ケネス・バーク『恒久性と変化』13(翻訳)

第三章 職業的精神病質

 

関心の本性

 

 もしバッタがしゃべれるとしたら、「オーストラリアスズメのつがいの習性」について学問的かつ上手に話されるより、「バッタを食べる鳥」の話により興味を抱くだろうことは想像に難くない。関心という要素は、コミュニケーションの働きで大きな部分を占めている。例えば、もし誰かが自分にとって重大な契機となったことを非常に明快かつ端的に語ったとしても、聞き手が彼の言うことにほとんど関心を示さないなら、望んだようなコミュニケーションは取れない。哲学者が歯痛に悩まされているなら、数学的シンボリズムよりは歯科学に興味を抱くことになろう。論じられている事柄がなんらかの点で聞き手の関心を引き起こさないなら、コミュニケーションは満足したものとはなり得ない。こうした助けがなければ、訴えかけの手続きはすべて――わかりやすさ、簡潔さ、説得力、構成、柔軟性、など随意に続く――無駄になる。若い恋人同士や雇用者と被雇用者の間で交わされるこの上なく退屈な誓いの言葉であっても、長年の努力と労力の結果がこの無味乾燥な言葉にあらわれていると思えば、生き生きしたものとなるかもしれない。我々は人の関心と関わることによってその人物に関心を抱く。


 しかしながら、これだけ言えば、問題は非常に微妙であることが理解されよう。南北戦争以前のアメリカの黒人は、奴隷制に非常に関心をもっていたにちがいないが、その問題が特に言及された黒人霊歌を私は一つも知らない。ゆゆしい経済的問題に取りまかれているのも関わらず、現代の労働者はプロレタリア文学よりは社交界を舞台にしたドラマや冒険小説に関心をもち、プロレタリア文学の方は時間的に自由な好意的改革家や事務員や銀行家に主として読まれている。なにかがある人間の関心であっても、将来においても関心であり続ける保証は何もない。戦争の原因を理解することは人々にとって甚だしく関心をひく事柄であるはずである――しかし、そうした問題に関心をもたせることは非常に困難である。現状に不満足な者は、その不満足の分析よりも、けばけばしい物語や事実をありのままに伝える新聞により容易に関心を抱くだろう。なぜ自分が強いのかに関心をもたない乱暴者も、懸賞試合となれば夢中になろう。一日の仕事に疲れ切り、明日までは仕事のことなど考えまいと決めたセールスマンでも、映画に行き、登場人物が自分の仕事に理想的な金、工夫、社会生活を体現しているのを愉しく見ることだろう。この意味では、自分の仕事の理想、理想的な不安、理想的な希望、ものを売るのに必要な理想的な方法を体現している人物を見ているのだから、仕事からすこしも離れていない。


 ジョン・デューイの「職業的精神病質」という概念が、この関心の二次的な側面を最もよく特徴づけていると思われる。大雑把に言えば、この言葉は、歴史的な意味における社会環境は社会の生産方法と同義語であるというマルクス主義の説に対応している。デューイ教授は、ある種族の生計の手段は、特殊な思考パターンをもたらし、思考とは行動の一側面なので、そのパターンは生産と配分において部族を助けると示している。経済的パターンに答えるものとして生まれたこの特殊な強調を、彼は部族の職業的精神病質と呼ぶ。一度この精神病質が食物を得るパターン(生存の問題としてそれが主要であることは確かである)として権威によって確立されると、それは部族文化の他の側面にまで持ち込まれることになる。


 例えば、狩りによって生計を立てている部族では、結婚の習慣でも狩りのパターンが見られ、男性と女性との関係は狩人と獲物との関係に顕著な類似性があることが予想される。女性は儀式的に捕えられるだろう。また、狩りの非常に問題のある部分、突然の予期せぬ出来事に常に備えていなければならないことは、新しさに文化的強調をもたらすかもしれない――彼のあげている例では、戦争をしているオーストラリアの部族では、互いに最も新しい歌を聴き合うことで恩赦が与えられる。部族の生計に役立つ思考パターンを強調することで、精神病質はある種の創造的な性格をもつようになり、他の行動や形象に向いたときにも、似たようなパターンをもつ作品を形づくることになろう。更なる補強証拠として、それとは対照的な、生産体系の基礎として周期的に回帰するもの、季節に関する伝承、天文学的な固定性などをごく自然に強調し、伝統を重んじる農耕文化の芸術や考え方を挙げることもできる。そして、今日では、一時的流行にとらわれやすく、競争的な資本主義によって生みだされた新奇なものを常に求める我々の精神病質があってこそ、経済的社会的先行きに顕著な不安定さとうまくつきあっていくことができるのだろう。


 芸術家は主として、職業的精神病質を派生的な側面で扱う。それを形象の新たな領域に投影する。狩猟の精神病質が新たなものを重んじるなら、芸術家は、新しさの経験を思わせるようなあらゆる技巧を発見することで、自分の芸術を社会化するだろう。逆に、自然の周期的な運動に忠実に、生産の段取りを決める枠組みを奉じている農耕的精神病質のなかで働いている芸術家は、部族の創設に付き従った吟唱詩人の神秘的な詩句に立ち返り、常に生気を与え続けることで、自分の堅実な伝統主義を公的に印象づけることになるかもしれない。


 もちろん、原始的な社会でさえ、完全な職業的同質性があるわけではない。少なくとも常に、生産パターンとの関係が部族全体とは異なる特権階級が認められる。しかし、一般的には、芸術家は職業的精神病質が浸透したパターンのなかで、外部の材料を一般的な部族の装備で扱うと言える。彼は自分の特殊な経済システムに有用で適した習慣パターンを助長するような知的想像的上部構造を打ち立て操作する。その種の作品を授かることで、人々は強調点、識別、姿勢などを発展させる。特殊な好み、嫌悪、恐れ、希望、気遣い、理想化などが前面に出てくる。それは小さな火薬樽のようなもので、芸術家は爆発させようとするものの導火線に火をつけようとする。彼は論争の種になるようなもの(つまり、職業的精神病質の関心を呼び起こすもの)を扱うときに最も幸福である――そして、集団が同じように反応を見せる限り、その作品は普遍的な訴えかけの機会をもつことになる。


 現在では、精神病質の相違を探ることが正当化されるほど互いに異なった生活のあり方を含む多様な職業的分類が想像できる。こうした生存様式のパターンは互いに排除し合っている。重なりあうところでは、混合的な精神病質を生みだしている。だが、二三の顕著な職業的特徴が認められ、それらは恐らくは平行した精神病質をもっている。(ちなみに、デューイ教授は、「精神病質」を精神医学的な意味で使っているのではないことは留意しておく方がいいだろう。それは単に精神の明白な特徴を示している。)