ケネス・バーク『恒久性と変化』10(翻訳)

動機の戦略

 

 まとめるとこうなる。自分の行動をお気に入りの社会規範で説明する人間がいたとき、彼は精神分析家のあいだで生活する人間が自分の利害をリビドー、抑圧、オイディプス・コンプレックスなどだけで論じ始める場合と同じ合理化を行なっているのだと言える。これもまた、ある種の合理化、特殊な定位に属する動機群である――自分の動機をこのように謙遜して表現する率直さは、「偽善の時代」が終わる以前[終わったのか?!――1953年の追記]広く行きわたっていたうわべだけの道徳を嫌う人々の好意を得るのに役立ちさえする。


 だが、野蛮な一群の事実のもとに打ち立てる仮説は合理化以外のなにものであろうか。形而上学者と馬鹿者との相違は、定位に関しては、形而上学者が合理化されるべき事実の複雑性を数多く広く探査しているだけではないだろうか。形而上学者は、風に流されるまま合理化することに満足せず、一貫した、或いは互いに適合性のある信念によって、より厳密な検証を行なおうとする。常識はそうした厳格さに対してはのんきに構えているが、両者の相違は主として圧力の問題である。形而上学者はより強く規矩にはめようとし――通常あまりに強すぎる。科学の論理的議論は、洗練された合理化に基づいており、単なる自己欺瞞を越え、紛れもない偽善に近づいているように思える。科学者が自分の観点をできる限り読者に訴えかけ、自分たちの信念を基礎づける動機選択で見せる純然たる外向的手腕に明らかである。


 ジャン・ピアジェは、人が私的に自分の考えを追う場合と、それを他人に提示するときの相違について考察している。自分の観点を社会化しようとするときにつけ加える論理的調節について考えてみよう。議論を公にする仕事の席に着くまで考えもしなかった多くの点や考え方を、信念の根拠として即興的に提唱する場合を考えてみよう。自分の信念を一度他人に推奨し始めると、論議を始めるときには完全に無視していた考察が最も大きな重荷になることがよくある。動機づけは時代の一般的で科学的な世界観に属しているから、自分の論議を外在化、或いは非人称化することで、読者を承伏させる動機づけの体系に翻訳することになる。こうした策略を無意識裡に行えるなら、彼はそうした動機づけによってごく「自然に」考えることを学ぶことさえできる。


 いかなる説明も社会化の試みであり、社会化は戦略である。それゆえ、内省と同じように科学においても、動機の特定は訴えかけに関わる――パリサイ人的偽善と議論の科学的動機づけとの相違は、訴えかけの戦略が枠づけられる定位の及ぶ範囲の相違に止まる。