ケネス・バーク『恒久性と変化』39(翻訳)

マクドゥーガルによるフロイト主義の修正

 

 『異常心理学の梗概』で、マクドゥーガルは、特に、フロイトの用語がマクドゥーガルが最も重要だと考える心的不均衡の要因、即ち、解離を除外していることを根拠に、フロイトの考えを非難している。マクドゥーガルは、ジャネやモートン・プリンスのような権威が、神経症の混乱を解釈するのに解離が最も重要で、最も有効な説明原理だとみなしているのに、フロイトがまったくこの概念を使わないことを注目に値することだとしている。彼が言うには、彼の知る限り、この言葉はフロイトの主要な著作には一度もあらわれていない。


 マクドゥーガルの理論は、その全体がこの除外された概念を強調することに基づいている。同国人である神経学者のシェリントンと同じように、彼は統合の必要性を強調するが、それは単一の主導原理、或は目的で、それによって互いに多かれ少なかれ争いあっている諸傾向を協調させることができる。彼はそうした小さな争い合う傾向をライプニッツに倣って「モナド」と呼んでいるが、それらの間にあらかじめ確立された調和のないところがライプニッツの用法とは異なっているようである。事実、マクドゥーガルによれば、健康な心的調節には、こうした調和の強制的な確立が必要である。小モナドはmonas monadum、「自己愛的な原理」に従うことを強いられている。この自己愛的原理、或は「主導原理」は様々な争い合う下位人格を従える全体的な一人格である。


 統合の例として、マクドゥーガル大英帝国を挙げ、分離の傾向を例証するものとしてアイルランドの反抗を挙げている。彼は個人心理学の問題の鍵を多重人格にあると考えており、そこでは個人の幾つかの側面が激しく争い合うので、異なった人格のシステムができあがり、複数の自己に苦しむと感じられる。彼は様々な分裂した人格の例を挙げているが、最も有名なのはモートン・プリンス博士の患者であるミス・ボウシャンプである。彼の考えによると、我々はみな分裂した人格をもっており、催眠の度合いによって異なった人格のシステムを呼びだすことができ、我々の夢の内容は正常な人間においてさえ異なった人格が働いていることをあらわにするものであって、夢にある連続性の切断は一つの人格から別の人格への移動をあらわしている。


 こうした下位人格は正常な条件では一つの理想的な人格によってまとめられており、それは自己愛的原理によって形づくられた至上の命令に従って協同させられている。しかし、ストレスや疲れがたまったときなどには、覆い隠されていた人格が非常に強い力を働かせる機会をつかみ、人格の分裂を招く場合もあって、一つのページを二つの人格で読み、一方は読むのが早く、ページの終わりまで先にたどり着いてしまうのがわかるときさえある。彼が言うには、争い合う人格というのはまったくアイルランドのようであり、常に抑圧のもといきり立っており、第一次世界大戦の帝国の混乱に乗じたときのように、異なった人格を主張し、独立を要求するのである。


 マクドゥーガルはこうしたことを単に動機づけの理論を例証するために述べているのだが、ある部分、彼の理論の枠組みそのものを煽り立ててはいないだろうか。帝国の政治手法との類推は英国で苦しんでいる者の治癒にこそより有用ではないだろうか。もし個人の動機の枠組みがより大きな解釈の枠組みの一側面でしかないなら、英国人の混乱は帝国全体の構造にある意味を参照することによって正常化、或は社会化されるのが自然であろうからである。帝国によって形づくられた動機の理論を患者に与えるなら、彼は個人的な定位を一般的な政治的定位に結びつけ、私的な敬虔さを社会的な敬虔さに連続するようつくりかえているのではないだろうか。


 この「帝国主義的な」秩序の感覚を更に例証するかのように、「感情への訴えかけ」という表題のもと、彼は、新たな意味をもたらす場合、ニーチェが意図していたあらゆる価値の再評価といった絶対的な意味での「回心」を試みるべきではなく、患者が手つかずのままにしているごく普通の基準に訴えかけるべきだと警告している。医者は患者を根本的に作りかえようとするべきではなく、過去の性癖をなんでも足がかりにして、古いシステムを完全に捨て去ることなく、堅固な帝国主義的装いのもとに組み入れ、それが課す新たな秩序の目的に役立つよう作りあげるべきである。


 哀れなニーチェは、支配するか崩壊するかしかないドイツ風の徹底性でもって、あらゆるものを根本的に変化させようとした。彼の回心の枠組みは、治療の過程を通じて「やりくり算段」をつけようとする外交的な英国人の推奨となんと異なっていることか。我々はマクドゥーガル教授の理論を中傷するためにこうした指摘を行なっているのではない。逆に、なぜこうした理論に実際に治療効果が期待されるのか示そうとしているのである。というのも、国家の政治的パターンに従って「主導的な人格」を再建することで、彼は患者を明らかな集団的精神病質につなぎ止め、その新たな心的構造を社会化しているからである。


 我々の示唆が行きすぎではない証拠としては、デューイ教授の『経験としての技芸』での心理学的用語の起源についての議論を思いだせばよい。彼は、心のパターンを記述する言葉は、国家のパターンからの類推から取られていると言っている。「それらは最初、社会の各部分や階級に見いだされる差異を定式化したものだった。」その完璧な例としてプラトンが挙げられ、プラトンの魂の三分割は、当時の共同社会で観察された状況から借りられたものだとされる。プラトンがここで意識的に行なっていることを、多くの心理学者たちは無意識に行なっており、彼らの心の記述は、彼ら自身は純粋な内観によって得られたと思いこんでいるが、実際には彼らの社会に観察される差異に基づいているのである。プラトンは、とデューイ教授は言う、心の感覚的で貪欲な部分を商人に、「生気にあふれた」部分を市民戦士に、「理性」を法律制定を任された集団になぞらえたのである。


 我々の観点によれば、なぜマクドゥーガルが極めて重要だと考える分離という要因が、治癒の可能性を台なしにすることもなしに人間の動機づけの理論から完全に除外されうるのかも説明されるだろう。フロイトは長年にわたり、帝国の衰亡に順応してきた人々に向かって書いた――恐らく、彼は、「シュトラウス・ワルツ風の精神病質」とでも言えるものに向けて書いたのである。それ故、彼の再定位の仕掛けは、彼の集団固有の定位にある差異に対応し、異なった枠組みをされることになったのだろう。