ケネス・バーク『恒久性と変化』34(翻訳)

関心によって導かれる分類

 

 我々の時代に一日の長があるとすると、それは歴史的心理学的相対性の莫大な記録をもっていることである。こうした相対的姿勢は、詩であろうと実験室であろうと、出来事を無数の観点から特徴づけようとする傾向を助長する。アフリカ探検家、内分泌、上司に残業を命じ続けられている速記者、民俗学、地理学、階級闘争、生理学的心理学的タイプ、パリのカフェでの生活、自堕落な英国夫人と恋に落ちたインドの下層民、マザー・コンプレックス、原始的衝動等々の観点であり、科学者や小説家の因果体系がここでは曖昧に混じり合っている。


 ある分類は他の分類と傾向が食い違い、新たな分類法から生じる配列は他の分類法から生まれた配列と不調和であるが、こうした観点を総計することで、最大限の不調和による遠近法が準備される。例えば、「王女、延臣たち、侍女たち、数頭の豚」と書く者は、豚がこのカテゴリーに属するのは適切ではないので、急落法を行なっているのだと言えるだろう。だが、ここで「すべての生あるもの」と言ったとすると、分類は社交的になっており、急落法は言外の意味に止められており、単一の名称のもとに王女と豚が結びつけられる。


 抽象と類推の過程を通じて、新たなグループ分け、新たな発見がなされるので、分類は発見的方法と言える。例えば、心理学者は非常に偉大な詩人とつまらない詩人とを内向的という根拠に基づいて一緒にするかもしれない。ファシズムコミュニズム、王制のような異なった政治体制は、すべて独裁性だということで同じグループに分類されるかもしれない。或は、ピラミッドと聖堂のように根本的に異なる建築物が、同時性という新たな概念のもと同じグループに入れられるかもしれない。


 哲学者が現実に対する新たな取り組み方を発明したとき、先行者が一緒だと見ていたものを分けられること、あるいは、区別されていたものが自分の体系では結びつけられるとすぐさま見いだすことになる。宇宙はチーズのようなものとしてあらわれることになろう。それを切るには無数のやり方が可能である――そして、自分なりの切り方を選択すると、他の者が間違った場所を切っていることが見いだされるのである。