ケネス・バーク『恒久性と変化』35(翻訳)

類推、隠喩、抽象、分類、関心、予期、意図の相互関係

 

 ある者が一般的に認められている分類とは異なった切り方を試みようとすることは、「趣味のよさ」の限界を引き延ばそうとすることであり、というのも、よい趣味というのは、既に常識による用語法で示されている関係に忠実なものとしてあらわれるからである。分類を推論の新たな領域にまで拡張するときには、それ以前の集団の用法では認められていないような、類推的拡張や言語的発明を見いだす必要がある。例えば、普通の会話でも菜食主義と肉食とは区別されているが、こうした区別に直面した思想家は、類推的拡張によって、同じ区別を文学スタイルや行動様式を記述するのに用いるかもしれない。こうした隠喩的二重視は詩には自然なものであるが、同じ過程が科学的、哲学的分類に存在するとは一般的に認められていない。詩の隠喩も科学者の抽象もどちらも、別のものを使ってなにかを論じている。そして、類推的拡張の道筋は、そのとき最も関心が寄せられているものによって決定される。


 抽象の文字通りの意味は「引きだす」ことである。似たようなひずみが似ていない出来事に認められるときにはいつでも(共通部分を「引きだして」)、抽象によって出来事を同じ場所に分類できる。意味あるものとして我々の選び出した特殊なひずみは我々の関心のありかに依存している。詩人は海の怒りに関心を抱くであろうし、科学者ならヨードに関心をもつだろう。一般的成人の複雑な経験においては、関心そのものが先行する分類によって形づくられる。例えば、A氏はB氏を騙すことに関心を抱いており、それによって最終的には同世代の者たちにうらやまれるような肩書きを得ようと望んでいる。そして、成功の確率、危険の度合い、個人的な適性などの多様な判断によって、ある計略に特別な関心をもっている。関心と分類とは相互に関係しており、一方が絶対的な出発点なのではない――しかし、議論の便宜上、関心の方から出発するとしても、隠喩的類推的抽象の概念を、定位の全領域を覆うまで拡張することができる。


 火傷をおった子供が恐ろしいものとして分類している火を取ってみると、再び火傷しないことが関心事である子供はそれに近づきすぎないようにするだろう。この関心に対応して、火の燃やす力というのは彼の予期では高い割合を占める。予期に関する要因は、また、関心と意図との関係を示唆する。意図も同様に抽象的な要素をあらわにする。例えば、火をおこす意図をもった者は、実際に火をおこす過程に含まれる数多くの特殊な細部を心から振り落としている。彼の意図において思い起こされるのは、過去に火をおこした際の特徴的な側面だけであって、過去に集めた特定の木と結びついた特定の出来事より、漠然と木を集めることを考えている。いかなる教育による行動であっても(過去の経験を踏まえた予期に基づいてなされる行動)、必然的に抽象化がなされている。ワトソンの実験で、子供は毛皮のコートを、ウサギから毛皮の性質を抽象したものとして怖がった――ウサギが不快なものとして条件づけられていたので、毛皮のコートのウサギ性にも同じような性格が与えられていたのである。


 子供が歩くのを学ぶというような全く現在のみに関わるような行為にも、抽象が行なわれている強い疑いがある。子供は徐々に、最も低次元ですべてに共通する身体的バランスを学び、それをある種の調節によって歩くという行為に一般的なやり方で適用する。歩くのを学び、立派に歩行できるようになって何年も経ったあとにも、新たな状況に置かれると、歩くことの抽象性が明らかになる。つまり、床や道路に適したある種の歩き方を学んだのであって、それは険しい山道には適さないものである――或は、船の揺れのなかで歩く訓練をしてきた熟練した船乗りは、平らな地面を歩くときも揺れることだろう。


 結局、平らなところを歩くのに慣れた者が、上り坂を登るときに手を振ることを発見するように、新たな状況に置かれた者は、「類推的拡張」によって異なった文脈からなんらかの工夫をつけ加えることでそれに適応する。これまで学んできた歩き方にはなかったバランスの取り方にまで拡張したのである。その新たなバランスの取り方に特許が取れ、独占できるとすれば、彼は発明家であろう。


 こうした達成には、ある種の鈍感さが存在することも認められる。甲板での適切な歩き方を学んだ船乗りは陸には適合しない。そして、分析、総合、分類、同一性などの語も同じような見方がされるだろう。火を恐れ、例えば、燃えるという性格だけを選んで火を特徴づけようとする者もいる。しかし、酸もまた燃える。それ故、この点から見れば火も酸も燃えるという性質をもっており、同一である――そして、他の多くの重要な点で両者には相異があるにもかかわらず、ある人間は燃えるという性質に従って総合を行ない、分類するかもしれない。そして、関心や観点の性質が変化したとき、新たな同一性で出来事に向かい、再分類化し、異なったクラスにあるものを一緒にし、一緒のクラスにあるものを分けることになろう。


 人間の予期の助けとなる類推や抽象、鈍感さや愚かさの大きな価値について疑いをもつ者には、赤や青になることで酸かアルカリかを判断するリトマス紙を取り、「類推的拡張」によってメッセージを読み取らせてみよう。できることは、通常の気温における液体の反応について分類することであり、それ以上ではない。我々の尺度は、抽象化の図式に従って記録することなので、それ自体が頑固な分類者なのである。かくして、正確で繊細な機器にしても、我々の語彙を単に拡張したものであり、目盛りに従って定義を行なっている。


 我々の感覚そのものが同じように抽象を行なうものであり、出来事を音-性質、熱-性質、視覚-性質等々として抽象化或は解釈しており、ヘルムホルツが指摘するように、我々の感覚機器そのものが出来事をある種の記号に変換する記録機器であり、我々はそうした記号をもとにして生の方向を見いだしている。


 紫外線のように、我々の感覚機器によっては解釈されないような出来事が存在することも我々は知っている。むしろ、そうした出来事は意識的解釈を生みださないと言い換えるべきかもしれない。反応が実際には存在していることは、彼らを通る放射線が意識的に感じたり、見たり、聞いたりする記号に変換されないにもかかわらず、放送局で働く者のなかには体温が上昇する者がいるのを見てもわかる。我々は熱があることから、二次的に放射線の存在を推測できるのである。