ケネス・バーク『恒久性と変化』31(翻訳)

隠喩の機能

 

 「抽象と事実を混同するこの一般的とさえ言える傾向を避けるために」とスティーヴン夫人は書いている、「ベルグソンは抽象的な一般的概念で記述する代わりに、隠喩を用いてそれが実際にどんなものであるか事実を我々に見せようとすることもある。彼はこのことによって大いに批判されたが、分析によって到達した抽象を用いたごく一般的な知的方法よりも、隠喩によって事実を伝えようとするほうが実際多くのことが伝わる。隠喩の使用を批判する者は、その殆どが、そうした記述によっても、通常の知的な分析の方法からほとんどなにも失われないことを理解していない。彼らは、分析においては事実そのものに密着しているが、隠喩を用いると、事実の代わりに、それとは多かれ少なかれかけ離れた、類推によってしか結びついていないまったく異なる事実が記述されるのだと思っている。もしベルグソンの知的方法についての見解が正しいなら、抽象的な言葉で記述しているとき我々は事実に密着しているわけではなく、全くの隠喩を用いているときと同じくらいなにか別のものを代用しているのである。実際、性質や抽象的な一般概念はすべて、所与の事実とそれと同じクラスに属する他のすべての事実との類推を示したものでしかない。それらは一般的な隠喩よりも近い類推かもしれないが、他方において、直截な隠喩の場合、少なくともそれは具体的であり、事実を事実によって言いあらわしているので、実際の事実と隠喩によって持ち込まれた事実を混同するような危険はない。」


 実際、科学の記録が積み重なっていくに従い、科学的調査のすべての結果、そのすべての学派でさえ、一つの実り豊かな隠喩の辛抱強い繰り返しであり、その分岐であると見えてこないだろうか。例えば、我々は歴史の異なる時代において、人間を神の子として、動物として、政治的経済的一片として、機械として考えてきたが、こうしたその他無数の隠喩は終わりなく出てくるデータや一般化の手がかりとして役立ってきた。類推を論理的議論から区別されうる異なった種類の過程として議論することは、どんどん無効になっているように思われる。人が考え得る最も実際的な思考の形式、有用な装置の発明とは、類推による拡大であり、歩くこと、往復運動、車輪、シーソウ、楔などの古くからある過程を考察することで新たな機械をつくりだし、以前には関係ないと感じられていた部分になんらかの諸関連を持ち込むことにある。


 科学的類推の発見的価値とは、まさしく隠喩による驚きのようなものである。相違点は、科学的類推はより忍耐強く追求され、全作業全運動を覆うものとして使用されるが、詩人は隠喩をその一瞬のためにしか使わない。(だが、ここにも類似点が認められる。詩人の全作品は、まさしく一つの隠喩に要約されるような統一された姿勢をあらわしている。「彼は生を夢だと言った・・・或は、巡礼・・・カーニヴァル・・・迷宮だと言った。」)