ケネス・バーク『恒久性と変化』36(翻訳)

類推的過程の探索

 

 解釈の仕事は、過度の単純化と類推的拡張の二つの過程によって完成する。我々は出来事をある関心にたった観点から性格づけるときに過度な単純化を行なっている――そして、我々は類推によって他の出来事にも同様の性格を見いだそうとする。歴史的な出来事を判断する方法にある大きな難点とは、試行錯誤によって間違った類推の修正が必要なことだが、歴史の広い範囲にわたる不格好なまでの複雑さというのは回帰しないものである。こうした理由から、類推的拡張を駆使して歴史を解釈しようという野心をもつ者は、歴史の要因として回帰するものを強調する。しかし、現実の歴史の複雑さからある種の性質を抽象することによってのみ回帰は認められる。それには独自に形成された関心をもっていなければならない。それ故、歴史的運動の研究においては、対象となる文化の成員なら知っているその文化の特質を壊さなければならない。同様に、成員なら知っている自分自身の文化の特質をも壊さなければならない。それ故、不調和による遠近法は、歴史家や社会学者が自動的に誓約を交わさねばならない見方である。


 過程を研究する現代的試みは、本質を探ることによって出来事を関連づけようとした中世のように、過度の類推的拡張に導かれる可能性がある。例えば、過程という概念は、ある過程が、一般的な語彙においては同一と言えない驚くほど数多くの異なった姿であらわれるという考えを含んでいる。


 我々はドイツ語でSchrecklichkeitと聞く。同じくGrundlichkeitとも聞く。完全性とテロリズム――前者はよい連想に結びつき、後者は悪いカテゴリーに入る。私がそれらを同一の過程の二つの異なったあらわれと呼び、テロリズムは完全性が戦争のカテゴリーに適用された場合の言葉であり、完全性は軍事的戦闘的恐怖の徹底性が職人仕事のカテゴリーに適用されたときの言葉だと言ったとしてみよう。


 或は、英語の外交を無手勝流の哲学と結びつけるとしよう。無手勝流とは過度に正確であることなく、出来事をなるがままにまかせ、あらかじめすべての問題を厳密に考えて臨む代わりに、出来事の過程で生じる予期せぬ新しさに身をまかせて進む政策である。これは外交の理想的な形ではないだろうか。


 だが、こうした類の逆転を試みると、既に確立した言語的概念的カテゴリーの侵犯に直面することになる。GrundlichkeitとSchrecklichkeitの場合で言えば、人は勤勉さにおいてテロリスト的、虐殺において良心的と言うに等しい。或は、成功した外交とはある種の不手際さにあり、混乱状態にあるいまの英国は「外交的」ということになる。こうした類推的拡張を用いると、ガス工場のギャングは敬虔なのに対し、ユダヤ人に新たな意味を提示し、確立された予期や動機に基づく定位に反対して重大な不敬虔、根本的な裏切りに与することをキリストは要求したのだということになる。出来事をそのパターンによって性格づけること、また歴史の初期のように、その本質によって特徴づけることは、単に異なった方向に向かって拡張がなされているに過ぎない。


 確かに、「妥当性」というカテゴリーはいまでは完全に崩壊しており、言葉の「不適切な」移し替えは常に我々と共にある。ある男がポイント1,ポイント2,ポイント3と並べて議論をする――すると別の者は、各ポイントを取り上げてそれを反駁するのではなく、単に「この男はブルジョアだ」、或は「彼はマザー・コンプレックスだ」、「代わりの職業を望んでいるのだ」と言って答えることになる。別の言葉で言えば、関心の精神病質的な要因を認めることで、関心をごく単純に診断し、議論の「正当性」についてはなしにすませてしまうのである。


 訓練による無能力といった非常に曖昧な概念を開拓しようとする我々の提案に従うと、言葉がいまだ名残としてもっている適合性との衝突に巻き込まれることになる。というのも、ある洞察が他の観点から見ると、いかに鈍感なものと言えるかに関心をもつなら、主として物事を良い或は悪い、知的或は愚鈍、これ或はあれと呼び、それに従って対処しようとする日常会話での分類と衝突することは必然的に覚悟しなければならないからである。様々な観点から、様々な方法によってあるものがたまたま名づけられたり、名づけられずに止まったり、称讃されたり非難されたりする過程をたどろうとするないなや、会話において受け入れられている防御柵と必然的に衝突することになろう。


 一般的な言語には抽象や類推が満ちており、同じものに二重三重の名前がつけられている。例えば、我々は敵についてはその頑迷さを言い、味方については忍耐力を言う――或は、他人の率直さを「不注意」と言い、自分の率直さの欠如は「思慮深さ」と言う。そして、一般的な意味での言語は、こうした重要な変化すべての過程をたどろうとは決してしない。一般的な言葉では一つの概念しかないところに二つの概念を提示しようとしたり、一般的な言葉では区別される概念を合わせて使おうとする場合には、当然、言語的性質を人工的に操作することが求められる。


 恐らく、神秘家が良識ある人々をしばしば怒らせるのは、彼らがすべての言葉に隠喩的性質を強調するからであろう。日常的に受け入れられているカテゴリーに対する彼らの姿勢は、いかにそれが「良識」の目から見ると貧弱なものだろうと、それを隠喩的なシンボルとして用いることで、自分たちの非日常的な経験を切り売りするための一律な裏書きにしようとしている。神秘家が、我々の抽象化の技術が扱うことを意図しない経験の領域に関わる限り、鮮明なベルグソン的撞着語法(「甘美な苦み」――「苦痛にして喜び」――「輝くばかりの完全な黒」)を好むことによって、論理的無秩序を意図的に開拓していくことほど自然なことがあろうか。というのも、一度言葉を、特殊で変化しない現実の正確で全体的な名ではなく、単なる象徴化として取ってしまうと、例えば、闘牛を雄の闘牛士と雌の牛との逢い引きであり、観衆は覗き屋だと記したときに、それを「間違い」だと言う判断基準が失われてしまうからである。


 或は、ウォルド・フランクではなくヘミングウェイででもあるなら、流血と虐殺をレンズ磨きや天体観測、或は病巣部分を注意深く切除すること、或はジェーン・オースティンの居間で交わされる挨拶のような繊細な手順を必要とするものとして描き、より厳正な計画的不調和の技術を好むだろう。事実、ヘミングウェイの力の多くは、いまだ手つかずのまま残っている適合、解放という側面をもち自由という精神病質を伴なう人道主義の鉱脈を発見することにある――そして我々が通常憤慨の言葉をあてているようなこの領域の出来事に、熟練した不調和な言葉、もの柔らかな言葉、称讃的な言葉、キリスト教的な言葉を導入するのである。