ケネス・バーク『恒久性と変化』23(翻訳)

第二部 不調和による遠近法

 

第一部は「定位」一般を論じた。第三部は「新しい」定位の原理を論じるつもりである。中間の第二部は、移行そのもののあり方を扱うこととなろう。こうした変容の諸条件には単なる知的問題ばかりでなく、深い感情的問題が関わっているので、分析は「敬虔」と「不敬虔」についての議論に集中する。敬虔は、「存在の源」に従おうとする熱望であり、通常考えられているよりずっと幅広い動機をあらわしている。逆に、その最も良心的なものでさえも、新しい教説には必然的に、不敬虔の要素とそれに対応する罪の感覚が含まれている(その教説が後に、妥当性、非妥当性についての一般的に受け入れられた規範として正統になるにしても)。中間段階は、悲劇の祭儀における「かきむしり泣き叫ぶ」(生贄の八つ裂き)段階に類似した破壊や断片化を含んでいる。(ヘーゲル弁証法で相当する部分は、「ロゴノミカルな贖罪」と呼ばれる。)ここで、理性は「不調和による遠近法」と呼ばれ提示される(ヘルメス的、メルクリウス的スタイルが特に強調され、それらは互いに排除し合うと感じられていたカテゴリーを混ぜ合わせることで得られる)。これは「ガーゴイル」の領域である。特に、精神分析が不調和の遠近法によって見られる。というのも、その治療は不適当、或は「計画的な不調和」、或は「方法的な誤称」の原理に導かれているからである(悪魔払い師が、憑かれている者が言うのとは合致しない名前を呼んで悪魔を追い出すように)。しかし、新たな意味の探求には深い感情的なものが認められる一方(身体に聖痕となってさえあらわれる感情)、純粋に合理的、「知的な」要素の重要性もまた強調される。キリストと聖パウロが新たな意味を提示する異なったタイプとして比較される。

 


第一章 敬虔の有効範囲

 

魔術的意味と功利的意味

 

 敬虔の問題に行き当たらずに、芸術の分野において意味の問題を十分に論じることはできない。サンタヤナは、どこかで、敬虔を存在の源への忠誠と定義している。こうした考え方は、敬虔が厳密に宗教的な領域に限られないことを示唆するだろう。陶工が粘土を自分の感覚通りに、あるべき形に完全に満足できるように形づくったときにもあらわれるものだろう。子供時代に我々の最初の判断パターンが発達し、成長してからの経験はその子供時代のパターンの修正であり敷衍であるから、敬虔と子供時代との関係は明らかであると思える。例えば、成人はその考えを父親から父親である政府に転じる。だが、後半生にいたっても、斧をもって大きな木を倒すようなとき、庇護してくれる気高い象徴が打ち倒されたかのような奇妙な心許なさを感じたとしても驚くにはあたらない。というのも、その行為がいかに中立的なものであり、木は暖を取るという単純な功利的な必要のために切り倒されたのだとしても、そこにはある種の象徴的な父親殺しが潜んでいるかもしれないからである。暖を取るための木ばかりでなく、親の象徴が粉々にされたのかもしれない。


 現代社会での詩人たちの多大な不安は、純粋に功利的な行動の哲学が我々に要求する数多くの象徴的不法行為のせいである可能性もある。功利的な行為が比較的少なく、集団全体のための行為が普通であった原始時代では、特定の贖罪の儀式がそうした象徴的な不法行為を帳消しにするように思われた。魔術的な定位においては(詩と密接に関連しているが)、もし木を切り倒すことが象徴的な父親殺しの意味合いをもつなら、集団は恐らくそれに対応するような象徴的な贖罪の儀式を発達させるだろう。違反者は、かくして、自分が犯した罪を洗い清める技術を持つことになろう。


 しかしながら、こうした行為に対する純粋に功利的な姿勢は、ことのほか不敬虔なしるしを導き入れることになる。まったく象徴的含みの働かないような意味は可能ではない。木が倒れ、奇妙な居心地の悪さを感じたなら、その妙な良心の呵責を断ち切って、気短に「ナンセンス!ただの木じゃないか、必要だったんだ、他にもまだ沢山あるじゃないか」と自ら言い聞かせることになるに違いない。行為の非功利的な性質は切り捨てられ――行為は「新たな人間」としてなされねばならない――巨大な樫の木が倒れたとき、詩人だけが当惑し悲しみを感じ、単に薪を得るだけではないより深い問題がここには存在するのだと感じることが許される。(現代の「懐疑的な」傾向を考えると、「木こり、この木を助ける者・・・」と、想像力豊かにそのスタイルを森に響く斧の音と定義する現代詩人の見解とがよい対照となるかもしれない。)


 こうした考察はしばしば美学にも認められ、芸術と実践との直接的な対立を強調する傾向の根本にあるものかもしれない。というのも、もし我々の考察が正しいなら、純粋に功利的な姿勢は、真面目な詩人が断固として自分を表現しようとする象徴的な含みを抑圧することによってのみ取れるからである。そして、なぜその本質において深く詩人的であるニーチェのような作家において、純粋に合理主義的で功利主義的な理想が、異なった種族、激しく残酷な行為を取る超人を必要としたのかを理解させてくれる。


 合理的で、科学的なカテゴリーが情的なカテゴリーと衝突する例として、ライオンの分類があろう。もし、ごく普通の精神分析的な象徴化の理論が正しいなら、ライオンは一際優れた男性或は父親の象徴である。だがライオンは科学的には猫の仲間であり、猫は情的には女性的なものである。偉大な詩や一般的な用法において、それは女性的な属性と結びついている。合理的なカテゴリーは、情的なカテゴリーとまったく行き違う連想をもっているわけである。情的に妥当な連携は合理的には不適切である。


 合理的な象徴の秩序が情的な象徴の秩序とまったく異質な不調和を形成するこうした場合、激しい葛藤が生じ、合理的なカテゴリーに達しようとする徹底的な試みの後にも不安や居心地の悪さが残ることもあり得るのではないか。ダーウィンの激しい眩暈はまさしくこうした葛藤の証拠ではないだろうか。というのも、ダーウィンは情的なカテゴリーにおいて形成されたカテゴリーとは矛盾する合理的カテゴリーを打ち立てた最上の例だからである。感情的な結びつきとは異質な移動が生物学的分類の全域にわたって行なわれたが、一般の反発を見ればわかるように、彼が人間を神のカテゴリーから猿のカテゴリーへの移したことはその最も明白な例である。彼の結論を最初に聞いたとき、気絶した女性たちがいたとさえ記録されている(恐らく、自分たちは猿と寝ているのだという当惑の感情のせいもあろうが)。私自身に関して言えば、子供時代、純粋かつ単純に最も大きな犬だと思っていたライオンが猫の仲間だと学んだときの大きな憤りを忘れることはないだろう。


 合理的な分類が全盛となったまさしくその時期に、詩において激しく突発的に、純粋に非合理的な象徴主義の連想があらわれたことは驚くにあたらない。その論理を経験に根づかせる詩人たちが、完全に合理的な考察の産物である正反対の論理に直面したとき、その当惑は相当のものだった。肥料会社の人間は、死んだ犬に対して、その犬をペットとして飼っていた子供とはまったく異なった態度を取る。化学反応のことしか気にしない功利的な連想とは対照的に、子供の連想は詩的、或は魔術的と呼べるだろう。


 切り倒した木が薪であると同時に親の象徴であるようなとき、贖罪の必要を十分に考慮に入れ、大人としての行動に子供時代の意味合いをすべて受け入れるのが敬虔な人間と言えよう。そして、現代生活での罪の多くは、心理学的には、隠された違法行為を帳消しにする決定的で、一般に認められた技術が喪失しているためだと説明されるかもしれない。成功による正当化が、より深い魔術的な正当化に取って代わっているに違いない――そして、そうした成功は、通常、象徴的な侮辱を含む行為の技巧や力を強めていくものなので、成功を認めることは悪人としての役割に慣れていくことに違いない。こうした可能性のもと、我々は実際的精神をもつ者のなかにも、敬虔な贖罪を見いだすことができる。


 いずれにしろ、敬虔さが我々が述べてきたような反応なら、次のような顕著な特徴をもつだろう。(1)それは子供時代の経験との著しい親和性を示しており、それによって、とりわけ、大きな変化の時代を生きる詩人たちがなぜしばしば子供っぽい姿勢を示すのかが説明される。それは、敬虔さと「過去の想起」との深い結びつきを示唆しているだろう。(2)なぜ敬虔さが苦痛に満ち、純然たる功利的行動にさえ含まれる象徴的な不法行為を中和するための象徴的な贖罪(殉教や強い功名心)を必要とするかを示唆するだろう。