ケネス・バーク『恒久性と変化』11(翻訳)

より大きな全体の一部である動機についての更なる考察

 

 要約しよう。動機づけの概要が変化する限り、行動の動機とするものにも変化が予想される。動機はテーブルのように人が見に行ける固定した事物ではない。それは解釈に関わり、当然、全体としての世界観のなかに位置づけられる。精神分析が扱う合理化の過程は、彼らが考えるような場に集中しなかった。それは、人はなにをすべきか、いかに自分の価値を証明するか、どんな根拠でよい扱いが期待されるか、よい扱いとは何か、などに関する判断の全体に位置づけられた。ある人間が自分の振る舞いを説明する際にもちだす少数の動機は、このより大きな定位の断片的な部分でしかない。


 かつて形而上学者はその著作を第一原理で始め、それは宇宙構造一般を扱わねばならなかった。そこから、歴史と心理学、善と美、彼ら独自の人類学の法則を引きだすことに進んだ。それに続く思想家たちは、我々の形成する宇宙の観念に及ぼす人類学的な影響に注目し、宇宙から人間へという進行を逆転した。純粋に人間的な過程の研究から始め、宇宙観を心理学的、生理学的、民俗学的、歴史的な反応として解釈したのである。宇宙から始め、人間に降りてく代わりに、人間から始め宇宙に向けて進む。


 新たな方法は形而上学的議論に大きな柔軟性を与えたが、いかにある世界観が人類学的な根をもっているにしても、それに伴う内観心理学(そして、常識の言葉、自問自答や自己探求で発見されるもの)はより大きな全体の一部でしかないという事実を覆い隠す役にも立った。制度、習慣、暮らし方を含む一般的で確立された定位の体制に関する限り、動機の心理学は単なる国家内国家のようなものであろう。生のあらゆる目的が子孫の繁栄に向けられた定位や合理化では、飢えた人間がその憤りや悲しみを食物への欲望ではなく、未来の子孫が危険にさらされているという恐れに向けるのも道理のあることだろう。


 我々が精神分析的な強調の仕方に反対するのは、彼らはある人間が餓えという動機を利他的な動機と診断するのを自己欺瞞的な合理化として非難しがちなのだが、どんな動機もより大きな、全体としての人間の目的に関する暗黙の、或いはあからさまな合理化の一部に過ぎないからである。例えば、本来のフロイト的動機の図式は、西欧社会に既に確立されていた強い性的-ブルジョア的定位に従属し、想像力と現実との広く行きわたった常識的区別を加えたものでしかなかった。その用語法は、時代に特有のロマン主義的、科学的姿勢に多くを負っている。


 正義が世界観において中枢となる語であるとき、人は正義のために生を投げださないなどとどうして言えよう。実際、その僅か数音節のために人は向こう見ずな行動ができる。また、未来の子孫の繁栄が人間行動の基本的な動機となるような文明を仮定し想像することをとんでもないと考える読者がいたとしたら、その正反対の事例、祖先崇拝が盛んだったころの中国を考えればいいので、そこでは、行動の心理学的な動機、犠牲、努力、規律、非難、称賛の根拠は祖先の威厳を維持することに基づいていた。自分の幸福は死者たちの幸福に含まれているから、死者のために行動した。我々はそれを回りくどい因果関係の体系であり、目的と手段との関係についての疑わしい理論だと言えるかもしれないが、今日の人間が自分の行動を仕事が欲しいためだと説明しているのが、実は仕事がもたらす金銭と、金銭がもたらす物品を欲しているのと自己欺瞞の点では変わらない。


 こうした誤りの偏狭さが最も明らかになるのは、現代の精神分析家の亜流が、聖アウグスティヌスのような強烈で際だった神学者の根に隠れた性的動機を解釈し始めるような場合である。アウグスティヌスが生き、書いていた時代の動機づけが、せいぜいそれら動機全体の一部分である僅かな性的衝動のために無条件に捨て去られる。


 どんな権限で、性的なことが彼の動機の本質だと言えるのだろうか。非性的な関心は、性的関心を象徴化したものと解釈できる――しかし、同じく、性的関心は、非性的関心を象徴化したとも考えられる。つまり、性的な事柄が大きな重要性をもっているから、思考パターンが性的思考のパターンを顕著に示すことになる。聖アウグスティヌスの強く宗教的に定位された社会とは対照的な我々の強く性的に定位された社会以外では、どちらが真の動機で、どちらが象徴的な附加物だと言えるだろうか。


 古代中国に関しても、その祖先崇拝が完全に間違った手段選択の例だとは言えない。それは物品の獲得や安定化に非常に役立つ社会的実践を活気づけ、それによって社会的に有効な姿勢をも活気づけた。その規範に順応することで有形無形の公益とともに、好意による報酬を受けた。


 恐らく、違った表現でより明瞭な確証を提示することで、この観点を述べてみるべきだろう。従って、同じ一般的問題を扱っていると思われるI.A.リチャーズの『孟子の精神論』から引用する。


 「我々は長いあいだそうであるかのように語ってきたゆえに、恐らくは、そのように考え、感じ、意志しており、言語と伝統が異なった心の働きを公言していたなら、我々の心は別の動き方をしただろうというのは可能な考え方である。これは居心地の悪い示唆であり、我々が常々従っている結論以上の帰結をもたらし、一般的な心理学理論を変化させるだろう。大地のみならず、心の土台をも崩れ去る危険を感じるだろう。・・・こうしたすべてが孟子に関わっており、孟子の考察は認知の理論を欠いた心理学を通じてなされる。しかし、認知、知識の概念は、「反応に基づく」心理学の最も危なっかしい部分なのである。行動主義者にとっては、明らかに、「いかにという知識」が「何かについての知識」に取って代わる。激しく行動主義者に反対する者でさえ、しばしば覚知を行動の前提条件ではなく、大半が無意識的な本能的衝動の抵抗点で生じる副次的な結果として扱う。全体的に言って、西洋の心理学は、一世代前よりも、真剣に認知を論じることなしに心を考えようとしている。異なった社会と言語が異なった心的働きを発達させると考えるのは、より容易なことのように私には思われる。・・・孟子とその後継者における理論的関心の欠如は、相違が最も明らかな部分である。しかし、そうした相違の概略を示すのにさえ、我々は共通の座標――例えば「関心」――を含む言語を使用せざるを得ない。我々が比較に用いている基本的な仮定に関しては、明らかに我々の懐疑にも限界があるにちがいない。我々のなし得る疑問は、通常すべての精神に共通だと考えられていた様態の幾つかが孟子が扱った精神には欠けているのではないか、ということに止まる。」


 多分、リチャーズの大胆な考察は、いかに精神が働くかについて一般に受け入れられている考え方が、精神をそのように働かせることを可能にするのだと要約される。それは、単に合理化に含まれる動機を問うことを越えたところに問題を移すように思われる。自分の仮定を擁護するために、彼は、心理学の問題に対する古代中国の哲学者孟子の倫理的なアプローチと、現代科学者たちの臨床的なアプローチとの顕著な相違を露わにしている。私自身の論点は、彼の考える可能性の範囲に比較すると、のろのろと進んでいるようにしか思えない。私が言おうとしているのは、単に、動機の用語法ははぐらかしでも自己欺瞞でもなく、目的、方便、「よき生」などに関する一般的な定位に適合するよう形づくられるのだということにある。