ケネス・バーク『恒久性と変化』57(翻訳)

支持手段に倫理性を与える

 

 おそらく、利己主義から利他主義への移行を見るもっとも容易な方法は、作品の倫理化であろう。あるいは、我々は作品の概念を何らかの意味での支持手段を含むものに拡張するかもしれない。鉱夫が金を探すのは利己的だろうか、利他的だろうか。彼はそのためには多くの安楽を放棄するだろう――もし自己犠牲が利他主義の検証手段であるなら、彼は他に対する関心を自殺的なまでに推し進めていると考えられる。これに近く、我々の良識の規範からするとより非利己的なカテゴリーに位置づけられるのが(特に死亡記事で)「仕事に対する自己犠牲的な献身」である――仕事が多くの良いことを彼にもたらしたにせよ、彼が実際には仕事を善そのものとして倫理化していることは否定できない。彼はそれを単なる道具としての善とは考えていない。事実、彼は自分の生き方を信奉しており、そのために現実に健康を壊し、生の確かな満足が永遠に不可能になったのである――死亡記事が言うように、長い仕事の犠牲となって死んだのであり、それを書いたジャーナリストがビールの合間に、「ひどいことをした奴だよ、悪党め!」と軽蔑したように言うとしてもそのことに変わりはない。


 こう考えると、倫理化は珍しいものではない――どこにでも存在する。進取の精神に富んだ研究者が莫大な調査を行なえば、幼児でさえ乳母や哺乳瓶を倫理化し、その世話や助けの道具性を外的で絶対的な善そのものと見なし、承認の微笑みによって、主観的に愛されるものを客観的に愛しうるものとして投影していることがわかるだろう。大西洋を横断したときの飛行機を仲間とも相棒とも感じ、我々として語ったリンドバーグにも同じような傾向が見て取れないだろうか。シベリアへの着陸を余儀なくされ、飛行機を壊さなければならなかったマターンが、忠実な馬を理由もなく撃たねばならないようだったと語るのも同じことである。社会的利益の主要な源が火にあるとされていたときには、不断の聖火が建設され、その倫理的な性質は敬虔さを伴った特殊な祭儀や誓願にあらわれる。


 もっとも基本的な支えとなるのは地球であり、道徳的源泉との関係をすべて絶たれたと感じるすれっからしに対してももっとも深い回復の源となるものであり、「大地」と接触することによって自分を取り戻すことにもなろう。この言葉そのものが巨大で、重量感のある慰めを示唆しており、なぜ数多くの道徳体系がいまだに農業に根をもち、コペルニクスとその学派が地球の安定性を脅かそうとしたときに中世世界が示した深い憤りに同情的であるかを説明していないだろうか。


 あるいは、もっと早く出せばより効果的な策略を巡らすことができるかもしれないのに、最後迄切り札を取っておきたがる素朴なカード・プレイヤーにも同じような倫理化が見て取れるかもしれない。彼は切り札を純粋に機能的、あるいは道具的な価値として考える代わりに、絶対的な性質として対応している。彼は「善」をもっているという漠然とした感覚のもと、できるだけ長い間それを保持するのである。同様に、「芸術のための芸術」という説は、芸術が根本的な「支え」となると考える者たちのあいだで栄えた――というのも、複雑な文明のなかでは、支えという概念がより広範囲にわたるからである。我々は自分に殆ど関わりのない栄誉によって支えられることもあり得る。別の人間がその必要さえ考えもしなかった精神的支柱が取り払われることで「傷つけられる」者もいる(バートランド・ラッセルが語っているところによれば、神の存在を疑うことは彼になんら混乱をもたらすことはなかったが、数学的公準を疑問視することは精神の土台を揺るがされるように感じられた)。「仕事のための仕事」に関して言えば、商業的な方法を倫理化することはあまりに深く我々の内に染みこんでいるので、国家的な最悪の惨禍のなかでも、我々は企業経営そのものを疑問視するよりは、企業において「よい」人間と「悪い」人間とを区別しようとしたのである。


 もしある男が森のなかで独りで生活しており、銃を撃つことに生活を頼っているなら、「銃のための銃」とでもいうべき信条が見られることとなるだろう。彼は銃をお気に入りの場所に置き、おそらく必要以上にきれいにしておくことだろう。日曜日には小屋の外に座り、空缶を撃つかもしれない――もしこの幸福を脅かすような出来事が起こったら、崖から落ちる危険があろうと、生命の危険があろうとも銃を救いだそうとするだろう。


 我々の啓蒙された時代においては、機械を倫理化することなど否定されるのが普通であるが、反対の証拠を二つあげよう。(1)機械化と進歩とが頻繁に同一視されることを見れば、我々は機械を絶対的な善としてみる傾向がある。(2)我々は機械の威光をあまりに強く印象づけられているので、機械的な動きとはまったく異なる生物の動きを「説明する」のに機械の隠喩を使う場合のように、絶対的で普遍的な解釈上の価値として他の研究分野に持ち込む傾向がある。