ケネス・バーク『恒久性と変化』33(翻訳)

成功の検証

 

 中世の思想家は、まさしく我々がいまでも従っている定位の一般的な型を用いているのだと述べる者もいることだろう。彼は、自分の幸福にとって重要だと思われる自然の関係を特徴づける宇宙論をもとに、出来事を予言し、行動を決めようとする。彼らの子孫である我々がいまここにいるという事実から明らかなように、中世人はこうした図式を見いだし、正確にそれを用いたに違いない。人間の成長や増加が教説の正しさを証明しないとしたら、なにが証拠となろう。祈りの満足、民衆的な祝祭、芸術的昂揚によって毎日のように確認されているというのに、その教説が検証されていないとは言えない。実験を切り離す科学技術においては、成功の判断基準は異なっている――そして、個人主義を孤立化の技術につきものと見なし、個人主義が社会に対して非常に悪い影響を与えうることを理解したとき、我々の成功に対する検証は果して満足のいくものなのか問いただす根拠を見いだすことになる。


 確かに、発見のための材料が多く与えられている現在では、検証は容易に、より正確なものとなる。人間が天使だと信じるにたる根拠を示そうとするなら、経験的な検証は薄弱であろう。しかし、我々の検証には従いながら、人間はパラシュートだと力説する者には、屋根から飛び降りるという数回の単純な実験によって、人間とパラシュートの間にある類似性は、相異性と比較して取るに足りないと納得させることができよう。つまり、新たな機械をつくるための類推的拡張は、すぐにその不適切性をあらわにすることになろう(いつでもそうとは限らないが。鳥から飛行機械への類推的拡張は長い間間違っているとされてきたが、最終的には正しいと証明された)。


 いずれにしろ、応用科学の実験室の方法では、基本的文化の有意義な関心の多くが、実用模型がつくれないような領域にあるのだという事実に対して我々の眼を塞ぐことにはならない。検証は、中世の象徴的対応の体系と同じように曖昧なものである。科学のいかなる分野においても、数多くの敵対する分析結果が出ているにもかかわらず、人は科学の客観性を称揚し続ける。我々はこの各主張が入り乱れたバベルの状態を無視し、科学を広い範囲にわたって意見が不一致な科学者たちの集まりではなく、一つのものとして語る傾向にある。そして、類推が実用模型で検証されるようなカテゴリーにおける科学の成功は、類推的拡張によって、その威光が、最も曖昧な種類の検証にしか開かれていないような類推のカテゴリーにも及ぼされる。もし人がある信念をもち、生活していくなら、生き残っているという事実がその信念の妥当性を証明したと見られがちである。というのも、間違った信念が必然的に致命的なわけではない――そして、危険な信念でさえ、危険だと容易に証明され得ないこともある。


 成功の検証が実験で可能な領域でさえ、意図的な関心の制限によってのみ我々はそうした検証を確かなものとできる。例えば、ニトログリセリンの成功は、その一滴が岩を爆破したときに充分な検証がされたのだろうか、或は、爆発を必要とする世界中の社会構造に行きわたったときだろうか。パスツールの実験は、一人の病気を防いだときにその「成功」が証明されるのだろうか、それとも、彼の方法を体系的に拡張して、全人類の血液をすべて汚染することで「成功」が証明されるのだろうか。今日、どれだけの人間がある種のテクノロジーの成功の結果、無益な骨折り仕事や惨めな無職によって駄目になっているだろうか。我々はここで、現在の政治制度の不備によってその主たる部分が脅威へと転じてしまった科学の達成を傷つけようとしているわけではない。我々が示したいと望んでいるのは、単に、成功の検証そのものが検証されるべき検証が極めて重要であるような領域を示すことであり、それは、世界観、文化、道徳、政治、野心、よき生という概念、最終的な人間の目的という考えなどの領域であって、他のどんな時代と比べても格段に優れているわけではないいま働いているモデルを参照することによって我々の類推的拡張の正当性を検証するいい機会なのである。