ケネス・バーク『恒久性と変化』46(翻訳)

ある種の存在の哲学に向けて

 

 混乱を避けるために特に言っておくが、我々は初期の魔術的或は宗教的合理化が「正しく」、回復されるべきだと言いたいがためにこうしたことを述べているのではない。我々が強調したいのは、神経構造が変わらない限り、社会が維持される仕組みも変わることはないという事実である。もちろん、水に落ちたときと崖からすべり落ちたときでは、助かるためには違った道具が必要であり、状況となる構造が変化すれば個々の合理化にも変化が求められるだろう。しかし、目的と願望充足の本質は変わらないだろう。


 もし我々が個々の転換を強調することを選択すると、十九世紀の思考に花開いた生成の哲学(ゲーテヘーゲルマルクスダーウィンニーチェ、その他それほど進化論的でも革命的でもない大量の思想家たち)のように、人間の問題を歴史的に捉えることになる。すべてに共通する類似性を強調することを選択すると、シンボリズムを通って存在の哲学に、スピノザ的な永遠の相のもとにおける人間に戻ることになる。進歩(そしてそれにつきものの苦いデカダンス)という隠喩の代わりに規範という隠喩を置き換え、人間の目的や本質は根本的に同一のままであり、特定の出来事によって源を離れることもあるかもしれないが、新たな個別の事情のもと、同じ基本的なパターンをもつ「よき生」を常に取り戻そうともがき続けるのである。


 こうした観点から見ると、進歩という観念はすべて、大いに道を踏み誤った現在から逃れようとする一つの長いヒステリカルな試みを覆い隠すものであるように思われる。大いに道を誤っていることはいまや明らかである。文明の根にある永続的なコミュニケーションのシステムは、経済闘争の構造の上に立てられ得ない。世界的に争い合う文化と相容れない努力のもとにある不調和な「下位人格」は、統一的な「大目的」とそこから生じる分類の論理によってしか再統合されることはあり得ない。分離的、解離的状態というのは長続きし得ない――なんらかの連合的、合同的状態への道がつくられねばならない。


 永続的なコミュニケーション媒体は共同作業から生じる。その大部分が言語的な産物である精神は、共同作業とコミュニケーションの結びつきによってつくられる。共同作業のシステムが損なわれ、それに応じてコミュニケーションの装備が損なわれると、コミュニケーション媒体の損傷は今度は合理性そのものの構造を脅かすことになる。