ケネス・バーク『恒久性と変化』42(翻訳)

回心と連続性の法則

 

 回心は通常、「段階的な連続」によって行なわれ、我々は一段一段、その要因が通常の言語によって承認されている出来事から、あらかじめ認められているわけではない出来事へと移っていく。思想家が結論にいたる連続性を確立しようするとき、連続の両端が間になにも介在することなく、直接に並べられるなら、唐突で逆説的に思われるだろう。例えば、そのハーモニー理論において、アーノルド・シェーンベルグは、古典音楽の方法から自分の採用する方法へと一歩一歩我々を誘い――その歩みに従っていけば、気づかぬうちにその作曲論理が一般的で明らかな領域から、歩みをともにしない者には混沌とさえ思える音の領域に緩やかに向かっていく。理想的な勾配は物理学者の記録にあって、温度計を読み取ることで、水が氷と蒸気のように質的に異なる物質へと変化する量的な臨界点がわかる。心理学の領域では、こうした勾配はより複雑で曖昧である――しかし、連続性の法則は動物心理学と異常心理学で明らかに仮定されており、診療所や実験室で明らかになった不安や訓練の働きを認め、それを正常な人間生活の基本的な過程にまで敷衍しようとする。我々はこの連続性の法則を敬虔の扱いにも適用し、宗教(敬虔の存在が言語的に認められている)から街のギャングの慣習(一般的に敬虔とは無関係と思われている振るまい)を段階づけようとしている。


 人間の本性を理解する手段として、この方法の顕著な欠点とは、それが臨界点を無視してしまうことにある。動物や異常心理学で認められた要因が正常な人間生活で認められることはあるかもしれない。しかし、温度計の正確さでもって、正確にどの段階において経験の質が変わるのか言うことはできない。水、蒸気、氷がみなH2Oだと示すより、H2Oがこうした意味のある変化を遂げるときの温度を発見し読み取るほうが重要である。人間の経験は本質的に量的なものであるから、臨界点を確定できないことは文句なしに重大な失敗となる。心的な出来事において、複雑さが量的に増大することは、水と氷のような質的にまったく異なった変化をもたらすことがあるかもしれない。起源によって物事を考えることを拒否した前進化論的な考え方の根拠は、質的変化をもたらす臨界点を確定できないなら、そうした起源の考え方は実際的には貧弱に過ぎるという感情に基づいている。これはまた、神学者たちが、例えば、マルクス主義精神分析による宗教の起源の説明を受け入れることを拒む根底にあるものだろう。


 そこで、連続性の法則に従い、選択のすべての幅を収めるような勾配の一例をつくってみよう(回心のテクニックを使いながら)。『自然と生』のなかで、ホワイトヘッドは「哲学は驚異の念の産物である」と言っている。ヴェブレンは哲学的、科学的考察の起源を「無駄な好奇心」としている。さて、無駄な好奇心の調子を一段階上げると、純粋で単純な好奇心を得ることになろう。好奇心を一段上げると、関心を得る。関心を上げると驚異の念を得る。驚異の念を上げると崇敬となる。更に不安、恐れ、憂慮となる。かくして、上方へ向けた回心によって、我々はヴェブレンの定式からホワイトヘッドを経由し、「哲学は恐怖の産物である」と主張するにいたる。


 我々の連続体にある陰鬱な色合いは、科学的な思考の憂鬱症的要素を示し、かつて星を見ていた者が実際に望遠鏡を巡らすにつれて不安に襲われ、「空に穴が開いている」と言った理由を説明することだろう。実際にはそんなことは言わないかもしれない。空はいまだ完全な形であるかもしれない。彼は単に星の背後ににじむ暗い星雲を見ただけかもしれない――どちらにしろ、我々の考えを引きとどめるものではない。恐怖の縁にまで来ている彼の不安、それが我々が例としてあげた連続体に関連している。また、リヴァースは、患者はその症状に夢中になることによって病気を甘んじて受け入れられるのだという事実を述べている。彼はこの調節をヒポコンデリーと呼んでいる。こうした要素は『ハムレット』、ヨブ、伝道の書、エレミア書、エリオットの『荒地』に明らかに認められる。「我々は治療策を提示するのではなく、社会の難点を診断し、事実と向き合うだけだ」と主張する科学者にもこうした要素は認められないだろうか。


 更なる拡張も想像できる。例えば、下方へと転回し、無駄な好奇心から遊びへと進み、シラーに従った十九世紀の多くの理論に顕著な選択を得ることになる。或は、恐れから脇道へ逸れ、恐れが自己防御の必要を示唆することから、連続性を防御へと伸ばすこともできる。防御(或は戦闘)は勇気或は臆病に二分されうる。こうした勾配に沿った我々の選択肢は次のようになる。

 

哲学は遊びの産物である。
   無駄な好奇心の産物である。
   好奇心の産物である。
   関心の産物である。
   驚異の念の産物である。
   崇敬の産物である。
   不安の産物である。
   恐れの産物である。  或は防御(戦闘)の産物である。
   憂慮の産物である。
   恐怖の産物である。  或は臆病、勇気の産物である。

 

 こうした系列を完成させることによって、自動的にどの点が全体の本質なのか選択する手がかりが与えられるわけでないことは認めておこう。系列の選択というのは、通常、その人間の定位から、或はその系列が満たそうとしている特殊な目的から生じる。我々は既に、下方へ向けての回心に、治癒に役立ち、選択に影響を与える治療的な理由があることを認めた。しかし、上方へ向けての回心にもある程度治療に役立つことがあることを認めるべきである。例えば、驚異の念は、もし遊びを上方へ向けて転回し、通常の意味合いを越えた概念にまで性急に拡大しないなら、一般的な基準からして遊びよりも身だしなみのいい言葉である。また、その一般的価値観において、恐れと臆病との選択を避けようとする人間は、防御か勇気かの選択に煩わされることはないだろう。勇猛な戦士であるニーチェなら、防御のもう一つの側面、つまり戦闘を好んだだろう――喧嘩することから論理が発達するというピアジェの調査も、この選択に幾許かの正当性を与えてくれるように思われるだろう。


 複雑な心的構造の源を見つけだそうというもう一つの興味深い試みは、神秘主義的文学にあり、そこではしばしば強迫的な深淵のイメージや、恐ろしい内的な裂け目(エリオット「我々はうつろなる人間」)、「地理的な」場所や底なしの地獄の穴によって言語化されることもある距離、分離、眩暈の感覚などが繰り返される。このイメージは、脳に関係したなんらかの神経的な解離によって生じうるもので、「自閉的な」タイプによくあるが、完全にはっきりと理解されているわけではない。いずれにしろ、こうしたイメージは、星々の空間の驚くべき描写によってミルトンの叙事詩にも強くあらわれている――そして、ミルトンは、詩における称讃と散文における悪罵を右手と左手にたとえて区別したのだった。


 現代の神秘的詩人であるハート・クレーンは、主要なシンボルとして橋を選択することで、似たような深淵の感覚をあらわしているように思える。社会的には、同性愛的傾向と異性愛的傾向の不運な葛藤に彼の分裂が見て取れる。海の真ん中の巨大な深淵に身を投げることでこのシンボリストが、象徴的に生を終えたことは偶然の一致以上のなにかがある。いずれにしろ、純粋に主観的な深淵の感覚が、実際に高いところに登り、そこから見下ろし、なんとか克服できる事実の経験の領域に移しかえることで、下方へ向けての転回が為されることは考えられる。こうした過程の治療的効果は、我々が登山の描写に感じるほとんど神秘的な高揚と関係しているのかもしれない――逆に、飛行に対する熱狂の背後に「深淵のモチーフ」を探ることも正当化されるかもしれない。