ケネス・バーク『恒久性と変化』14(翻訳)

現在の職業的精神病質

 

 資本主義、金融、個人主義、自由放任主義、自由市場、民間企業など様々に呼ばれる精神病質が存在し、その強い競争的な性格は、会社と独占権(カルテル化)の成長、それに対応し、公務員の昇進の基礎となる(「やり手」であることは資格にならない)縁者びいきと年功序列の増加で、次第に、気づかぬうちに崩壊し始めている。その精神病質の力は、恐らく、プロスポーツといまはなき「新時代」に咲き誇った成功の文学に最もよくあらわれている。セールスの割当制度はここで重要な役割を占めており、生産におけるベルトコンベアーに対応する分配の技法を示している――そして、「機敏さ」、「押しの強さ」、「突進力」を保ち続けることが主要な美徳である。恐らく、この精神病質が最も精妙に、最も効果的に拡大されたのは、この刺激のもと、最初の頃にあった節約と僅かな収入という物々交換的な組み合わせが、新たな浪費と高収入という消費の組み合わせの前に崩れ去ったことにあろう。ヴェブレンが指摘するように、成功の機会は失敗の機会でもあるのだが、成功だけが大きく強調された。つまらない学者を除けば、誰でもこうした信念の言い換えに気づかずにはおれないのだが、我々はこの精神病質に向う推進力を正当化するかもしれない。


 大都市とは異なる農村の精神病質も存在するはずだが、今日では、人口と財政とが集中した場で決定される経済政策を黙認しなければならないことで、粗悪なものとなり、少なくとも弱まってしまった。税、利息、換金作物などが、かつては農民を特徴づけていた物々交換的心性を非実際的なものとした。彼らはいまでは消費経済のなかで、最も弱く、影響力の少ない、周縁的な存在に過ぎない。


 労働者の精神病質とは区別される投資家や融資者の精神病質もあると思える。それは具体的な物理的性質、手工業的機械的操作に縛られるものではない――予測、期待、未来のようなおぼろげなもの、価値のような形而上学的混乱をもたらすものを扱い、グラフ、統計、指標、収穫高、表といった面目を新たにした占星術を得るのである。いかなる詩人も、投資家の精神病質から想像力を発する夢想家や幻視家の現実概念ほど精妙で空想に充ちたものをもたなかった。商品の移動を副次的なものと見なし、取り引きが記録された書類にのみ実質を見いだすかのように、クレジットと利率の上部構造が基本的なものと考えられる。実際の物理的資産はほとんど解釈されるべきしるしでしかない。鉄道は、その軌道、動力、車庫、修理工場、労働力によって判断されるのではなく、資本構造のデータとして受け取られる。それは何百マイル、何千マイルもの長さに伸びている――だが、現実としてではなく、見込みに則ってのことなのである。この精神病質が思い描くところでは、世界の生産、配分、消費の問題は、大都市のエレベーターで秘密の会議室に集り、信用(クレジット)の問題について頭を悩ませる五、六人によって決められているとごく自然に考えられている。ここでは、かつて盛んに用いられた深く宗教的な摂理という概念が、奇妙な空気の精であるかのようにその精神性は無傷のまま、世俗化されているように思われる。


 しばしばこうした人々は物質主義者と呼ばれるが、物質主義者という非難ほど的外れなものはない。どちらも競争に巻き込まれてはいるが、資本主義国のプロレタリアートの精神病質が投資家の精神病質とできる限り明確に区別されるべきだとするなら、その相違は、まさしくプロレタリアートがその目的や快楽においてより物質主義によく当てはまるという事実に置くべきだと私は思う。というのも、彼らの想像力のパターンは経済体制の直接的な物理的側面から生じているだろうからである。彼らが産出するのは明確で使用できる物である。融資家の精神的な楽しみを欠いている彼らは、将来を見込んで買い込んだりため込み(資本財)、それらの見込みをもとに更なる見込みで買い込んだりため込んだりして満足を得ることはできない。物質主義的である彼らは、見込みということを理解できないだろう。使用できる商品によって保証された見込みにしか喜びを見いだせないだろう。


 犯罪的な精神病質について言うなら、主要な四つのグループを挙げられよう。第一に、ルンペン、浮浪者、任を解かれた専門家、金を無心して回る芸術家など。現在、彼らは新たな仲間、技術革新がもたらした失業者と混じり合うことによって変化している。組織的な政治腐敗に含まれるグループもいる。最もよい状態であれば、そこでは、正直さが接ぎ木され、組織だったえこひいき、仲間同士での信頼、言葉上の約束への良心的な忠実さ(書面にすると非合法になってしまう契約も含まれる)といった幾分困惑させられる道徳性が見いだされる。それは、警察の干渉を受けないことを示す「保護」という言葉の逆説的な使われ方のもとになっている。厳格なギャングの道徳に基づく、公正で高度な共同性を発達させねばならない暴力集団が存在する。彼らの規範はその生業が命ずるところに従い明確かつ直接的に形成されているので、ある意味で、最も道徳的な市民集団だと言えるかもしれない。


 第四のグループは、合法的な事業を通じて掠り取り、削り取る。大会社の重役や役員が株主、消費者、労働者を犠牲にして会社から利益を奪い取るという横暴なやり方である。もしこれらのグループを一つのものと考えることができるなら、何百万人もの人間が犯罪的な精神病質、ひそかなごまかし、社会的シニシズム、精神病質に必要な人間性の改善への憎しみに寄与しているに違いない。