ケネス・バーク『恒久性と変化』27(翻訳)

論理に関する保留

 

 感情と論理との区別、直感と理性との区別は、その他との関わりでどれだけ役に立つとしても、ここでは考える必要はない。鳥の一団にとって、そのうちの一羽が飛び立つときに続けて飛び立つことは本能であり――同様にまったく論理的な振る舞いである。一般的に言って、自分の身を守る助けとなるやり方で出来事に反応しているのであり――最初に飛び立った鳥が間違っていたり、ひねくれていたにしろ、それ以上に論理的な振る舞いは考えられない。


 より微妙な性格を識別することを学習すれば、より正確な反応ができるかもしれない。例えば、若い鳥はより飛び立ちやすいことを知り――神経質な若鳥の行動はその近くにいる鳥によって斟酌され、そうした無反応に集団が応じることもあるかもしれない。こうした場合、しるしの読み取りはより正確にはなっているが、より論理的になっているとは言えないだろう。我々の考え方からすると、論理とは、言語化による再定位或は確認を意味していると思われる。即ちこうである。我々はある問題を特殊な形で言明し、この特殊な言明のなかで問題を探るときに論理的(ロゴス、言葉)である。鳥の振る舞いは、彼らが実際に再定位のなんらかの提案をあらわし、それを実行できたときに論理的となろう。そして、薄暗闇のなかでぼんやりと外套掛けを見て、それを泥棒だと解釈して逃げだしたとしても、なんら非合理的なところなどない。


 我々の言葉の意味においてはっきり非合理的な過程だと言えそうなのは、次のような家庭での出来事である。いたずら好きの娘婿がパイプを拳銃のように握り、曾祖母に向けて「手を挙げろ」と言う。いたずらは思ったよりもうまくいった。老婦人は大いに驚き、銃を下ろすように叫んだ。いたずら者は銃ではなく、ただのパイプであったことを示す――彼女は厳格にこう答える、「ああ、私にはわかっていたよ、でも人はそうやって撃たれるもんだよ」と。


 彼女の恐れは論理的であり――その憤りも論理的だが、その言語化については、どうすれば適切と言えるのか、私には定位の形を想像できない。彼女は、たとえ弾が込められていないと思われても、武器を人に向けるべきではないことの理由を述べている。彼女の考えによれば、そうした武器は結局のところ弾が入っていることをしばしば証明するのである。それ故、武器を使ったいたずらは人の命を代償とすることもある。それ故、彼女の恐れと憤りは正当化される。しかし、人はパイプで撃つことはない。彼女の反応はもともと彼女によって特徴づけられた状況に対するものであり――義理の息子によって別に特徴づけられた状況に対するものではない。それは、彼女が息子の言語化を無視した限りにおいて非合理的である。もし彼女が、銃は突然パイプに変わりうるものであり、いまは明らかにパイプであるが、自分に向けられていたときは銃であったと信じているなら、非合理的とは言えないだろう。


 非合理的だとして最も責められるのはこの二番目の種類に関するもので、そこでは前提の不一致が隠されており、互いを非合理的だと責める対立者同士は、実際には学生めいた三段論法的な律儀さで前提から結論に向けて進んでいる。こうした事例は、特に、西洋の調査者が未開部族の行動に論理的欠如を発見する場合に見受けられる。実際には、未開人は部族の合理化によって確立された因果的結びつきをもとに、極めて論理的に行動している。我々は我々の検証の技術によって、合理的な枠組みを問いただす根拠を提示することはできる――しかし、自分が正しいと感じる根拠に基づいて行動している人間を非合理的とは呼べない。


 それでは、老嬢は、恐れに心を奪われており、それに従えばまさしく出来事の性格は彼女が解釈したとおりだとしてみよう。娘婿が銃ではなくパイプだと示したのは、彼女の反応に根拠がないことを示すことで、状況を再定位する試みだとしよう。このことについて、彼は本質的には成功しておらず、というのも、彼は彼女が恐れるべきではない理由を彼の観点から提示したが、彼女の恐れが憤りの十分な根拠であるという事実に対して、憤るべきではなかった理由を提示することはできなかったからである。かくして、彼女の言語化は、怖がらせたことに対する憤りを正当化するという意味においては非論理的であり、本来的な恐れだけが極めて適切に言葉にあらわされている。


 間違った象徴化のもと、彼女が実際になにを言っているかといえば、「私はそれが銃だと思い、銃を向けられたから憤った」ということである。しかし、無害だとわかったいたずらに対して憤りを示すことに居心地の悪さを感じた優しい老嬢は、叱りつけることで示そうとはしたものの、その言語化から憤りに関する部分を完全に除外した。それ故、すべてが終ったあとにも、銃を向けたという実際には行なわれなかった不法行為を理由に責めようとすることで、完全に間違った発言をする。


 かくして、言語行為が語り手の定位のなかにおいてさえ不適切で、非合理的だと認められるとき、定位一般の論議に言葉が大きな助けとなりうるかどうか我々は疑問を感じる。定位のシステムというのは、正確さの多少はあるにしても、ある出来事を選び出し、それが有益か、中立的か、危険か判断することにある――そして、危険がわかっていて破滅的な行動を取る男は、ラベルに薬とある瓶に入った毒薬を飲んで死んだ男に対してより非論理的な振る舞いをしたわけではない。


 この意味において、新たなやり方で出来事の性格づけをしようとすることは、宗教、精神療法、科学のどの名で行なわれるにしても、人を改宗させようとすることである。それは、我々の定義によれば、既に確立した結合を攻撃する限りにおいて不敬虔である。それは、合理化によって我々の反応の性質を変えようと試みる。


 例えば、ユダヤ教キリスト教の合理化のなかでは、それより以前の異教的な聖なる売春は罪として再定位化される。食事療法の理論でも、同じように新たな禁止事項や規定があって、無関係、有益、危険についての我々の考え方が再定位化される。マルクス主義では、新たな意味が、広範囲にわたる複雑な生産、配分、道徳のネットワークのなかから特殊な注意、特殊な要因を引きだす助けとなっている。こうした試みのすべては(十九世紀は、我々を変える範囲については様々であるが、無数の新たな定位を生みだした)、我々の敬虔な定位に狙いを定めており、我々が疑問に付することなく放置しておいた最後の究極的な仮定を狩り出すのである。