ケネス・バーク『恒久性と変化』50(翻訳)

会話の二つの側面

 

 会話によるコミュニケーションには二つの機能が区別できる。会話は感情の共通の基盤を提供するという意味においてコミュニケーションである――或は、行動の共通の道具として役立つという意味でコミュニケーションである。原始的な社会ではこの二つの働きがほとんど一致している。部族の慣用句にある感情的な含みは、部族が生きていくために行う類の行動を促す。部族の敵をあらわす言葉には、敵との戦いを組織だったものとするために、悪の意味合いが含まれるだろう。あるいは、部族の目的を示す言葉には、同じ目的を永続化させるような好意的な響きが含まれることだろう。こうした会話における共有と行動との一致によって、行うこと、考えること、感じることの語彙が一つの全体を形づくっている。


 しかし、科学と商業が現代世界にもたらした非常に多様な新たな事柄と新たな関係とが、コミュニケーション媒体にある思考と感情との一体化した関係を壊してしまった。ここで逆説が生じる。科学者たちはより効果的な行動に対する関心から中立的な語彙をつくりだそうとする。彼らは宇宙や人間の諸過程を研究する際に「判断を宙づりにし」、道徳とは関わりのない語彙を発明することで、そうした過程がいかに働くのかをより明瞭に示す観念を手にすることができ、それらをより効果的に支配するシステムが確立されることを学んだ。


 厳密に道徳的な取り組み方では、対象に対する姿勢があらかじめ決まっており、観察の範囲や性質はその姿勢によって制限される。例えば、犯罪者を研究する際に、彼らは頑迷なまでの悪なのだという道徳的仮定に基づいてするなら、自動的に懲罰的な扱いを支持することになろう。しかし、判断を宙づりにし、単なる社会現象として研究するなら、犯罪の発生に関して新たで重要な事実を学ぶかもしれないし、そうした事実から犯罪の処置と予防に関して全く新たなプログラムが生まれるかもしれない。こうした方法において、取り組みの中立性は結果的に行動という目的を遠ざけることも考えられる。


 しかし、会話そのものの本質は中立的ではない。判断を宙づりにするどころではなく、人々の瞬間的な会話にさえ判断が込められている。それは極度に道徳的であり――対象の名前にはそうした対象について我々がどう振る舞うべきか手がかりとなる感情的な響きが含まれている。「自動車」といった言葉にさえ、通常、選択が隠されている(それは単なる対象ではなく、欲望される対象である)。即興的な会話は命名ではないにしても、諸姿勢の、勧告を含んだ一体系である。ある人間を友人あるいは敵と呼ぶことは、それ自体彼に対する行動のあり方を示唆する。こうした言葉の意味のまさしく重要な構成要素として、それに伴う姿勢や行為がある。行動の暗黙のプログラムを適切(原始的な部族において、会話が長い漁を助け成功させるような場合)と呼ぶか不適切(会話の舵取りを間違え、人種には関わりのない問題から人種差別を誘発してしまったときのように)と呼ぶかに関わりなく、即興的な会話に固有の感情的あるいは道徳的な重みは、行為を補強する傾向にあり、会話のコミュニケーションの側面と行動の側面とを一致させるのである。


 こうした会話は根深く党派的である。そして、こうした会話の党派性こそ、中立な語彙をつくりだす計画に特に心を砕いたベンサムが排除しようとしたものであろう。彼はそこに正しく会話の「詩」を認め、非理性的な行動を引きだす「魔術的な」力に憤った。


 当然、科学的な努力の基礎にある情報を伝えるという理想、現代の基本的な理想として科学が享受する威信からすれば、詩人が自分の職業を危険なものと感じ、その不安をあるときには絶望として、あるときには厚顔無恥として象徴化することにもなる。いずれにしろ、彼は――多くを自分に語り聞かすことはなくとも――それが自分のコミュニケーションのあり方ではないことは知っている。対象について情報を与えるのは彼の仕事ではない。自分の属する集団と同じ道徳的重みを使い、集団と道徳的に同一化を成し遂げたときに彼のコミュニケーションは成立する(例えば、戦時下の戦争詩のように)。この道徳的意味合いの共有そのものが損なわれているという事実をつけくわえれば、彼らのもつ問題の重大さが理解されるだろう。


 マルクスによって推奨されたプロレタリアートの道徳性は、社会を同質の全体と考える代わりに階級に基づいて共有される姿勢を見いだそうとする試みだった。それは新たな党派のシステムを基礎づけようとした――この意味において、支持者たちには科学的と考えられていたが、むしろ中立な語彙をもとうという厳密に科学的な希望に代えて、道徳的あるいは詩的な意味合いをもった新たな語彙を持ち込もうとしたのである。おそらく経験に対する中立的な姿勢という計画は過渡的なものであり、数多くの新たな事柄が我々の判断の図式に入り込んだことの結果であろう。(1)

 

(1)懐疑主義が広がるのに必要なもう一つの重要な条件がある。懐疑主義は、体系的な形で発達するためには、かなりな量の担保物件が必要となる。生存に疑いを抱くものは、なんらかの仕方でその疑いの対価を支払わねばならない。懐疑的な特権階級の場合、その順序が逆になる傾向がある。疑いに対する対価を払う代わりに、まず支払いを受け(不労所得という形で)、その後に疑うのである。この段階において、数多くの「思考のプロレタリアート」たちは、懐疑的な階級に疑いを調達することで生活の資を得るのである。衰えつつはあるがまだ衰えきってはいない生産と配分のシステムほど疑いを安全にするものはない。それ故、懐疑家たちは、高度に工業化された国々で資本主義が拡大の限界に近づいている二十世紀よりも、資本主義的システムがその欠点は明らかでありながら、きちんと働いていた十九世紀のほうがより幸福であった。過渡期においては、懐疑主義は巧妙に除外される。古い確実性を疑問視することに満足を覚えるような時代は過ぎ、新たな確実性と提携しなければならないのである。