ケネス・バーク『恒久性と変化』53(翻訳)

第四章 倫理的混乱

 

悲劇による勧告

 

 カントや神学者たちのように、倫理を超越的起源に位置づけることもできる。あるいは、功利主義者のように、倫理的重みを売り買いの付帯現象に過ぎないものと考えることもできる。しかし、道徳を経済の派生物と論じるにしろ、経済を超越的な道徳的洞察の低次元にあるものだと論じるにしろ、個人と集団との同一の倫理的関係をあらわにできる。


 倫理的なものの根に悲劇が存在する。悲劇は陪審による複雑な裁判であって、作者が必ずしも法の侵犯と考える必要のない侵犯について自分自身やその登場人物を象徴的に責め、法に規範化されているよりより深いところでの検証によって罪やその贖いを割り当てる。悲劇は本質的に罪と正当化の過程に関わっているので、あらゆる宗教的表現は悲劇に関わる(未開の部族にある浄化の儀式、豊饒の祭りにおける神の殺害、ギリシャにおける悲劇の宗教的働き、十字架とキリスト教との切り離せない関係、その教義において「合理主義」をうたっているにもかかわらず、革命家のなかにある自己犠牲の礼賛をみよ)。悲劇は、人間関係に含まれる罪とその償いの過程と働きを最も鮮やかに示している。そして、悲劇と目的にある密接な関係のために、特に倫理と心理学との複雑な関係に関わっている。経験則としてほぼこう言うことができるだろう。誰かが何かを懸命にしているときは、悲劇のメカニズムの形跡を探せ、と。


 たとえ我々が道徳的判断の起源に関する説明として、想像しうる最も功利的な基礎を仮定し、倫理的に、貴族が美徳と呼ぶものは利益の約束を意味し、邪悪と呼ぶものは損失への脅威を意味すると考えたとしても、悲劇的メカニズムの争いは残っている。というのも、悲劇的シンボルはある目的を推奨するにあたって最良の仕掛けだからである。ある問題を説得力をもって描きだすのに、それをめぐって人々が破滅も辞さないと示すことほどよいやり方はあるだろうか。例えば、もし私が最も基本的な必要や欲求を処理するだけの、「最も粗っぽい」意味においてある尺度や姿勢を価値のあるものと感じるとき、コミュニケーションの戦略においてこの信念を伝えるには、その有用性を人に確信させ、真価を認めるにはいかに大きな困難と危険が伴うかを語るよりいい方法があろうか。かくして、価値が元々最も功利主義的な利益の概念から生じるのだとしても、犠牲と価値とは本来的に結びついている。


 有用性のために主張された政策であっても、悲劇のメカニズムによって無益なシンボリズムへ赴くことがあり得る。あるものを持っておく価値があると示すとは、犠牲を払うだけの価値があると示すことである。合理主義的な扇動者が、自分の目的を支持することによる利益を示そうとするのに対し、その詩的な同盟者は同じプロパガンダを悲劇的に英雄的な苦悩、犠牲、死を描きだすことで行なう。同じような心理学的パターンは、実践的な扇動者の目的のあらわし方にもあらわれるだろう。


 この根本的な矛盾が、ミゲル・デ・ウナムーノの混乱した「生の悲劇的意味」の根っこにあると思われる。彼は人間の悲惨さ以外の何も重んじていないように見えるが、常に人間の利益について語っている。彼の頁は、人類に鳩小屋の安楽をもたらそうと深く、ほとんど病的なまでに希求しながら、危険を冒し、悲惨さを引き受ける必要のある荘厳な闘牛、血まみれの精神性を提示しているかに思われるときがある。『エッセイと独白』で彼は、夜隣の部屋から聞こえてくるうめき声について語っている。「それは夜そのものから、夜の沈黙が悲しむことによって生じたかのような錯覚を私に与え、私の魂の深みから優しい悲しみが表面へと浮かび上がってきたのだと夢見るときさえあった。」ここにあるのは鑑定家の語り口である。社会的な領域において、彼はドン・キホーテを嘲りによって迎えられる悲劇的シンボルとしてみた――嘲りは最も残酷に我々と他者とを切り離すからである。それ故、嘲られる危険を冒して自分の目的を勧めることで人は悲劇に巻き込まれる。


 また、フローベルの詩学には、非常に人工的ではあるが、正真正銘の悲劇的な側面があり、商業の勢いが急速に増大している時代に、絶えず不平を言いながら、正確な言葉を探しだすという途方もない労働によって自分の制作物を飾り立てようとしたのである。