ケネス・バーク『恒久性と変化』12(翻訳)

動機は諸状況を速記したものである

 

 連合によるつながり、刺激と反応のもと考えるとき、動機についてなにを言えるだろうか。現実の生の経験が実験室の実験のように単純ではなく、夕食のベルのような明白な場合は滅多にない非常に複雑な解釈がなされると理解されたとき、人間の動機づけに関する内観的、道徳的用語法にこの事実を示す何かが期待されないわけがあろうか。単純な条件のもとにある法則を発見することは、それ自体は高度に複雑な条件においても同じようにその法則が働いていることの証拠にはならない。しかしながら、向きを変えるか痕跡として残っているか、なんらかの形でその働きの証拠を探すことは正当化される。


 さて、所謂意識現象と呼ばれるものが何であれ、それがなんらかの葛藤から生じることは一般的に同意されている。かくしてそれは、慎重な選択という単純な意識状態から、あらゆる事実とその結果を秤にかける優柔不断、何か重要な側面が軽視されていて、そこから良心が危機にさらされるのではないかと恐れる周到で念入りなものにまで及ぶ。意識の特徴は、同様に、動機についての関心、動機の選択で我々が考慮に入れねばならない感情でもある。


 こうした事実はすべて、動機についての我々が内省する言葉は、相矛盾し争い合うある種典型的な刺激のパターンを大雑把に速記的に記述していることを示していないだろうか。例えば、我々が義務という動機づけのもとある行為を行なうと言うとき、一般的には、ある種の反応を求めるある種の刺激が、別の反応を求めるある種の刺激と結びついているという複雑な刺激-状況を示している。我々が愛とは矛盾する義務によって行動するのは、直接的な満足は少ないが(我々は仕事を放り出して駆け落ちはしない)、怒った両親や非難がましい隣人の好意を得ておいた方が、最終的にはより満足を得ることができると判断するためである。刺激に従順に反応し、快の性格をもつ連鎖(駆け落ちという考え)が、同じく刺激への柔順な反応だが不快な性格(「人はなんと言うだろう」)をもつ連鎖と争う――そして、最終的に止まることに決めたなら、その動機は、義務から行動したことになろう。このような場合、義務とは、刺激同士の特殊な争いのパターンを認識する以外のことではなく、そのパターンとは自分が属するグループで頻繁に繰り返された経験のパターンであり、命令に従うとはそのパターンをあらわす特有の言葉である。


 或いはまた、ある男が、「怪しいから後戻りした」と告げたとする。つまり、怪しさが彼の動機だった。しかし、怪しさは全体として調和しているわけではないしるし、意味、刺激の複雑な集合を指す言葉である。混合の具合は概ね次のようになろう。危険のしるし(「こいつには何か不吉な感じがする」)。安心させようとするしるし(「しかし、ここで強盗しようとするものはいないだろう」)。社会的しるし(「何もないのに騒ぎ立てて物笑いにはなりたくないが、何か落としたふりをして道を後戻りすることはできる」)、等々。「怪しい」という言葉によって、彼は状況そのものに言い及ぶ――そして、同じような刺激のパターンがあらわれる度に、彼は変わることなく怪しさに動機づけられたと言うことだろう。ちなみに、我々は状況を一般的な意味の図式と関連づけて特徴づけるので、状況の速記法としての動機が我々の定位一般にいかに関わり割り当てられているかは明らかである。そして、なぜ『デイリー・ワーカー』が、恐ろしい動機を政治家たちに割り当て、ブルジョアジーを変わることなく憤激させ続けるかが理解される。


 動機に関する言葉が、事実、状況に関する言葉であるなら、我々は犬にさえ動機づけの「言葉」を観察できる――というのも、犬のよくある身振りには、多様な状況パターンについての認識を見て取れるからである。主人に挨拶する身振り、通りすがりの見知らぬ人間に対するもの、ぶたれると脅かされたときの、小屋に戻りなさいと言われたときの、新鮮な臭いに出くわしたときの、等々である。言うなれば、犬は二十から三十の典型的な、繰り返しあらわれる状況についての語彙をもっており、それらについては我々もすぐにわかるようになる。田舎の毛づやのいい若いテリアは、唯一の冒険が店までの散歩であり、舗装された道路で育ち、太り、甘やかされ、食べ過ぎの街のプードルとは相当に異なった動機の語彙をもっている。


 このように動機を考察すると、なぜ動機づけに関するかくも多くの敵対する理論がここ数世紀の間に急激に増加し、その当座専門家の集団やある階級の人間に流通するにいたったのか説明することができよう。我々は人々の行動を際限のない多様な理論で説明してきた。民俗学、地理学、社会学、生理学、歴史学、内分泌学、経済学、解剖学、神秘学、病理学、等々。なぜ人々はそうするのかを語ることに特別の関心を払った特殊な芸術形式が隆盛を極めさえしたが――心理学的、科学的小説――それは恐らくは動機づけが極度にあやふやな性格をもった問題となったからであろう。そうした芸術は人の振る舞いについて情報を与え、そのスタイルはますます詩的でも読者本意でもなくなり、ますます注解と説明に限定されている。


 偉大なる劇の時代には、観客はなぜ登場人物がそう行動するのか知っていた。登場人物こそ苦境に陥っているが、観客は彼らの行動を見て、しゃべるのを聞くだけで、動機については当然のことと見なしていた。しかし、我々はこうした初期の劇の動機についてさえ混乱するようになっている――それゆえ、動機づけが特定の主題となる芸術形式が発達したのである。この事実は我々の不安定性が増していることを示していよう。高度に安定した時代には、生のおきまりのパターンも高度に安定化されており、複雑な刺激の組み合わせは標準化され、動機は固定していたからである。そうした文化的に統合された時代には、人間が自分の動機について嘘をつくことはあり得たが、自分の動機がわからないといった疑いは考えられない。


 我々の解釈によれば、動機について語るのは、単に、その人間が置かれた状況にある相反する刺激の特殊なパターンや組み合わせを名づけることなので、そうした姿勢も正当化される。しかし、著しく不安定な時代、大きく変わりやすい対立のある時代には、典型的な刺激のパターンが集団全体、或いはその過半数に及ぶことさえ起こりにくい。それゆえ、刺激の組み合わせの多くは名づけられないままだろう(少なくとも、最も深い意味における命名、つまり、動機として確実なものとなり、動機を指す言葉として普遍化されることはない)。とはいえ、テクノロジーの進歩が政治的、社会的、経済的、美学的、道徳的定位を歪ませ、社会の必要が根本的に異なってしまった現在のような有為転変の時代には、動機づけに関するすべての問題が再び流動化すると予想されないだろうか。


 我々の放浪生活、年ごとに逆転する経済的身分、戦時下における国家体制の大変動、好景気の平和、大不況、職業習慣の広範囲にわたる多様化、いまから五年先でさえ世界がどうなり我々がそれにどう対応しているか全くわからない予測のつかなさ、田舎ででもなければ完全になくなってしまった「この父にしてこの子あり」的な傾向――こうしたすべての要因は、比較的安定した時期には高度に社会化、普遍化されていた性格とは反対に、典型的な、或いは頻発する刺激のパターンを個人化するものである。こうした状況は、そのまま動機の問題にあらわれるだろう。


 実際、この点に関しては、内省的心理学への攻撃がことにアメリカでは一般的であったことが注目に値する。アメリカとはまさしく、頭のなかをのぞき込めば、不変の、安定した、繰り返される経験の豊かな蓄積が止められておらず、見いだされるのは、さほど高度でも複雑でもない、新しい冷蔵庫を買う誘惑だとか、失業の恐れだとか、煙草の銘柄についての関心などの数少ない単純な刺激があるばかりの場所である。かくして、動機の内省的な探求は、完全な空虚さを露わにする危険がある。こうした「文化」だからこそ、教育とは豊かな可能性の蓄えから洞察を引きだしてくることではなく、経験したことを空っぽの器にくみ出すことだと理論づけた行動主義的な心理学が興り、定着できたのではなかろうか。


 恐らく、最も徹底的に、諸状況としての動機を論じる傾向を体現しているのは、ウィリアム・マーストンとその同僚たちの『統合心理学』であろう。彼らは行為の根本的な衝動として、栄養、性、出産を仮定する。我々の様々な社会的行動は、直接的間接的にこれらの衝動を満足させるものと解釈される。衝動は派生物をもっている。餓えという衝動は商業的な野心に転化されうるし、性的衝動は社会の繁栄への関心として表現され、出産の衝動は芸術に変わりうる、等々。「反応単位」としてある四つの動機づけは、盲従、支配、誘い、従順である。盲従は、意志に反して、自分よりも勝っていると思われる力に従うことである。(牢獄の囚人は盲従する。)支配は、ものを思い通りにしようとする。(子供は棒から手を放させようとすると抵抗する。)誘いは、セールス、広告、宣伝、お世辞、嘆願のような甘言によって達成される。(「うまく教育すれば、幼児期の早い時期に子供は、ものは支配し、人間や動物は誘導しなければならないことを学ぶ。」)従順と誘因との関係は、盲従と支配との関係に等しい。幸せな恋人は支配に盲従するのではなく、誘いかけに従順である。顧客はセールスマンの誘いかけに従う。(「動物や人間にある自発的な、素朴な、模倣的な行動は従順さによって動機づけられているように思われる。以前の本能に関する理論は、通常、模倣を基本的本能の一つに数え上げていた。更に、全体としての行動が支配や盲従によって制御されうるとしても、模倣的行動にはすべて従順さが含まれていなければならないと思われる。」)しかし、もちろん、判断のほとんどの場合において、単純な「反応単位」があらわれることは滅多にない。衝動やその派生物や四種の典型的反応同士が衝突し合う複雑な状況に行き当たるやいなや、動機と感情に関する我々の用語は、刺激-反応の状況を、ベンサムが確立したいと願った「道徳の算術」と同じくらい複雑なものとしてしまう。この著者たちは、通常動機の名で語られている数多くの複雑な状況をためらいがちに分析している。また、刺激にある相争う性質のため、その争いへの反応から生じるものとして、意識を神経医学的に説明している。


 つけ加えて私が強調するのは、刺激そのものの性格である。刺激は絶対的な意味をもってはいない。拷問による死を示すしるしであっても、安楽を愛する懐疑論者と殉教には永遠の報酬が約束されているという世界観をもつ苦行者とではその定位において全く異なった意味をもつ。いかなる状況であっても、その性格は、それを判断する解釈の枠組みから生じる。そして、客観的状況を評価する異なったやり方は、主観的には、動機の差異として表現される。


 動機は紛れもなく言語的な産物なので、動機の問題はコミュニケーションの問題に向うことになる。我々は自分が生まれ落ちた文化的グループ特有の言葉によって状況のパターンを識別する。言語的産物としての精神は、ある種の関係を意味深いものとして選別する諸概念(言語的にかたどられた)によって成り立っている。他のグループは、別の関係を意味深いものとして選択するかもしれない。こうした関係は現実ではなく、現実の解釈である――従って、異なった解釈の枠組みは、現実はなにかについて異なった結論を導きだすだろう。


 他にもかかわらず起きることもあれば、他のために起こることもあり、他に関係なく起きることもある。もし我々がすべてを知ったなら、恐らくにもかかわらずと関係なくは排除することとなろう――しかし、限定された解釈の図式はすべてこれら三種のカテゴリーをどう分けるかに主たる相違がある。例えば、自然主義者なら、Aはその邪悪さには関係なく事故で傷ついたというかもしれない――超自然主義者なら、Aの邪悪さのために事故は起こったと言うだろう。解釈の転換は、我々が出来事をために、にもかかわらず、関係なくにグループ分けする異なった方法から生じる。


 こうした解釈の転換は、異なった関係性に注意を向けるので、それぞれ現実について全く異なった絵を描く。我々は、自分が生まれ落ちた特殊な言語的織物に従いある種の関係を選び出すことを学び、その言語的織物を使って私的に他の諸関係を定式化するかもしれない。その場合、我々は新たな用語を発明するか、古い言葉を新たなやり方で適用するかして、我々の特殊な付加や変更が古い織物と合っていることを示すために、自分たちの集団の言語的装置を操作して、自らの立場を社会化しようと試みる。我々は新たな関係を意味深いものだと指摘しようとする――状況を異なった風に解釈する。主観的な領域では、新たな動機を発明する。古い動機と新しい動機のどちらも言語的に構築されており、言語はコミュニケーションの媒体であるので、定位から始まったこの議論は、動機づけを通じ、コミュニケーションに進むこととなる。第一部の残りは、コミュニケーションを扱うこととなろう。