ケネス・バーク『恒久性と変化』43(翻訳)

第六章 意味と退行

 

純粋な、或は混じりけのない反応

 

 敬虔が単に対象との類推だけでなく、状況や関係との類推に反応するのだという考えは、精神科医が心的苦痛の顕著な一例として認めている退行の現象になんらかの光を投げかけるかもしれない。強烈な経験というのはある側面において退行的であるということから始められる。それは複雑な大人よりも単純な子供により特徴的である。成長すると、我々の経験は通常混じり合い、反応の範囲がより限定されていた子供時代の純粋さが欠けている。他方において、もし昔の刺激を取り戻すことができたなら、昔通りの反応があらわれたところでなにか驚くべきことがあるだろうか。この観点からすると、強烈な反応は病気ではなく、ごく正確だとも考えられる。


 スクイブ氏は非常に穏やかで寛容な男で、ユーモアも思いやりもあり、恨みを心に抱くようなことはなく、人類の運命を憂慮し、接する人たちには親切を惜しまなかった。しかし、そんなスクイブ氏に疲れ切っているのに眠らせない責め苦を与えたとしよう。こうしたことが二、三時間も続けば、彼は退行の権化となり、野蛮な獣になるか、悲しげにむずがる子供となるだろう。さて、スクイブ氏がたまたまある種の経験に価値をおいており、その結果、より巧妙な形でではあるが、まさしく同じような状態に追いこまれるとしよう。彼にとって存在する意味には、自らがいる状況、疲れ切った囚人を徹底的に悩ませ続ける中国の拷問のように、安息を巧妙に掻き乱す責め苦の状況が含まれている。彼の定位に従うと、ダモクレスの剣の下に立つこと、ベレロポーンの手紙をもたされること、空腹のときにバルマク家の饗宴のように役に立たない紛いものを供される覚悟をするものだとしよう。もしこうした状況でなんらかの原始的な反応が生じたとすると、我々が実際に扱っているのは解釈に関連した知的ななにかであり、その感情的な反応(恐怖、復讐、虚脱の原始性)とは彼が直面する状況の意味に見合ったものではないだろうか。


 合理的なものが感情によって形づくられるのを認めることにおいて、精神分析は非常に役に立った――しかし、その発見は、一度合理性が生じ、形を与えられると、それ自身の要求を出し、感情的反応がするべきことを代わってすることになる。例えば、生まれて初めて銃を向けられ、撃たれてもいないのに怖がることには高度に知的な備えが必要とされる。もしそうした状況で著しく感情的な反応を示すとしたら、まさしく彼がその道具に与えた意味によるものであり、道具自体の「ありのままの」状態とは、砲身にとまったバッタにとってそうであるように中性なものである。しかしながら、意味の連鎖によって、それは最も原始的な種類の行動を引き起こす純粋な刺激になりうるのである。かくして、合理的なものをもともと形成する要因は感情だと認めるとしても、そこからあらゆる合理的なあらわれが感情から発する単なる燐光と考えるべきだと一足飛びに結論することはできない。代わりに、我々の記号の解釈は、正しいにしろ間違っているにしろ、最も強い感情を引き起こしうると言える。


 出来事の合理化は純粋に感情的な検証(快、不快、中間的)から生じるという疑わしい事実は、一度確立された合理化の構造の働きを説明しない。人は避難所として家を建てるかもしれないが、家を建てるために手に怪我するかもしれない。常に起源へ立ち戻ろうとする傾向は、手の怪我は避難所のために負ったということにもなろう。出来事の性格づけは、確かに感情を考慮に入れることに基づいている(子守が赤ん坊の要求や望みに答えることを通じて愛らしく思うように)。しかし、純粋に派生的な要因が入り込むことも理解しなければならない(誰かが哺乳瓶を取り上げようとするのを察して赤ん坊は泣き叫ぶかもしれないが、この感情的な反応は全くの解釈の誤りであり、「脅威の原因」は哺乳瓶にミルクを入れることであるのかもしれない)。


 かくして、我々の定位が感情から生じるとしても、今度は定位が感情を呼び起こすことがある。別の言い方をすれば、意味と刺激とが一つになる――そして、もしある刺激が正しいにしろ誤っているにしろ、危険な性格をもっているなら、危険に対する反応がなされるだろう。我々は危険を避けるように人を説得することはない。我々が言えるのは、ある種の状況が危険であり、それを避けるのに間違った手段を使っていると説得するだけである。危険の刺激と恐怖の対応とは一つであり、対応を取り除くためには、刺激を再定義しなければならない。(1)

 

(1)完全を期するために言うと、意味と感情との関係を議論するには、内分泌学のような科学で示されている精神-身体の平行関係についても十分に考える必要がある。私が薬物常用者の調査をしてわかったのは、知的な解釈と「身体の麻薬工場」(内分泌及びその神経経路)が分泌するものの関係は次のようになっている。恐怖のような反応は状況を危険だと解釈することから生じる。この恐怖反応は身体内の分泌を促し、それが極度の覚醒をもたらしうる(というのも、警告は生物学的に、我々の防衛機構の一部であり、まさしく、恐怖のしるしと解釈される事物や状況に対して我々自身を守る最も有効な助けとなるだろうから)。もしそうした覚醒が長引くと、消耗が危険のしるしとして解釈される新たな要因としてつけ加わる。

 


 さて、過程を逆転して、内分泌の状態から始めると(身体的な操作のみで生じることも可能である)、我々は警告の状態にある有機体を発見する――そして、極度の警告とは危険に対する装備の一部なので、それを受けた者はいまの状況を危険な状況として解釈することになろう。こうして、内分泌の混乱によって、それがなかったら(例えば鎮静剤によって一次的に取り除ける)そう解釈されなかったであろうが、外部の出来事に恐怖の要素を認めさせることもできる。


 しかし、精神の曲がりくねった路においては、危険と恐怖との単純な相互関係は、折り返し地点を差しはさむことによって大きく変化する可能性があることも覚えておくべきである。というのは、慰めも、恐怖同様危険のカテゴリーに多く関わるからである。それ故、覚醒というのは、眠れない苦しみを仕事へと変える科学的、宗教的、詩的不眠のように洗練された慰めの形へ向かうこともあるかもしれない。

 

 『意志の表象としての世界』で、セネカのvelle non disciturに賛意を表した後で、ショーペンハウアーは、本能に優先権を与えているにもかかわらず、我々は原因の存在よりもそれに対する解釈によって動かされるというスコラ哲学の見解に賛成している(causa finalis movet non secundum suum esse reale;sed specundum suum esse cognitum)。次に、想像の状況でさえも現実として働くことがあり得ると警告している。「例えば、ある男は立派な行動をするごとに百倍の報いがあると固く信じており、この確信は長期にわたる手堅い投資と同じくらい確実な結果をもたらすとする――すると彼は、エゴイズムから慈悲深くなることもあり得るわけであり、また別の観点(Einsicht)からすると、エゴイズムから貪欲になるかもしれない。」彼はまたスピノザにも言及しており、『エチカ』の関連する箇所を挙げているが、そこには「意志と知性は同一のものである」とある(volunatas et intellectus unum et idem sunt)。同様に、可能ならショーペンハウアーよりもきっぱりと意志の哲学を主張したであろうニーチェは、意志表現を導く意味の演じる役割を認めることにおいて知性を尊重していた。


 この点については、極端な合理主義者と極端な主意主義とは一致する。そこで示唆されている可能性は、異常な振る舞いにある原始的、退行的要素は、正常な人間が出来事を同じように解釈したとしたら同じように引き起こされるものだという意味において、正常と呼べる。反応がより正常だというのは、正常な人間がしるしから自身で読み取る現実の或は想像上の安全性から生じる。


 解釈の誤りは、ある種の人間にある短気さや復讐心などと関係することもあろう。知識は十分にあるにもかかわらず、復讐心といった反応はなにか人間の特殊で卑劣な性向、異常な悪魔的部分が姿をあらわしているのだと感じてしまう傾向がいまだにある。だがどんな正常な人間も、危険にさらされれば、復讐心をもつ――それ故、悪意に満ちた過剰な復讐心とは異常なほど多くの状況を危険と解釈してしまうことからきているのかもしれない。彼は様々なやり方で脅かされている。ある発言は仕事を得る機会を損なうもののように思える、あるものは家族の評判を落とすものであり、ある表現は彼が大いに重きをおいている価値を馬鹿にしている、等々があって復讐心が生じるのである。復讐心のような特徴は容易に生みだされるという事実はつけ加えておくべきで、実際に危険な状況に絡み取られ、更に復讐心が呼び覚まされることになれば、「祭壇」を巡る外向き内向きの職務に見られるような悪循環に陥るのである。


 退行という現象は、より明瞭にプルースト的敬虔と結びつけられる。ある新たな状況が生じ、それがもともとあった特徴的な経験と顕著な類似性をもっているために、その経験のときの情緒的な性格が再び呼び覚まされるとき、既に退行は始まっている。この過程は、近所に火事があったときには近所中が過去に見た火事の話をし、今年のクリスマスが昔のクリスマスを呼び起こすのと同じである。


 例えば、思春期の孤独な時期をある種の行為、窃盗、切手収集、匿名の手紙を出すことなどに紛らわしていた者は、成人になってからの孤独にも「まさしく」思春期の頃の強いイメージがその考えにしみこんでいることだろう。強い感情のもと退行が起きるのは当然のことであり、顕著な経験というのは一般的に生涯の早い時期に起こり、まさしくそのときの経験に対する備えのなさがその経験をより純粋なものにするのだが(純粋な喜び、純粋な恐怖、信頼、希望、驚き等々)、成人は通常、新たな状況に対し、複雑に絡み合った感情で重層的な反応をするのである。


 この観点から考えると、退行というのは言葉、思考、雰囲気のシンボリズムをこえて、連結を明らかな行動そのものに持ち込むこととほとんど変わらない。もし新たな孤独が先取事項の核にまでなれば(彼の「誓い」が「修道院の壁に閉ざされている」ことでもあれば)、彼の退行的な形象は、恐らく実際に初期の行動を再開することへ移るだろう。もしそうした行動がたまたま犯罪に関するもので(盗みのような)、敬意を払い自らが属する集団の意味が彼の詩や祭壇を形づくる一要素であるなら、彼は望みのない意味の編み目に絡め取られており、思い切った新たな意味による不敬虔、下方への回心だけが彼を解放することができよう。


 だが、こうした過程はすべてなんら特別なことではなく、犯罪の常習性や薬物常習を研究する者が常に考えていることに過ぎない。治癒した後でも、誓いと孤独の二重の催眠的過程によって、もとの状態に立ち返ることが再開を促し、古くからの状況が再び以前の行動の「正当性」を示して、それがその人間の生き方や仲間とのつきあい方などにまで織り込まれることになる。(1)

 

(1)一度新たな意味が堅固に確立されると、芸術においては別の種類の退行が起きるのがしばしば認められる。奇妙さと親密さとが結びついているからという理由で、芸術家に若いときの記憶が突然蘇ることがある。恐らく、誰にでもこうした再生の時期、新たなものの見方によってこれまで忘れていたことが突然有益で関連のあるものと思われ、再び記憶のなかで生き生きした姿を取り戻すことがあるだろう。


 回心や再生といった言葉は、通常、その最も鮮やかなあらわれである宗教的な再定位のためにとっておかれてはいるが、再生や不調和による遠近法は、かくして、回心の過程と同義語と見られる。通常再生に伴う伝道しようとする傾向、自分が見たものを他人に語る必要は、社会化の問題、他人の確認を得ることで自分の変化を正当化することと分かちがたく絡み合っている。伝道は罪の裏側である――新たなものの見方がしばしば集団からの逸脱を意味すると理解したとき、なぜ新たな分野の創始者が単に迫害に耐えるばかりでなく、それを招き寄せているように思えるかを理解できる。


 宗教的な改革者がそうであるように、芸術家は常に伝道者である。彼は自分と同じように感じる他者を求める。その作品が同時代人によって非難されている芸術家の不安は、彼の象徴的な正当化が、その作品が受け入れられるまでは決して完成しないという事実からきている。(この観点から考えると、芸術のための芸術という説は、ゲームのルールを変えようとする作家たちの補償的な試みと見られ、集団に共有されることに失敗した象徴的な正当化が、にもかかわらず、正当化の働きをするものとして感じられる仕掛けになっている。正当化は集団の活動によって保証されるというよりむしろ、個人の活動そのものに位置づけられた。)