ケネス・バーク『恒久性と変化』30(翻訳)

ベルグソンの計画された不調和

 

 哲学者アンリ・ベルグソンの定式は、体系としての不調和に最も近づいている。ニーチェはその手順を十分に首尾一貫して具体化した――しかし、私の知る限りでは、その特有の合理化を与えてはくれなかった。その合理化が最も明瞭にあらわれているのは『精神の誤用』と題された本で(カリン・スティーヴン夫人の著作)、ベルグソンの説が簡潔に言い直されている。他の著作の梗概である著作の梗概を更につくることになるが、スティーブン夫人によって述べられたベルグソンの立場は次のようなものとなろう。


 現実の生の出来事は連続的で、実在がいかに孤立して見えるものであろうと、実際には全体のなかに溶け込んでいる。実際的な便宜のために、我々は実在の様々な部分を区別し、こうした抽象の過程によって、我々は他の出来事と多かれ少なかれ類似しているという理由によって、ある種の出来事を繰り返されるものとして扱うことさえできる。時間において生じるそれぞれの出来事はみな新しいもので、繰り返されることはあり得ない。この常に変化する宇宙のなか、ある種の大雑把な一般化、概念化、言語化によって我々は道筋をつける――しかし、言葉の確実さには限界がある。その目的はまさしく実在を実際的に単純化することであり、実在を実際ある通りに記述するには不適当だと考えるべきである。例えば、運動は全体的で、単一の、統一された出来事である。しかし、ニュートンは、計算の便宜のために互いに働き合う二つの力――一つは惑星を軌道から外に押し出そうとし、一つは惑星を軌道の中心に引き寄せるもので、二つの争いあう力の結果として実際の軌道になる――を使って惑星の軌道を概念化した。


 ベルグソンが示唆するところによれば、形而上学者たちの偉大なる総合とは、我々が実在を実際的に扱う際の単なる言語的区別であり、宇宙の本質としては決して正当化されない論理的或は概念的区別を宇宙論として結び合わせた図式である。この意味において、もともと存在するわけではなく、便宜の目的で発明された様々な差異を調停するために洗練された体系を打ち立てている形而上学者は、疑似問題を解決しているに過ぎない。


 つまりこうである。惑星は引っ張る力と押し込む力とのなんらかの協定によって動いているのではない。ただ単にある行路を進んでいる――そしてこの行路は、それを引力と斤力の総合として算定したときに、天文学上の計算に役立つよう概念化される。現実の運動そのものが総合であり、決してそれ以外ではない。言葉というのは必然的に塊になっており、実在をばらばらにしてそれをいくつもある全体として扱うので、概念化は正反対のものを結びつけることになる。しかし、運動ではなく、引力と斤力という二つの概念を結びつけることで総合の図式を得ようと力を傾注する者は、実在に関しては疑似問題を解決している。


 同じようなことは、まだ確立された言葉になっているわけではないが、心臓の収縮を示す特殊な概念と心臓の拡大を示す特殊な概念とで心臓を説明しようとするときにもあらわれるだろう。そうした区別を受け入れ、二つの言葉を結びつけて、単一の心臓の働きを形成するところに偉大なる総合を発見する思想家もいるかもしれない。J・M・ウッジャー氏による、生物学の構造と機能とをめぐる論争の議論は、純粋に言葉の問題に帰結する同様の疑似問題をあらわしていると思われる。彼の言うところによれば、構造は、共に働く三次元の集合、
空間の三つの次元から考えられた器官に当てはまる。機能というのは、同じ器官が、四次元の集合として、三次元の空間に時間が加わったと考えられるときに適用される。どれだけの次元の共同作業を認めるかによって、当然異なった観察がなされる――しかし、この基礎となる抽象の転換には、「構造が機能を決定する」或は「機能が構造を決定する」かの争いについてなんら正当性のある材料となるものではない。構造或は機能を選んで問題を設定する者は、数多くの観点から集められ、分類される事実から広範囲にわたる疑似問題を解決することになろう。


 実在に最も近づく言語的取り組みとしてベルグソン氏があげているのは、意図的に矛盾する概念を開拓していくことである。彼が言うには、それは実在の全体を与えてはくれないだろうが、自然の出来事の概念化が実在だという仮定からよりは多くのものを与えてくれるだろうし、自然における実在を反映するかのような思考や表現に必ずつきまとう不適切さについて慎重になるよう才気ある人間を促すには十分なほど根本的であろう。定立、反定立に続くヘーゲル的な総合を求める代わりに、出来事の実際の過程というのは、いつでも、必然的に統一されていることを彼は我々に悟らせてくれるだろう。我々は――哲学者として――有機体の同化過程を異化過程とまったく異なったものとして語るべきではないし、両者を結びつけ、代謝作用を捉えることのできる枠組みを見つけだすのに悩むこともない。総合的な言葉がいまだ与えられていないような場合には、相反する言葉を結びつければいいと彼は示唆している(この提案は、空間-時間や精神-身体といった現代の用語法で受け入れられているだろう)。