ケネス・バーク『恒久性と変化』47(翻訳)

第三部 単純化の基礎

 

 第一部は「記号の読解」を扱った。第二部は古い形の記号の読解と新しい読解との中間的な段階を扱った(動揺の段階であり、特殊な幻視的性質をもつ「スタイル上のガーゴイル」の礼賛でその不安定さが肯定される)。第三部では、記号の読解が必要だと思われる限りにおいての「解決」を考察する。問題の複雑さが概観される(混乱は解決法がごった返していることによる)。ここで強調されるのは「詩的な」解決であるので(意味に反応する深い感情的性質に従った)、詩人は言葉に重みをつけて使うという事実が注目される。いかなる重みも超越しようとするベンサムの言語的試みが再検討される(そして、彼の原理を適用することで、表面上は「中立的な」名詞でさえ感情的な重みが隠されていることが発見される)。しかし、そうした重みそのものは詩的ではなく倫理的である(「検閲的な」言葉によって導かれ、抑制された実際行動の党派的性質から来ている)。そうした詩的なコミュニケーションの倫理的土壌は二つの側面に分けられる。

 

(1)物質的に有益な事物は精神的に「良い」と解釈されうる。

(2)こうした功利主義の倫理化は、物質的利益を代償にして独自に働く基準に向かう可能性がある。(かくしてこの「善」が手段から目的に進み、「一般的な善」を犠牲にし、成功をもたらすと思われる物のために死ぬこともあり得る。)この意味での倫理には性格や人格が含まれており、人間の性格は「行動の詩」によって自らを社会化するものだと考えられる。その目的は何であったろうか。この問題は、いかに動機に関する包括的あるいは「統計的な」用語が、人間がある行為に帰する特殊で部分的な動機(直接的で偶然性に基づいた)を超越するか認めるよう促す。こうした考察は、著者が主張しようとしている包括的な動機への準備作業である。しかし、ここで一つの重大な困難が読者にもたらされるに違いない。こうした最終段階に来れば、著者というものは「通常」、裁判所で弁護する法律家が最終的な目的に向けて突き進むようにこれまでの各章をまとめ上げ、できるだけ有効に論点を主張しようとするだろう。しかしながら、今回の場合、厄介さをなんとか取り除こうとする者の動機にさえ疑いを投げかけるほど、論点は重荷であり続ける。とりわけ、問題が(厄介な複雑さとともに)、目的が動機づけの主要な要項として復活しうるという議論にさしかかったときにそうである。こうした企図は「メタ生物学」と呼ばれる。この用語は、各生物学的有機体がその本性に固有の「目的」をもっている限り正当化される(ある種のものをより「良い」ものとして目指す特殊な性質)。人間存在に適用したとき、動物では言語的、あるいは象徴的動機が一般的ではなく、人間の社会的動機はその本性の単なる「投影」ではないことから、それは語の厳密な意味における生物学を超越する。こうした考察は特定の「解決」へと導かれる。人間を「詩人」と見て、人間の動機を行動として捉える観点(「象徴的」行為にはそれらが「避けられない」という事実によって、行動の範例として詩的あるいは劇的用語法が、倫理的詩的な敬虔さ或は科学的敬虔さにまで及び重んじられる)。第三部を要約すると、「詩的隠喩」を本質的に矯正するものとして「厄介さ」という言葉を特に強調するべきだろう。