ケネス・バーク『恒久性と変化』49(翻訳)

確実性の堅固な基礎

 

 思想家は「裸体になった」――今日の単純な魂において、この傾向が文字通り衣服を脱ぐことによって直截的に象徴化されているのも偶然ではない。「ヴィクトリア朝の偽善」からの転換が象徴的な行動において究極的な表現に達している。同様に、『衣装哲学』(精神的な衣装を着替えることについての本)の著者であるカーライルがファシストナチス党の哲学を生みだしたとされるのも偶然ではない。確かに、定位が根本的に疑問に付されるような歴史の転換点には、裸体主義者が見いだされる――裸体主義はかけ離れた思想の領域において見いだされる。裸体主義は本質に立ち返ること、それ以上還元できない最低限の確実な人間性を手にすること、いかなる価値の枠組みにおいても堅固な根拠となる人間性研究を再び強調しようとする。


 多くの思想家は、こうした単純化の努力によって、人間関係の本質を野蛮な状態へ位置づけることになった(プラウトゥスの人間は人間に対して狼であるという主題を変奏したホッブスの考えに沿った傾向)。生成の哲学は生を永遠に続く戦場のようなものとした。そうした姿勢は、人間は環境を作りかえることによって自分と環境との不調和につぎを当てねばならないという考えを強調し、実証科学の理想とするところに適合した。人は抑圧を加える環境に屈してはならない。それを変えなければならないのである。


 この姿勢は単純な戦争宣言に達した。経済的軍事的闘争が極限にまで達した。行為を導く理性の代わりに我々は知性を手にしたが、それは意志の単なる道具であった。そして、恒久性を強調することが過渡的なものの強調を生んだ。この観点から見ると、帝国建設(国家的なものであれ、純粋に商業的なものであれ)、戦争、資本主義、実証科学、歴史主義、主意主義、革新、「よき生」は商品の獲得にあるという信念、民主主義での議会の争い、ナショナリズム個人主義リベラリズム無神論、自由放任主義、進歩といったすべては、我々の異なった語彙の領域で、同一の過程を異なった言葉であらわしたもので、同一のものの断片であるように思われるのである。すべてが単一のものである、あるいはそうならねばならないといっているわけではない。いまの文脈においては、それぞれのあらわれが互いに補強しあっていることを言いたいにすぎない。


 確実性の上部構造がぐらつきはじめると、精神は社会的産物であり、性格の概念そのものが集団の言語化に依存しているために、個人の精神も同様の影響を受ける。その起源において、言語は行動の道具であり、それを使用する集団が協同して働くパターンを形づくる装置であった。不調和による遠近法を扱った章では、協同して働く過程が長い間欲求不満のままにおかれると、コミュニケーションや精神がいかに根本的な損なわれるかを示したはずである――最近の著作にしばしば見られる崩壊のシンボルは、感知力の鋭い精神が既に無秩序の増加を察知していることを示しているだろう。


 こうしたときには、人はごく自然に新たな確実性が打ち立てられる不動の「基礎」を探し始める。受け入れられていた権威が地に落ち、宇宙や地下墓地のなかに否定されることのない価値基準が求められる。無傷の価値であればどんなものでも回収しようとし、新たな訓戒や判断の基礎として役立てようとする。


 なにに反対し、なにに賛成しているのか不明瞭なまま、彼らは手段の選択について混乱した。そうした苦境には悲劇的な側面があるために、彼らはしばしば共感をもって悲劇的な解決を探し求めた。ニーチェのブロンドの野獣はその最も典型的な例である。ダーウィン自身、生存のための戦いが協調姿勢を生みだすものであり、優しさ、博愛、ユーモアは、ジャングルで動物を追跡し倒す原始的な能力と同じく、人間の生存にとっての重要な要因であることを明確に認識していた。しかし、彼の説のこうした側面は一般的に無視されてきた――そして、生存のための戦いは、通常、直截的な戦闘的な意味に解釈されたのである。結果として、世界は単純で苛酷な対立、征服か服従かといった不可能な選択で成り立っていると思われる。幸福は、鷲が羊に襲いかかるときに感じるであろうような獲物を求めたり、勝利を感じたりすることに結びつけられる。もしこうした理念を否定するなら、弱虫で、生の苛酷で栄誉ある戦いには不適合な者だと疑われるようになる。こうしたせっかちな対立の場面では、人間的な満足などはほとんど完全に無視される。感情に関わることは「感傷的なこと」となる。


 こうした姿勢は、経済的な葛藤が強まるにつれ激しさを増す。善意といった人間的な感情は大多数の人間にとって近寄りがたく高価なものとなる。獰猛であったり、下心をもっていることがなければ、絶滅の危機にさらされる。仲間に対する愛を振りまけるのは確実な収入をもつ者だけである。多くの贅沢品が必需品となる――しかし、逆に最も基本的な必要、親切、正直、寛容は多くの場合贅沢品となっている。


 経済的な強制力は芸術や抽象的思索の領域でも精製される。極端な発言は調和の取れた発言よりもより聴衆を引きつけるので、思想家は無意識のうちにこうした競争的な要求に従ってコミュニケーションの仕組全体を調節する。誰もができるだけ論点を目立たせようとする。「人目をひく」ためには、同じように人目をひく作品から観衆の注意を引きつけねばならない。賞金は最も強烈な観点をとった者に与えられる。徹底さというのはもはや釣り合いを探りだすことを意味しない。むしろある特殊な才能を特化させることである――奇形的な存在になることで完全となる。バーナムの見せ物小屋の正確な写しが芸術において見いだされる。特殊化の時代においては、誰もが専門家となる。機械工、切手収集家、性倒錯者、望むがままである。ポオ的な短編が、芸術家の目的の中心となる有効性の検証を決定的な形で導き入れた。作家にとってある種、心的に色づけられた光景をもっていることだけが価値があり、それさえあれば世界を見るときに、そのどこにでもその色の存在を見いだすことができる。


 再出発を求めることは、我々が過去と決定的に断絶しているという感覚によってさらに促されることになった。現代の啓蒙の状態と比較すると、過去の調整の枠組みは単なる迷信にみえる。現代の人類は切り離された状態にある。以前の考え方を大陸だとすると、我々は島である。ラッセルが「偏狭」だと言ったこの姿勢は疑問視されているかもしれないが、広まっている。種族として親の世代を信じておらず、子供たちは自分の親を信用しない。この点において、いまの時代は象徴的な父親殺しの長い記録である。多くの人間が人間の動機づけの基礎として「オイディプス・コンプレックス」をあげるのも不思議ではない。