ケネス・バーク『恒久性と変化』15(翻訳)

テクノロジー的精神病質

 

 こうしたすべてのうちにあり、関連し、それらを越えた部分にも底流にもあって、混乱の主たる責任を負うべきは、テクノロジー的精神病質である。恐らくそれは、その基本的パターンにおいて世界の新たな原理に寄与している精神病質である。我々の栄光と悩みの中心にある。


 人間の歴史にはそれにふさわしい三つの異なった合理化が存在すると思える、魔術、宗教、科学である。魔術は、人間が自然の根本的な力を支配することによる合理化だった。現代の思想家たちは、魔術の因果関係に関する理論の誤りを指摘したがるが、魔術が自然の力を利益に変えるやり方を図式化することに圧倒的な助けとなったことは明らかである。


 宗教は特に、人間の力を支配しようとする合理化だと思われる。文明がより複雑になると、人間の共同作業に関する高度に繊細な規範が必要となった。宗教的思想は、こうした複雑な状況のもとで、共同の慣習を秩序づける精神的領域での装置となった。


 そして、我々はいま第三の偉大な合理化である科学、科学技術や機械力を我々の目的のために支配しようとする試みに関わっている。


 その真髄は実験主義、実験室的方法、創造的懐疑主義、組織化された疑いと言われている。職業的道徳性をもってはいるが、現在のところ、はっきりした精神病質をあらわすというよりも、伝統的な道徳の崩壊や解除により力強く寄与しているのが見て取れる。通常、科学はコペルニクス天文学ガリレオの物理学、ベーコンの帰納的方法による合理化にまでさかのぼるが、その精神病質は、体系的な科学技術の発展による衝撃を真っ向から受け止めた最初の国であるイギリスの功利主義的哲学者たちの時期になって始めて完全に花開いたと言える。判断の主要な要因を効用に定めたこの説は、価値の問題を考える際に、参照地点を世俗的なものとして形式的に確立した。道徳の起源は超越的なものであり、真理は神によって、選ばれた代表者にあらわされ、聖職者の手によって伝えられていくという考えは、有用性や利害の考慮が我々の宗教的、倫理的、美的、また宇宙論的判断でさえ現に形づくっており、これからもそうであろうという考えに道を譲った。


 生存競争の道具や武器として道徳的知的特性が発達したと論じたときに、ダーウィンはまさしくこうした精神病質のなかにいた。マルクスは共存道徳という概念を導入した。ジェレミーベンサムは『謬見の書』で、功利的目的をもった法案の提出が最も高貴な道徳的偉大さという装いのもとぼやかされてしまう議会でのやりとりについて辛抱強くかつ辛辣に検証した。彼は内部と外部での顕著な考え方の相違、それぞれの立場で道徳的真実性が異なって操作されることに注目した。


 マルクスは、この分類を更に拡げ深化し、それが単に政治的な運による盛衰によって転換するのではなく、我々が内部と外部とを結晶化した階級として受け入れる限り結晶化が続くことを示した。彼はこうした、階級を互いに区別できるような類の精神病質について考察した。そして、功利主義者と同じように、現状とあるべき姿を混同する傾向があり、階級意識が避けられないと感じられるときもあれば、別の方向に導かれるべきだと感じられるときもある。ここでの難点は、恐らく、第一部の冒頭で我々が気づいたこと、つまり、人の関心をひくものと人が関心をもつものとの微妙な区別であろう。階級道徳は階級が存在する限り即座に生じるかもしれない。しかし、階級意識は階級道徳に正確に訴えることで教えられねばならないのである。


 この道徳の系譜学において、ニーチェの立場は著しく複雑である。他の作家がエッセイストである場所で、彼は悲劇的詩人だった。彼は単に価値の超越を論じることには興味がなく、それを歌い上げ、この偉大な歴史的運動に予言的、儀式的アクセントを加えようとした。しかし、詩人は敬虔であり、敬虔さの訴えかけは深く疑問の余地のない結びつきの適正さにあるので、彼が関わる悲惨な苦境が見て取れる。彼はまさしく最後の価値まで、人間が文化的過去から引きだす敬虔な結びつきまで疑問視した。このニヒリスティックな関わりが彼の奉ずるところだった。従って、この祭壇に相応しい象徴的意匠でその周りを取り囲もうとした。それには、倫理的な範疇と有機的に関係していたものの力を弱め、美学的範疇との結びつきを強めることが含まれていた。芸術家としての格調の高い素養は常に彼に敬虔さへの道を開いていた。だが、彼の鋭くアフォリズム的な知性はそうした道筋を疑い続けたのである。


 その結果は、恐らく、前テクノロジー的精神病質から人類がこれから永久に持ち続けるだろうテクノロジー的精神病質への移行を最も完全に、かつ自己矛盾的に象徴化している。それは「親テクノロジー的」姿勢と言えるかもしれない。ツァラトゥストラは過酷で風変わりな孤独な雪山を下り、危険な世俗的、非世俗的歓楽をほのめかし、大都市のまさしく本質であるある種の懐疑主義、反宗教的な抜け目のなさを敬虔に儀式化する。ニーチェからの負債を自覚しているトーマス・マンが『魔の山』で同じシンボルを同じ目的のために多く用いているのも不思議ではない。ニーチェは突飛な発言によってその最も鋭い洞察の幾つかを傷つけている――そして、よきヨーロッパ人である彼が一貫して軽蔑していた愛国的軍国主義の予言者だとしばしば見なされている。しかし、結局のところ、彼の作品の豊穣さは認められなければならない。


 ヴェブレンは、恐らく、いま「文化的遅滞」と呼ばれている道徳的混乱を最も明るみにだしてみせた。その最も単純な形においては、彼の説は、過去の状況に適切に対応することで発達した制度は、状況が変化すると脅威になる、というものである。当然のことながら、制度が存続する限り、それを支えてきた倫理的価値もまた維持され続けるだろう。ヴェブレンの化石化した制度という考えが訓練された無能力という概念とどう関わるかは容易に見て取れる。


 価値の問題に関するこうした疑問視は、明らかにテクノロジー的精神病質の一部をなしていると思われる。人類学や民俗学の資料によって実証されるまでもなく、同じテクノロジー的枠組みの一部分をなす職業の多様性によってそれは更に活発になることだろう。我々はそれぞれに異なる医者の、法律家の、科学者の、トンネル工夫の、記者の観点をもっている。こうした入り組んだ多様性は、知的寛容、情報提供、大衆化、知識の概略に対して我々の与える重要性に精神病質的にあらわれている――また、ある種の個人主義は、生産が個人主義的に運営されていたかつての精神病質に予想される類のものではないにしても、少なくとも、部門主義、小集団に集中限定される知識に観察されるものである。