ケネス・バーク『恒久性と変化』24(翻訳)

システム構築としての敬虔さ

 

 更に、敬虔さはシステム構築でもあり、物事を完成させようとする欲望、経験を統一した全体に適合させようとすることでもある。敬虔さは、なにとなにが共にあるのが正しいのかについての感覚である。そしてそれは次のようなやり方で組織化される。祭壇があるとき、敬虔な人間は清潔な手でその祭壇に近づき、なんらかの儀式を行なう。ある種の象徴的な清潔さが祭壇にはあり、象徴的な清潔さを得るための技術が清潔さには伴い、準備や通過儀礼が洗い清めることには伴い、洗い清める必要はタブーの感覚に基づいている――等々と続き、敬虔さによる連合が日々の意味深い細部を結び合わせ、複雑な解釈のネットワークによる全体的統一へと関連づける。


 敬虔さが、適正についての感覚を体現するものであるとしても、敬虔さには一概にそうとは言えない別の側面があるに違いない。愛の敬虔さ以外にも(貴婦人に対して鳥や花となる――或は、名誉や現在を楽しめというテーマから若い女性の美という観念を引きだすエリザベス朝人の機敏さ)、それほど敬虔ではない芸術の適正さが存在するだろう。三文芝居の悪党は巻き舌で話す。交響曲の英雄的瞬間には金管楽器が鳴り響く。夜のことを書く詩人は、夜特有の思いつきと、夜にまつわる様々なこと、パリの部屋にいるのなら、外に聞こえる通りを掃く物寂しい音などの要素を一緒くたにする。


 私はこの敬虔さという概念を、我々の生活のあらゆる側面にあらわれる反応として確立しようとしているが、我々には完全に宗教が欠け、しかも「敬虔に至る過程」が教会に限定されると考えているために、敬虔さは我々から隠されていると言える。ベンサムは、詩(貧弱な種類の詩)が我々の話すことのうちに含まれていることを発見した。というのも、我々の言葉は、奥底にある感情の井戸からくみ出すことによって我々や聞き手に影響を与えるからである。我々はローマ時代の雄弁家の修辞的技巧を用いることなしに母国語を話すことはできない。そして、ベンサムは、科学の中立的な語彙に、会話から無意識の敬虔さを除去する試みを見た。(それに続けて、この中立的な語彙に対する欲望は、本質的で広い範囲にわたる去勢シンボルによる贖罪と解釈されるものであり、かくも貪欲に中立的な観念を公式化した偏屈な老独身者、その後継者たちよりもずっとメシア的な気質が認められるベンサムの場合には、特にそう考えられはしないかと自問することはなかった。)つまり、我々がみな詩人であり、すべての詩人が敬虔なら、我々は敬虔を、非常に大きな範囲において、野球の試合にさえ見いだすことができよう。実際、紙に書く者もいれば、喉を振り絞る者もいるが、生のすべてが詩を書くことに似ている。


 私は敬虔さをなにとなにが伴うかについての感覚だと言ったとき、不条理な還元への道を開いてしまった。鳥の一群がいて、そのうちの一羽が正しいにせよ間違っているにせよ、飛ぶことを怖がったとしよう。残りの鳥たちにも恐れが生じた。別の言葉で言えば、集団の飛翔は一羽の飛翔にかかっている。我々の定義によれば、この集団の従順さは敬虔と言えるだろう。


 敬虔さは、経験を一つにまとめることを含むので、定位の枠組みである。定位は正しいことも間違っていることもあり得る。正しい導きになることも間違った導きになることもあり得る。ある鳥が実際に危険を見たなら、集団がそれに反応することは正しい。危険が実在しないなら、集団は間違っている。どちらの場合にも、敬虔さは存在する。


 更に用法を拡大しよう。長い間不幸で、不幸を抱えて孤独に生活している者がおり(死ぬために群れを離れる傷を負った動物のように)、毎日ある時間に隣から聞こえてくるドアベルの音をうるさく感じたとすると、自分の苦悩とドアベルとを結びつけて考えるようになるかもしれない。自分の悲惨さとこの癇にさわる音とを結びつけることとなる――数年の後、悲惨さから立ち直り、再び気丈さを取り戻したある日、隣から聞こえてくるあの特有のベルの音を聞いて、言いようのない重苦しさがのしかかってくることがあるかもしれない。この結合において、手に負えない充当はまさに「プルースト的な」ものであり、彼は敬虔さに関わっていることになる。それは狂気と混じり合った、気分における敬虔さである。


 さて、これで限界にまで行く準備ができた。マシュー・アーノルド流の洗練された批評家が、繊細な趣味というのは「上流」階級に限られたものであり、彼らの名前は決して「ug」で終らないと仮定したとしよう。だが、このマシュー・アーノルドがガス工場の労働者めいたかっこうで街にたむろしていると想定すると、我々は彼が自分をうまく差別化できていないことを即座に理解する。彼に関するあらゆること、彼が言ったこともその言い方も不適切である。ありのままの彼を、その悪罵や、通りすがりの女性の品定めや、唾を吐く作法について見てみよう。この下品さのうちにこそ、道徳性が、彼が乱暴にも断ち切った仲間との深い感情的結びつきと、適切さの感覚に従う敬虔さがあらわれていないだろうか。なにに対して本気なのか、ガス工場のマシュー・アーノルドが日々いかなるときも、同じ集団の一員として何に献身しているか観察しよう。不作法な言動も敬虔さのあらわれである。


 こうした考察は、法律の専門家やソーシャルワーカーが、腐敗、堕落、不統合などと見なす事柄について再解釈するよう我々を強いる。もしもある犯罪者が、犯罪性を自分の性格の一部をなすものだとし、他のあらゆる特徴や習慣に自分の犯罪性が伴っていると敬虔さをもって感じたとしたら、別の視点に立つ道徳家が彼のうちに発見する犯罪による堕落は、敬虔さの検証に関してまったく正反対の方向を示すことになる。犯罪者の意見は適切さに関する実直な感覚に導かれた統合であり、我々の個人的な判断の立場を捨てれば、大いに良心を示しているようにも思われる。


 同様に、病院で薬と呼ばれていれば、「麻薬常習者」はなんら評判を傷つけることなくモルヒネを手に入れることができる。しかし、いかがわしい遊蕩のパーティーで注射するなら、彼の性格は次第にその顕著な「祭壇」を中心に形成されていくだろう――そして、この場合、その祭壇は一般的に不浄だとされているから、それに見合った不浄な手で向かわねばならず、最終的に落伍者となるのである。我々の学生時代には、常に健全な成長の例であったホームズのオウムガイのように、次々に貝殻を大きくし、規範から外れた完全なる邪悪さを完成させる。彼は自分に対する社会の扱い方と一体化し、彼の所謂堕落は、キーツの詩でと同じように、その周到さと機敏な選択でしるしづけられたものとなる。


 もちろん、ここには更なる要素、相互関係の問題が含まれている。ある種の選択はそれ自体創造的である。それらは型にはまり、その型が今度は敬虔さを補強することになる。例えば、一度崖を飛び越えられた者は、その出来事を大事にし、崖を飛び越えたことのある者として性格を維持し、強化し続けることで自信を保つことができる。言い換えると、犯罪やドラッグに関与した者が、違反によってもたらされた危険や苦痛で自信をなくすなら、彼は更正への強い誘因を感じていることになる。犯罪や麻薬中毒という祭壇はあまりにも苛酷であり、自分の性格を特徴づける原理としては、より面倒の少ない祭壇との結びつきを望むのである。


 だが、彼は既に、他の人間が同じ方向へ進むのを助けてしまうほどの場所に来ているかもしれない。具体的な外的関係が既に確立し、自分のつくりあげた詩の織物のなかで催眠にかかったかのようにからみ取られている。もはや引き返すことはできない――そこで、違法行為に従事する自分の性格を中断してくれるような些細な失敗を用意しておくことになる。弱気と疑いが生じ、自らを持するのに確信が足りないようなときには、自分のつくりだした修道院の壁のなかで規律に従うこととなる(つまり、彼の経験がまとった型に閉じ籠もる)。