ケネス・バーク『恒久性と変化』22(翻訳)

ヒューマニズム的な、或は詩的な合理化

 

 誘いかけよりも支配に力点を置く科学的基準という文化の側面が排除され、縮小される傾向にあるなら、修正された合理化は擬人的、ヒューマニズム的、或は詩的な方向に向かうに違いない。宗教ではなく詩があげられるのは、多くの理由から必然的であるように思える。恐らくその筆頭にあげられるのは、詩が決して制度化されたことがなく、教会のように壊れた窓と散らかった戸口の巨大な廃墟の様相を呈していないという事実にある。また、「先祖返り」や「逆戻り」といった非難は、宗教に特殊なもので、詩に対して容易に向けられるものではない。(ちなみに、気味の悪い実験によって魔術的な合理化の威信と科学としての刷新とを結びつけた錬金術師に対して、底知れぬ暗闇へと先祖返りするものだと非難が起きたことは覚えておく価値がある。)


 結局のところ、詩という手段は、人間の自発的な性質と密接に関連している。詩的な基準によって修正の哲学を枠組みすることで、我々は今度は「生物学的に」基礎づけられた参照点をもつことになろう。この点において、詩は、実用的な要求に基づいており啓示に頼らない科学的な精神病質からもたらされる権威を享受できる。いかなる新たな合理化も、できる限り、また必然的にそれが置き換わることになる威信を享受している合理化の「妥当性」のなかで議論を組み立てなければならないゆえに、これは重要な事実である。


 他方において、詩的な参照点は、詩的コミュニケーションの媒体が弱まることによって弱まる。道具立てそのものが十分に安定し、集団のなかで広がりと恒久性をもつまでは、権威の中心は、詩本体よりも詩の哲学や心理学に位置づけられねばならない。もし我々が生産と配分のパターンに合うように我々の欲望を変えるのではなく、我々の健全な欲望に合うように生産と配分のパターンを変えるなら、人間の欲望の「集中する点」が見いだされるのは詩の領域に違いない。科学的合理化の修正は、必然的に芸術の根本理由となるように思われる――しかしながら、少数の者が生みだし、多数の者が見守るだけの達人や専門家の芸術ではなく、最も広い意味における芸術、生の芸術である。