということが信じられていた。」*通常の人間ではなく、寓話によって詩的な領域にまで賛美されていた。ロマンティックで、奇跡的な行為が帰せられているときには、英雄はそうした驚くべき栄光を担うに足るだけ偉大であることはたしかだ。

*『アテネ、その勃興と没落』ii.412。

 かくして、示された事実は、一般的に伝えられている、彼がその教えと哲学をすべて東洋から借りたという説を反駁する。こうした偉大な人物が異邦からの教師なしですますことができるだろうか。実際できたし、そうしたことはたしかである。しかし、同郷の者たちは、ごく自然な考えによって、彼の偉大さを東洋での教育の結果だと見なした。彼の国には予言者はいなかった。想像力のあるギリシャ人は遠く離れた異境の国の者にそうした性質があるとする傾向があった。彼らは自分自身のなかから知恵が湧いてでるということを信じることができなかった。東洋という広大で未知の領域から、すべての新しいもの、思考が生じるに違いないとみていた。
 リッターが観察したように、古代ギリシャにとってエジプトがいかに驚異に満ちた土地であったか、後にもっと知られるようになっても、人々の性格は保留したとしても、国家的建築の途方もない構造に観察者の注意がねじ曲げられるのを見るとき、ギリシャ人が強力な東洋と偉大なピタゴラスとのあいだに何らかの関連をつけたことは容易に想像される。
 しかし、我々はピタゴラスがその学説についてエジプトにさほど負うことはないことを信じるとしても、彼がエジプトを旅したことに懐疑的なわけではない。サモスはエジプトと定期的な交流があった。ピタゴラスがエジプトを旅したか、旅したものに話を聞いたかしたならば、その体系にあらわれているように、エジプトの慣習について多くの知識を持っていたことだろう。そしてそれは司祭から教えを受けるまでもないことだっただろう。輪廻の教えはエジプトでは一般的なものだった。リッターがいうように、彼はそのために教えを請うまでもなかったのである。埋葬の習慣やある種の食物を禁じることは旅行者にはよく知られたことだった。しかし、ピタゴラスがエジプトの司祭から教えを受けたことに対する根本的な反論は、司祭階級そのもののなかに認められる。もし同じ階級に属さないのならば、同郷人の最も親しい者へも教えることを惜しんだとするなら、異邦人であり、異なった宗教をもつ者にどうして教えを授けることがあろうか。
 古代の作家たちはこの反論に気づいていた。それを無視するために、彼らはいまならブルッカーが与えている物語を発明した。ポリクラテスはエジプト王であるアマシスと友好的な関係にあり、ピタゴラスを送って、司祭と接することができるように推薦したというのだ。王の権威は司祭が異邦人にその神秘を明かすことを認めるほど十分なものではない。それゆえ、彼らはピタゴラスをテーベにおいて古代に精通したものとした。テーベの司祭は王族から選任されたものとして畏敬されており、異邦人に儀式を見られることを嫌っていた。新参者を嫌いながらも、彼らは割礼を含めたいくつかの残酷な儀式に参加させた。しかし、彼をくじくことはできなかった。彼は忍耐をもって指図に従い、最終的に信頼を得た。彼はエジプトで二十二年を過ごし、あらゆる学問に精通して帰ってきた。これは悪い物語ではない。しかし、一つ反論があるとしたら――実体がないということである。
 哲学者という言葉の発明は、ピタゴラスに帰せられている。ペロポンネソスにいたとき、レオニティアスに「なにがおまえの技芸なのだ」と問われた。「私には技芸はない。私は哲学者だ」というのが答えだった。レオニティアスはその言葉を聞いたことがなく、なにを意味するのか尋ねた。ピタゴラスは重々しく答えた、「それはオリンピアの競技に比較できるかもしれない。あるものは栄光と王冠を求める。買ったり売ったりすることで利益を求める者もいる。彼らより高貴な者たちは、利益も賞賛も求めず、この素晴らしい見世物を楽しみ、そこで起きるすべてのことを知ろうとする。同じように、我々は天国である国を出て、多くの収益、多くの利益を得るものの集まりである世界にきたが、そこには数こそほとんどいないが、貪欲や虚栄を軽蔑し、自然を研究するものが存在する。それらを私は哲学者と呼ぶ。というのも、個人的な関心なしでいる観客ほど高貴なものは存在せず、その生涯では、瞑想と自然の知識とが他のどんな仕事よりも名誉あるものとされているからだ。」ピタゴラスが言うところによれば、「知恵を愛するもの」という通常の哲学者の解釈は、「愛するもの」という言葉に最高度の広がりをもたせたときにだけ正確なものとなることを見ておく必要がある。知恵というのは哲学者にとって「ここにあり目的でもあるすべてであり」、単なる好みや一つの追求すべきものであってはならない。それは生命を捧げる貴婦人でなければならない。それがピタゴラスにとっての意味であった。それ以前に賢人を指していたのはσοφςという言葉だった。しかし、彼は自分を、その体系において為したのと同様に、Sophoiあるいは当時の哲学者とは区別することを望んでいた。Sophosの意味は何であろうか。間違いなく我々はそれによって哲学者とは異なる賢人を意味している。その知恵とは実践的なものであるか、実践的な目的に変わるものであった。知恵を愛するものは、それ自体を愛しているのではなく、目的のために愛していた。ピタゴラスは知恵をそれ自体において愛していた。彼にとって瞑想は人間性の最高度の修練だった。生きることの底辺にある目的のために知恵を引きずり下ろすことは冒涜だった。それゆえ、彼は自信を哲学者――知恵を愛するもの――と呼んだが、知恵をより有益な目的のために求める者とははっきりと区別した。
 哲学者という言葉のこの解釈は、彼の意見のいくつかを説明することになろう。とりわけ、厳格な入会儀礼の後でなければ入ることが認められない秘密結社の設立を説明する。五年のあいだ、加入希望者は沈黙を守らねばならなかった。多くのものが絶望のうちにそこで断念した。彼らは純粋な知恵のための瞑想には値しなかった。饒舌な傾向のないものは、その期間を守り通した。様々な屈辱に耐えねばならなかった。自己否定の力を測るために様々な実験が為された。それらによってピタゴラスは彼らが世俗的かどうか、科学という聖域に入るのにふさわしい者かどうかを判断した。浄化、犠牲、通過儀礼によって魂の基本的な部分を一掃した後に、彼らは聖域に入ることが認められ、魂のより高次の部分も、非物質的で永遠な事物についての知識からなる真理に関する知識によって祓い清められるのだった。この目的のために彼は数学から始めたが、それは物質的なものと非物質的なものとを媒介し、それだけが精神を感官的な事物から切り離し、知的なものへ導くことができるからである。
 我々が不思議に思うのは、彼は神として崇拝されていただろうかということである。世俗的な争い、偉人になろうとする野心も超越し、知恵のためだけに生きた彼こそが、通常の人間よりも高次の刻印を押されているのではないか。後の歴史家たちは、白いローブをまとい、黄金の王冠をかぶった、重々しく荘重で、沈着な彼の姿を描いた。人間的な喜びや悲しみなどは超越し、存在のより深い神秘について瞑想している。音楽や、ホメロス、ヘシオドス、タレスの頌歌、あるいは天上の調和に聞き入っている。活気があり、おしゃべりで、議論好き、活動的で多才なギリシャ人から、荘重で謹厳、沈黙と瞑想を旨とする人物が現れるほど驚くべき現象があろうか。
 リットン・ブルワー卿の『アテネ』から、ピタゴラスの政治的経歴についての部分を引用しよう。――「キケロとアウルス・ゲリウスの証言によると、ピタゴラスはタルキニウス・スペルブスの統治下にイタリアに到着し、アカイア族のギリシャ人によって植民地化されたタレンタム湾の一都市であるクロトンに住居を定めた。もし後の弟子たちの途方もない話を部分的にでも信じ、けばけばしく飾り立てられたものから、もともとの単純な真実を引き出そうとするなら、彼は最初は若者の教師としてあらわれ、当時としては異例のことではないが、すぐに法制官の教師となった。都市の紛争は彼の対象として好まれた。議会(千人の人員があり、間違いなく異なった人種からなっていた――最初は入植者の子孫たちであったが、最後には土着の人々も加わった)は雄弁で名声のある哲学者の到着と影響を利用した。彼は貴族の強化に力を尽くし、同じく、民主主義と専制主義に反目した。しかし、彼の政策はなんら世俗的な野心を伴ったものではなかった。彼は少なくともしばらくの間は、表向きは権力や地位を拒み、時期的にいうと比較的最近であるロヨラによって創設されたような強力な秩序に似ていなくもない、組織化された畏怖される社会を創設することに満足していた。弟子たちは試験と見習い期間を経ることでこの社会に入ることを認められた。段階を経ることで彼らはより高い栄誉を受け、より深い神秘に与ることが認められた。宗教は同胞愛の基礎となり、進歩と力を得る目的のために人間を結びつけた。彼はクレトンで高貴な家族のあいだから自らの制度を形成するのに三百人を選び、彼らは自らの身分を知り、世界に命令するのに適するように育てられた。ピタゴラスが首長となったこの社会は、古代の元老院に取って代わり、行政管理を得てからさほどたっていなかった。この制度においては、ピタゴラスは他に類のない唯一の存在だった。ギリシャ哲学の創建者たちの誰も彼には似ていない。誰から聞いても、女性の重要性を認めることにおいてその時代の賢人たちとも異なっていた。彼は女性に講義をし、教えたといわれている。彼の妻自身が哲学者であり、十五人の女性の弟子たちが、彼の学派を光彩を放つものとしている。人類を魅了し欺すあらゆるものについての深い知識をもとにした制度が、一次的な権力を守ることに失敗するはずがない。彼の影響力はクロトンに限られることはなかった。他のイタリアの都市に及んだ。政治制度を修正し、転覆した。ピタゴラスがより粗野で、個人的な野心を持っていたなら、彼はおそらくは強力な君主制を築き、社会年代記を新しい実験の結果でより富ますこともできたろう。しかし、彼の野心は英雄のものではなく、賢者のものだった。彼は自分の身分を高めるよりもむしろ制度の確立を願った。彼の直接の後継者たちは、彼が創設した同朋社会から生じる結果のすべてを見ることはなかった。そして彼の華麗で、荘厳な政治的企図は、しばらくの間は成功したが、無能な友愛感情の茶番と熱心でなかばは気のきいた禁欲主義を残しただけだった。
 かくも神秘的で革命的な権力が社会のいたるところに行き渡り、イタリアの相当の部分で確立されたとき、警戒と疑惑の一般的感情が賢人と宗派のものに向けられた。ポルフィリーによれば、反ピタゴラスが勃興し、後の長い世代に記憶されるほど多数で活発だった。賢人の友人たちの多くは死んだと言われ、ピタゴラス自身敵たちの怒りの犠牲になったのか、弟子たちとメタポントゥムに逃亡して死んだのか疑問をもたれている。最近までイタリア南部は騒乱によって疲弊し、ギリシャも仲裁や調停に入ったが、騒動は収まらなかった。ピタゴラスの制度は捨て去られ、アカイアの金権的な民主主義が知的であるが共感は呼ばなかった寡頭政治の残骸の上に築かれている。
 ピタゴラスは、社会を革命しようと試みたときに、官吏として貴族に頼るという致命的な間違いをした。革命、特に宗教に影響されたものは、民衆の感情によらなければ決して働き得ない。この間違いから、彼は人々に反感を買うようになった。ポルフィリーに関連してネアンテスが考察し、他のすべての証言からも明らかなことだが、部分的な暴動ではなく、民衆の反撥によって彼の没落が決したことは間違いないからである。彼の死後、哲学的な派閥は残ったが、政治的規範が消え去ったことも明らかである。彼がまいた種で、大きな国家にまで育ったのは、よいことであれ悪いことであれ、それは多数のものの心に植えるのだということである。」
 長い間世界を楽しませてきた、彼が音楽のコードを発見したのだという物語も除くわけにはいかない。ある日のこと、鍛冶屋で、多くの男が次々に熱した鉄を叩いているのを聞いて、彼はひとつのハンマーを除いて他のすべてが調和のとれたコードを、つまりオクターブ、五度、三度、を生みだしていると述べた。しかし、五度と三度のあいだの音は不調和だと。仕事場に入ったとき、彼は音の多様性はハンマーの重さの相違によるのだとわかった。彼は正確な重さをはかり、家に戻ると、平面に四本の弦を張り、それぞれの弦の端にハンマーと同じ重さのものをつるし、かき鳴らすと、ハンマーの音に対応した音がした。彼はそこから音楽の音階をつくりだすことに進んだ。
 このことについて、バーニー博士は『音楽の歴史』のなかでこう述べている。「ハンマーと鉄床がオーストリッチのように消化力のある古代人と現代人によって飲み込まれ、検証と実験がなされたとしても、異なった大きさと重さのハンマーは同じ鉄床の上で異なった音を出すに過ぎず、それは異なった大きさの矢や鐘の舌が、同じつるや鐘でしか異なった音を出さないのと同じでああろう。」
 ピタゴラスの生涯を終えるにあたって読者に思い起こしてもらいたいのは、途方もない矛盾した主張を歴史や伝記から集め、「権威」として無批判に使うことである。一例としてそうした「権威」をひとつあげよう。イアムビリカスはピタゴラスの生涯を、キリスト教の勃興と戦い、キリストに異教の哲学をもって対立したという視点で書いている。ピタゴラスに帰せられている奇跡も同様に根拠がないことである。


§III.ピタゴラスの哲学

 全歴史において、ピタゴラス派として知られている共同体を正確につかみ、あらわすことほど困難なことはない。それは世界に不思議な騒音をつくりだしている。それはしばしば遠い木霊と混乱させる。常に神秘の雰囲気が招かれ、それに取り巻かれている。その高名な創設者に関わる驚くべき関係、そこに含まれる東洋的思索の多様な要素との想定される同化、その教説の象徴的な性質と思われているもの、それらが等しく結びつき、魅力的でもあれば、矛盾したものともしている。あらゆる教説はそれに先行するなんらかの哲学の痕跡を辿っている。もし我々がユダヤ、インド、エジプト、カルデアフェニキア、さらにはトラキアまで、彼が借り受けたと宣言しているもので補填したとしても、いかなる名残も教師そのものの本質には残っていないだろう。
 こうした剽窃とされるものも、我々はまったくありそうもないことのように思える。ピタゴラスアナクシマンドロスの結果であった。そして彼の教説は、指導的となっている学説から集めたかぎりでは、アナクシマンドロス創始者である抽象的で演繹的な哲学を継承したものでしかない。
 最初に、ピタゴラスに属するものとされた意見がどれほど関心を引こうとも、それを辿ることは我々の企図とは両立しないということを前提にしなければならない。もっとも大きな不確かさがいまだに存在し、それらの説が真正なものであるかに関しても学者のなかで永遠にそれは存在するに違いない。信頼に値する権威でさえも、それらを常に「ピタゴラス派」のものだとし、ピタゴラスに帰すことはない。現代の批評は、ティマエウスやアルキタスの作品とされるものが疑わしいことを明らかに示している。オセラス・ルカヌスの『あらゆるものの本性』にいたっては、ピタゴラス派によって書かれたものではあり得ないとされている。古代の作家たちのなかでこうした問題では唯一信頼の置けるプラトンアリストテレスは、ピタゴラスに特別な学説を帰していない。理由は単純である。ピタゴラスは秘密裡に教え、なにも書かなかったからである。彼が弟子たちに教えたことは、その弟子たちが教えたことから正確に学ぶことは不可能である。彼らの精神に与えた影響は間違いなく莫大なものだった。そしてその影響は学園において目立った傾向をもつものとして伝えられたが、一致した説としては伝えられなかった。それぞれの学者が、この傾向を自分の好みと力に応じて方向付けてしまったからだろう。*

*我々の場合もそれに当てはまろう。しかしそれは根拠のないことだとは思わない。我々は著名なサン-シモンによって与えられた印象的な類似によって導かれている。ピタゴラスのように、このフランス人は体系全体をあらわすような著作を出版しなかった。彼はそれを弟子たちに伝えた。彼らの精神に与えた影響は較べるものがなく、その哲学の傾向は異なった精神に異なった果実を実らせたが、根を深く下ろしていた。それほど極端に走らないフランスの作家でもそれを評価しており、MM.ティエリー、オーギュスト・コント、ピエール・ルルー、ミシュエル・シュヴァリエ、ル・ペール・アンファンタン、M・ビザールなどすべてサン-シモンの弟子である。

 ピタゴラスの思想、あるいはその弟子たちが考えていたことを正確に確かめることが極度に困難なのは、彼らの思索の一般的な傾向、とりわけ、その方法の特異性しか確かめることができないことだが、それによって我々が当惑することはないだろう。というのも、この困難――それは批判的な歴史家にも克服できないものであり、我々には間接的に影響を与えるだけである――は、我々が特徴的な方法や傾向を捉えようとする努力を、より危険で、より責任を負うべき矛盾へと追い込んでしまうからである。しかし、我々の前進を阻むような個別の見解が要塞となって立ちふさがるというわけではない。我々は哲学的世界の地図を辿らねばならない。各国の境界がどこにあるか注意深く確かめねばならない。それは各国の内的な多様性を完全に知り尽くすことなしにも可能であり、地理学者が地質学者でもある必要はないのだ。
 ピタゴラス派の方法と傾向とはどういうものだろうか。方法は、純粋に演繹的である。傾向は、科学の真の材料である抽象について考察することに完全に向かっている。それゆえ、この学派が「数学的」と呼ばれることはさほど頻繁にはない。ピタゴラス派のリストには数学や天文学において偉大な名が擁されている、アルキタス、フィロラオス、後にはヒッパルカス、プトレマイオス。*

ピタゴラスの弟子のアエスチラスは科学においてもっとも高次の、数を発見したのだと桁外れの自慢をしている。

 ここで、我々はピタゴラスが数は事物の原理なのだと、あるいはより文字通りに翻訳すれば、「数は諸事物の物質的存在の原因である」と教えたことの意味をある程度理解できる。本質はここでは明らかに具体的な存在のあらわれである。このことは、いろいろなところでアリストテレスが与えている、自然は数から実現されるという言葉からも確認される。あるいは、事物は数の複製でしかない。ピタゴラスが意味しているのは、数は事物の究極的な本性だということである。アナクシマンドロスは、事物そのものは最終的なものではないとした。それらは常に位置や属性を変える。それらは変わりやすいもので、存在の原理は恒久的なものでなければならなかった。彼はその恒久的な存在をすべてと呼んだ。
 ピタゴラス派多様性のもとに恒久的な存在があるとみた。しかし、彼はそれにより限定的な表現を与えたかったので、数と呼んだ。かくしてそれぞれの個物はその位置を変え、存在の様態を変えることができる。すべての特殊な属性はつまり、その数的な属性以外には破壊されうる。つねに「ひとつの」ものがある。なにものもその数的な存在を破壊することはできない。あらゆる可能な方法で事物を結びつけたとしても、「一者」が残る。「一者」以下のものになることもできなければ、「一者」以上のものになることもできない。微細な粒子のなかで回転していたとしても、それぞれの粒子はひとつである。かくして、数的な存在が唯一の変わることのない存在なので、すべての事物が数の複製に過ぎないと主張するに至ることは容易であった。「すべての現象はもっとも単純な要素から生じなければならず」と、セクスタス・エンピリカスは言っている、「そして、宇宙の原理が感覚される現象の本性に関わっていると想定することは理性に反しているだろう。原理は、結局のところ、不可視で、不可触であるだけでなく、非物質的なものである。」と。
 数的な存在とは分析が有限な事物に関して到達できる究極の状態であり、無限や存在自体について到達できる究極的な状態である。それゆえ、無限は一者でなければならない。一は絶対的数である。それは自律して存在する。他の何とも、他の数とさえ関係をもつ必要はない。二は一に対する一の関係に過ぎない。存在のあらゆる様態は無限の有限な側面でしかない。すべての数は一との数的関係でしかない。始原的な一のなかにはすべての数が含まれており、結果的に全世界の要素である。
 その上、一者は本質的に、αρχηであり、――哲学者が追い求めた事物の始まりなのであって、というのもどこから始めようが一者から始めなければならないからである。3という数字を想定したとしても、2をつくる最初の部分を切り離せば、第二の部分は一と成ろう。一言で言えば、一はすべての事物の始まりなのである。
 言葉上の揚げ足取りで、実際それで全体系は停止してしまうのだが、ピタゴラスのまじめさに疑いをもつ必要はない。ギリシャ人は不運なことに自身の言葉以外に知ることはなかった。自然な結果であるが、言葉上の相違と事物の相違とを取り違えた。ウィーエル博士がうまくいったように、「自然の作用を把握しようとする最初の試みは、抽象的概念で実際曖昧でもあるのだが、それゆえに無意味なのではない。そして、哲学化の次の段階は、そうした曖昧な抽象をより明確に、しっかりしたものとし、論理学の力によって、それらを安全に、整合的に採用できるものとすることにある。しかし、この試みを為すには二つの方法がある。一つは、言葉を検証し、思想をそれに見合ったものにする。第二には、そうした抽象的な言葉を使用することによって、事実や事物に到達することにある。ギリシャ人は言語的。或いは概念的過程をたどり、失敗した。」(1)

(1)『帰納的科学の歴史』i,34

 上述の説明によってのみ、歪められたピタゴラスの特異性を評価することができる。それによってのみ、我々は数が存在であるのがどういうことなのか理解することができる。アリストテレスはその哲学をピタゴラスの数学への好みに帰しており、それは抽象的なものに関わり、感覚しうる事物の物質的存在を軽視する。しかし、それは説明の半分に過ぎないのではないだろうか。今日の数学者は、事物と少しも親和性がなく類似性もないもの(完全に任意のしるし)を事物をあらわすシンボルとして推論するだけでなく、シンボルを使って推論し、事物を調査することになんの問題も感じていない。天文学の多くは天体望遠鏡をまったく使わずに行われている。紙の上に数字が書かれ、それが計算されている。しかしながら、天文学者がシンボルとして数字を使っているから、彼らが数字をシンボルだけでしかないと思っているわけではない。ピタゴラスはこうした区別をできなかった。彼は数字を実在のものだと信じ、単なるシンボルとはしなかった。それゆえ、リッターがピタゴラスが数式を「シンボルとして扱うことができた」というとき、彼は大きな時代錯誤を犯しており、我々がギリシャ哲学として知るものから数世紀を経て変動した考え方を先取りしている。変動はアリストテレスにも証拠としてあらわれており、彼は「ピタゴラス派は数と事物とを分けなかった。彼らは数を事物の原理であり材料であるとともに、本質であり力であるとした」(1)といっている。現在の哲学において、数がシンボルとしか考えられないために、ピタゴラスが同様に考えていたに違いないと考えるのは、広く行き渡っているが、シェイクスピアヘクトールアリストテレスを引用したり、ラシーヌがアウリスの宿営地ででヴェルサイユの礼儀作法を披露するのと同じようなアナクロニズムである。そして、リッター自身、この哲学の様々な点の細部について述べた後で、本質的な教義は「数学的世界からの派生物であること、空間と時間の関係を単位や数で解決しようとしている。すべてが原初的な一、あるいは第一の数、一がその発展の過程で分裂した単位や数から生じる」と述べている。さて、この教義が単に数学的なものだと想定するなら、数学的宇宙論は歴史的哲学のすべての原理を侵犯することはないだろう。というのも今日における見解をピタゴラスの時代に投げ込めばいいからである。最終的な証拠として、「事物は数の複製である」という定式を考えてみよう。この定式は、我々が戦う考えのなかでももっとも好意的に受け取れるものだが、詳しく見ると、ピタゴラスの真の意味がシンボル的なものの正反対に向いていることをあらわしている。シンボルは任意のしるしであり、それがあらわすものとはなんら類似点はない。a,b,c,dはアルファベットの文字でしかない。数学者はそれを量や事物のシンボルにする。しかし、xが未知の性質の複製だとは誰も言わないだろう。事物が本質的に数だとするなら、数の複製である事物とはなにを意味するのだろうか。あらかじめその意味を探っておかなければならない。事物は抽象的な存在の具体的な存在であることになろう。数が原理だと言われるとき、それは物質的存在の形相であり、変わることのない本来的な本質が数だということになる。(2)かくしてある石は一つの石である。そのようなものとして、一の複製である。抽象的な一が具体的な一に実現したものである。石を塵の中に置こう。塵の粒子はまた別の一の複製である。

(1)『形而上学』i.5.おそらくより正確に言うと、「数は事物の始原であり、物質的存在の原因である」とした方が正しいだろう。
 数をシンボル的に使ったと信じているものの意見も聞くべきかもしれない。アリストテレスの簡潔な言葉で疑問の余地のないことは明らかである。この点に関する箇所は、この節の最後に翻訳してある。
(2)それゆえ、我々はピタゴラスが「定比率」の理論を予見していたと仮定するには注意するべきだろう。数は組みあわせの法則でも、そうした法則の表現でもなく、どのような組みあわせにおいても変わることのない本質だった。