ケネス・バーク『恒久性と変化』40(翻訳)

誤称による悪魔払い

 

 なぜ患者は自分の混乱の本質や原因を語られることが必要なのだろうか。本当に、名づけることによって悪魔を追い出せるのだろうか。不調和による遠近法という考えは、誤称によって悪魔を追い出すことを示唆するだろう。名づけること自体ではなく、名づけることに含まれる下方に向けての回心が働くのである。部屋の片隅にあるぼんやりした物影を恐れ震えている子供がいるとする。ある人物が子供が怖がって見ている方に、不敬虔に進んでいく。洋服掛けから古いコートを取り、「ごらん、ただの古いコードだよ」と言ったとする。子供は思わずくすくすと笑い出す。この人物は子供が怖がっている対象を名づけたのではないだろうか。逆に、子供の貴重な定位の本質からすれば、完全なる誤称をしたのである。その場合名づけるとは、「忌まわしい怪物め、ぺちゃぺちゃとうるさい悪魔め、向こうへ行け」と叫ぶことで、そうすれば、この片隅は恐怖の中心であり続けるだろう。悪魔は回心によって、不調和な命名によって、万物のなかでまさしくそれではないもの、つまり、古いコートと呼ばれることで追い払われる。


 誤称による悪魔払い(「組織化された悪趣味」)という考えは、また、精神分析の治療にある様々な争いを説明する。例えば、アドラーフロイトとはまったく異なった枠組みによって治療を考えており、性愛ではなく戦いを強調する。患者は子供の頃の劣等感の印象を補償しようと苦しんでいるのだと彼は言う。これもまた、非合理的だとされる振る舞いの合理性をあらわにするのに非常に価値のある考えである。第一に、誰でもなにかを愛したり憎んだりしなければならないのは明らかであるから、それが山とか大陸であったとしても、なにかに劣等感を抱くことは避けられないように思われる。


 アドラーのテクニックは、患者が激しく怒り出すまで、患者の関心の相反する側面を明らかにし続けることにある。そして、アドラーはその怒りを正常で予期されたものと受け入れ、慎重に不調和な対応をすることで怒りを崩していく。それ自体下方へ向けての回心の方法として示唆的なこのやり方は、患者の関心の焦点になっているものが実際には興奮するほどのものではないことを明らかにし、患者の悩みの中心にあるものとは「似つかわしくない」異質な語彙を導入することによって支えられている。(1)

 

(1)宗教的な合理化が崩壊してからあらわれた様々な個人主義的な治療の弱さは、結果的な社会化が部分的なものに過ぎないことから生じると思われる。新たな意味の織物はそれほど豊かではなく、社会全体からの十分な援護を受けておらず、実質的に共有されるものではない。それは全体的であるよりは補償的である。

 

 誤称による悪魔払いの葛藤は、回心の問題に心を奪われていたニーチェスイフトといった作家たちの狂気ともなんらかの関係をもっている。彼らはその精力を上方へ向けての回心に注ぎ、拡大への一本道を進んでおり、抑えて書くという補償のないまま誇張した書き方をした。ニーチェの関心は悲劇の壮大さに向いており、彼に典型的な通常の笑いに対する分裂症的嫌悪感は、グロテスクで冷笑的なユーモアだけしか彼に許さなかった。結果として、彼は孤独のうちに生き、雄大さ、広大な歴史的展望、冷たく不毛な山の頂上から眺められた遠景のうちで思考し、その近づきがたい形象は『ツァラトゥストラ』で悲劇的に完成するに至ったが、この可能な限りの崇敬の念が注ぎ込まれた本の深い敬虔な性質が、彼の根深い悲惨さの上に打ち立てられた聖堂に栄光をもたらすことを可能にしたのである。だが、彼は補償の必要を感じていたようであり、その辛辣な作品を繰り返し「幸福な科学」として差しだそうとしたのである。これと同じ感情は、『ツァラトゥストラ』の「酩酊」の場面の謎めいた昂揚に見られ、想像上の酒宴とほんの僅かの酒で長い時間精神を苦痛に満ちた混乱に巻き込むことのできる男との親好が描かれている。


 スイフトについて言えば、彼もまた、下方へ向けた回心の技術を常に探しており、想像上の怪物を古いコートだ言えるなんらかの緩和剤を求めていた。こうした必要を感じていた証拠として、巨大なガリバーと小さなリリパット、小さなガリバーと巨大なブロブディングナブ人という単純な関係の逆転を見られないだろうか。しかし、彼の方法の真の本質はその「総合」にあらわれている。不作法なヤフーに洗練されたフイヌムである。この三つの関係を見てわかることは、どれだけ身体の寸法が逆転したとしても、彼らはみな根本においては同じだということである。人間の卑劣さが拡大され、貪欲さ、無知、下品さ、不実さなどが形象として強調される。結果として、スイフトは怪物のなかで生きることになった――そして、怪物のなかで生きるとは、地獄の縁で生きることである。


 スイフトは、コールリッジが我々の目的と合致した辛辣さで述べたことに従えば、「Anima Rabelaisii habitans in sicco――乾燥した場所に住まうラブレーの魂」である。というのも、まさしくラブレーの方法は二つの方向、上方へ向けての回心と下方へ向けての回心とを活発に行き来する最上の例であり、いま大食と放縦を通じて教会の「精神性」に向かうと思えば、最も騒々しい人間の本能をその高貴さに「投影し」、思弁的想像的に姿を変容させ、美徳に潜む好色さだけでなく、まさしくその好色さから生じる広範囲にわたる悟性をも示してくれるのである。