ケネス・バーク『恒久性と変化』54(翻訳)

平和と戦争の争い

 

 イデオロギー的争いのパターンは、それを単なる精神的な投影と捉え、より基本的な生物学的矛盾にまで遡ることが可能である。シェリントンは、意識がどんなものであるにせよ、食物の狩りや捕捉に必要な過程で生じたとのだと指摘している。狩りや食べる行為において注意力は強まる。しかし、食物が飲み下されると、有機体の意識は鈍くなる。消化に何らかの障害がなければ、有機体は満足、弛緩、無感覚、眠りのぼんやりとした状態に落ち込む。


 こうした人間の目的の不整合はニーチェを常に悩ませていた。穏やかで怠惰な飽満に達するための装備を有機体が発達させても、そうしたニルヴァーナの世界をもたらす装備そのものが乱流と戦いを生みだすもとなのだと言える。我々はここでまさしく行動の根底にある矛盾を認める。有機体が永久にこの静寂な状態にとどまるなら、神経の鋭敏さ、身体的心的な筋力といった戦いのための装備は衰えてしまうだろう。他方において、こうした衰退を防ぐためには、精神と身体の競争的な性質を保ち続け、「戦闘状態」に自らを置き、自分の武勇によって得た戦果からくる意識の死の状態を否定する必要がある。


 ニーチェは、従って、戦闘道徳は、いかに我々を悩ますものであっても、卑しむべきものではないと考えた。彼は戦いの領域が戦争や商業的な進出といった活動に限ることはできないと見て取った。彼の考え方によれば、ウォール街の投機家の貪欲さや独占資本家の捕食性だけを認めてすますことはできない。同じ熱狂、固執、好戦性が科学者、芸術家、探検家、発明家、教師、改革家の仕事にも認められる。こうした戦闘性は悪い結果をもたらすこともあればいい結果をもたらすこともあるが、我々の知る文化的活動はすべてそれらの上に成り立っているのである。(1)

 

(1)我々が行なってきた様々な発言は、ニーチェ的な考え方を安全に取り扱うのに必要な制限を与えることになるだろう。しかし、より明確にするために、それをここで繰り返しておこう。あらゆる行動にある戦いの要素を示したとしても、我々は戦いの哲学を賛美する必要はない。行動は質的に戦いと全く異なることもあり得る。おそらく、極度の個人的不安や現在の経済システムの混乱のような大きなストレスのかかっているときにだけ、純粋に戦闘的な要素が前面に出てくるに違いない。


 『快と本能』でA・H・バールトンはショーペンハウアー流のペシミストすべてが陥る極めて重要な見落としを指摘しており、意志を強調する彼らは、永遠に続く征服を賛美するか、メランコリックな放棄に従うことを余儀なくされる。というのも、意志にのみ注目することで、人間が通常の行動で享受するような満足感を見過ごすことになるからである。筋肉とその背後にある心的神経的な装備とは、追跡と殺害のために進化してきたものかもしれない。それ故、その装備を使うよう促す心理学的本能的な要求が存在する。だが、その要求は、戦闘的な目的や結果を伴うものでない行動であっても、満足に満たすことができる。同様に、意志を過剰に強調することは、感傷や、心地好い人間関係から得ることのできる多大なる満足感を完全に無視することになる。意志の要求はそうした関係を損ない危険にさらすこともあれば、より強固にすることもあり得る。ユートピアの観点からのみ、ペシミズムは正当化される。ペシミズムは酸っぱくなったユートピア主義である。ショーペンハウアーは、我々が安楽に座っているときにも、押しつぶされた尻の細胞が不安に声を上げているはずだと我々に感じさせる。