ケネス・バーク『恒久性と変化』38(翻訳)

第五章 世俗的回心

 

精神分析の基礎

 

 第二部を終えるにあたり、解釈と治療とが最も明らかに合流する領域を研究すべきだろう。良き知らせを世俗的にもたらすもの、精神分析である。我々の観点からすると、精神分析は、単純な非宗教的回心の技術として扱える。それは、患者の悲しみや混乱の根っこにある敬虔の体系を分解するような新たな遠近法を与えることで治癒をもたらす。それは不敬虔な合理化であり、患者の苦痛に満ちた動機の語彙に取って代わる新鮮な動機の語彙を提供する。その科学的用語は、悩みの非科学的な性質と全く調和しない。患者の不幸のもとにある祭壇に故意に不敬を働き、生活様式や禁忌が命じることを特に踏みにじるような語彙を選択することで、問題の性質を完全に変え、解決があるような形に言い換える。それが治癒効果をもたらす限り、新たな科学的定位の威信に訴えかけ、痕跡として残る宗教的定位の苦痛に満ちた影響を祓うという結果になろう。


 キリスト教が回心において最も重視する高潔な信仰でさえ、善ではなく信念に基づいている。それ故、精神分析の見者によって巧みに誘導される世俗的な再生において、混乱からの回復の過程が、知的な信念、原因、目的、予期に関する語彙を転換することと密接に絡み合っているのを見ても驚く必要はない。理論(語源的に言うと、なにかを見ること、或は眺めること)は医者の技術ばかりでなく、患者の反応でも大きな役割を果している。精神分析は、患者に苦境をもたらした古い合理化の代わりに、新たな合理化をもたらすものだと言える。患者は、その敬虔な献身によって、悲惨さを祭壇とした一貫したネットワークを、その外部には精神病の基本となるものを完全に維持するための構造を徹底して打ち立てている。だが、挫折によって新たな意味の必要が生まれ、精神分析医にも、精神病のなかの捕まえどころが与えられる。というのも、精神病というのは、精神病のある側面に訴えかけることによってのみ治癒されるからである。治癒は病気と顕著な親和性をもっていなければならない。効果的な薬というのはすべて潜在的な毒薬である。


 怒れるエホバに取って代わる、より心優しく、キリスト教的な合理化として推奨されるフロイトの偉大かつ特徴的な発明は、六つの異常な傾向に関する説だった。それらはまさしく不調和による遠近法の正確な定式化であり、拡大の正反対にあると言える。つまり、下方に向けての回心であり、縮尺の縮小である。この下方へ向けての回心という仕掛けは、実際逆説的なものであった――というのも、表面上は、この仕掛けはまさしく正反対の種類のものだからである。それは、緩和の原理というよりは普遍的な中傷であり、あらゆる人間が本質的に倒錯者なのだと言う。あらゆる人間が、とフロイトは患者に保証する、自分のうちに、その思考、会話、行動のシンボリズムのなかに、六つの異常な傾向をもっている。自己愛、同性愛、サディズムマゾヒズム、近親相姦願望、露出願望である。


 この考え方には、非常に価値のある二つの側面がある。第一に、この六つの用語のどれかに還元され得ないような人間の関心のあり方はまず想像することが困難である。例えば、異性愛的な関心は、会話のやりとりの微妙なところを探っていけば、サディズム的かマゾヒズム的になりうるだろう。このとき、いかなる反駁も断ち切って、自分がサディズム的でもマゾヒズム的でもないと証明しようとする者がいるなら、彼は明らかに自己愛の徴候を示していると、或は露骨に無関係を示すことで目立とうとするねじれた露出趣味や、いたるところに彼の心を引きずりまわす近親相姦願望に秘かに蝕まれているのだと疑われることになろう。「六種の異常」が他の用語同様心に潜むパターンを指し示すことを認めれば、任意にどんな仮定もつくりだすことができる。非常に特殊な装いであるが、こうした包括的な用語は、あらゆる行動を一網打尽にできるという顕著な美点をもっている。「非合理的な」振る舞いで混乱しきっている者でさえ、「論理」の領域に即座に連れ戻してくれるような動機づけの図式を与えられるのである。


 このことはフロイトの考え方の第二の偉大な美点に通じ、暗示療法に関連する。もし六種の異常が誰にでも当てはまるのなら、誰でもが異常であり、異常であることが正常だということになる。かくして、マーストンが主張するように、六種の異常についての説は、この世紀の反宗教的傾向に応じ、技術的臨床的な用語を取っているが、古くからある教会の原罪の教えの再発見と思われるのであって、原罪説はカトリック的合理化の全盛期を通じ長い間治療的価値を証明してきたのである。人間の生得的な善という説に基づいた進歩や、進化を通じて完璧になっていくことが信じられた偉大な世紀において、フロイトは進歩がなんらかの形でヒステリーに追い込んだ者たちを、古い原罪の説を作りなおすことで治療した。汎性欲主義というフロイトの枠組みは特に効果的に思われ、というのも、当時性的な側面が既に定位において顕著になっており、性的な徴候が状況全体の核にあり、その他が単なる偶然の副産物であると容易にみなされたからである。


 ここでの目的はフロイト理論を反駁したり、そこから出た様々な学派のなかからどれかを選択することにはない。我々が関心をもっているのは、それらすべてに特徴的に思える顕著な回心の技術を指摘することにある。それらは主に二つある。不適合で不調和な用語によって患者の悩みを下方へ向けた回心に導く――そして、患者が新たな動機の合理化を手に入れるまで、代替される用語法を積極的に発展させる。


 最初の点に関して、不敬虔という目的に最も与っているのは、座って問題について話し合うという行為である――どの学派もこの臨床的-告解の治療的価値を強調しているようである。フロイトアドラーユング、リヴァース、マクドゥーガルはみな、それぞれの体系で、こうした実践の必要性と効果を説明している。本質的に、専門的で、冷静で、超然とした視点で、献身、不安、沈黙(神秘家同様作家たちも蓄積された沈黙の力を証明している)の強い個人的な敬虔さに取りまかれた問題にあたることがまさしく不調和の根にあたる。


 ヘーゲルについて、彼は古くからの哲学の謎を単に再定義することによって、異なった言葉で取り組むことで解決しようとしており、問題は解決されたというよりは分解されたのだと言われてきた。歴史も同じようなことをしており、古い戦場をひとところにまとめておき、新たな関心に従って我々は様々な場所に飛び移っていく――同様に、多くの個人的な苦境というのは、直接的に解決しようとするよりは、完全に無視するほうがうまく扱える。それらを抑圧するという意味ではなく、しぼむにまかせるという意味である――問題に対しては同情的でありながら、その重大性についてはなんら心を動かされない有能な専門家の雰囲気以上にうなだれた頭と沈黙を前にして生じる美しさに対して破壊的なものはない。


 ここに、すべての精神医学の方法に固有な根本的不調和、或は不敬虔がある――実際、敬虔に苦しむ者のなかにはそれに抵抗する者もいる。かくして、フロイトは患者の暴力的な敵対的態度に頻繁に言及し、アドラーはストイックに、分析家は患者の悲嘆に満ちた詩に対するこの不敬虔な態度の報酬として一発食らうこともあるかもしれないと主張する。というのも、患者の悲惨さの中心にある祭壇を冒涜したときには、当然怒りに出会うことを予想しておらねばならず、というのも、その祭壇に彼は最も敬虔に仕え、そこで自尊心の織物を織り上げ、それを定位の中心としてすべての動機づけを発展させ、この完成された作品に適合するかどうかで様々な価値が強調されたり排除されたりする、あらゆる熱情が注ぎ込まれた構造物であり、たとえそれが彼の悩みの原因であったとしても、患者がその建築物を打ち立てるまでには、それは悩みに対する唯一の防壁となっていたのである。