ケネス・バーク『恒久性と変化』26(翻訳)

やむを得ない労働と象徴的労働

 

 単調な骨折り仕事は純然たるやむを得ない労働であり、象徴的労働は個人の最も深いところにあるパターンに従ったものだと認めれば、やむを得ない労働と象徴的な労働とを区別できる。象徴的労働はより敬虔である。例えば、どこかに行かねばならず、目的地へ行くあいだにあるために山に登るのであれば、それは「やむを得ない労働」である。同じ行動でも、山が登り手に対してなんらかの深い意味合いをもっており、登るという行為そのものがある種の達成なら、それは象徴的であろう。登山家の経験を読んだことのある者なら、その区別がわかるだろうが、登山家の場合、登山にありがちの危険は単に堪えられるものではなく、求められるものである。非凡な達成というのは、芸術的、科学的、政治的、商業的のどんな場合であっても、恐らくはやむを得ない側面と象徴的な側面とが一人の人間において結びつくことで生まれるのだろう。


 例えば、ロックフェラーは単に金儲けをしただけではなかった。彼の努力にはなんらかの形でピューリタンの道徳規範が含まれており、経済的帝国を建設しようとする彼の絶え間のない労力は功利的な必要性を遙かに超えでている。彼は単なる仕事をしていたのではない――召命に応じていたのである。同様に、レーニンのような職業的革命家の場合、変わることのない仕事への献身は、プロレタリアート独裁が彼にとって単なる手段ではなく、なんらかの形で彼の最も根本的な正当化のパターンや自尊心に深く関わっていたことを示しているだろう。それが子供時代の経験のパターンに結びついていることもあり得ることで、哀れなゴーゴリは、早い時期に、彼の風刺小説が大きな成功を収め、父親に対する忠誠を裏切ってしまったと感じてから自分の心を見失ってしまった。レーニンの場合、手がかりは恐らく兄との関係にあって、兄が殺されたあとレーニンはその重要な意見を取り入れたのである。


 要約すると、どんな種類のものであっても、大いに献身が認められるところには、敬虔の領域がある。ジャーナリストの場合のように、今日多くの人間が自分の仕事に嫌悪感を表明しているが、それもある種の裏返しにされた敬虔さであろう――一般紙が純粋に実用的なスタイルで書かれているのに対し、しばしば赤新聞が労働者向けの強い個性的なスタイルを示しているのも偶然ではないと思われる。


 赤新聞の作者たちがその努力のなかに道徳的要素を蔵しているのは明らかである――というのも心底において彼らは自己を軽蔑しており、こうした自己嫌悪は基本的に道徳的だからである。それ故、それに見合った不浄な献げものをする祭壇をもっているのである。下劣な社説が実際には響きをもち、大声で朗読でき、リズムと精神をもつ一方、一般紙の毎日の義務的な報告が電話帳のように素っ気ないものだと気づかない者がいようか。一般紙の実用的なスタイルは基本的に夢中になることを欠いている――作者は単なる観察者である。しかし、根本において軽蔑する新聞の仕事をするなら、書く度に常に道徳的問題を扱うことになり、その記事は雄弁の退化した形でしかないにしても、道徳的刺激のしるしを見せることになる。


 同様に、心理学者は人間の仕事に潜むシンボリズムのパターンをあらわにする者として詩人の仕事に取り組むが、機械的な発明にも同じようなことがあらわれていると想像できよう。心の分裂によって苦しんでいたハート・クレーンにとって、ブルックリン橋は統一のシンボルだった――どうして心の底から強く橋をつくりたいと願っている技術者にとって、橋が同じような非功利的意味合いをもたないことがあろうか。