ケネス・バーク『恒久性と変化』56(翻訳)

利己、利他の合併

 

 ヴェブレンの略奪的と職人的との区別は、もう一つの倫理的な混乱を我々にもたらすかもしれない。利己主義と利他主義との曖昧な関係である。ピアジェが記しているところによれば、子供の考えが社会化されるのは、自分が集団とは異なっているという感覚が成長することに伴って起こる。子供の欲望や意図の個人性が、「自閉的」ではない論理的な思考のあり方を完成させ、社会化の要因として働くのである。物まねや声の調子による威嚇や嘆願は不適切なものであるとわかる――理論と証拠を社会化する方法がそれに取って代わる。ピアジェは、主張から議論へのこの変化を八歳くらいで決定的に確立されるものと見ている。


 勿論、この社会化の過程は生涯を通じて続き、関心の広がりに応じて拡大していく――或いは逆に、考え方の重要な側面においてまったく社会化されず、子供の主張ばかりで理性が身に備わっていない者もいる。実際、ある種の関心を社会化する言語化が集団からそっくり抜け落ちていて、すでに存在する社会化の道具の類推的拡張によって新たな遠近法を示してくれる個人を待ち受けている場合もある。


 もし我々が利己主義を単に、自己中心的なあるいは自分にばかり関心をもつ原理ととり、利他主義をそれとは反対の他関心原理(ベンサムの用語)ととるとしても、複雑な世界においては、有機体の自己に対する単純な関心といえども、自己の外部にある事物との深い関わりを含んでいることは容易に見て取れるだろう。猿がハーレムを「守り」、繊細な庭師が野菜のために力を尽し、養蜂家が蜂の世話をするとき、利己主義と利他主義がともに働いている。事実、火をおこすために乾燥した木を探している者は、厳密な意味において利他的である。自分とは直接関係のない外部のことを考えており、いまだ発見されていないバチルス菌を隔離しようとする科学者のように、他に関心を払っている。


 逆に、戦いに勝利を収めるために、注意深く全ての状況を考慮に入れ、力の配備、敵戦力との比較、側面攻撃の可能性などを辛抱強く勘案する将軍の利他主義、他への関心が純粋に個人的な野心でしかないことが明らかになるかもしれない。しかしながら、ここでもまた、将軍の他を抜きんでようという望みは、間違いなく自分の集団の判断基準を抜きんでようとする望みでもあるので、個人的な野心でさえも主として他への関心によって成り立っていることは認めるべきである。


 貪欲と野心の塊のような怪物でさえ、行動の根には承認、卓越性、達成といった概念が組み込まれており、なんらかの集団的な精神病質から生まれる。思考と行動はその本質において社会化されているので、専制君主といえども他者からの賛同なしに行動することはできない。価値の相対性については大量の記録があるにもかかわらず、中立や善は異なった観点から見ても、悪については特殊な分離されうる存在であり変化しないものだと考える傾向がある。ある出来事は、我々がそれを枠組みのなかにどう「位置づける」かによって、善でも悪でも中立的でもあり得る。そして、我々がいくつかの枠組みを同時に考慮できる(しばしば考慮しなければならない)限り、出来事そのものは道徳的に分類しがたいものになる傾向がある。(この点においてリベラルの「支離滅裂」は神秘家の「非合理性」へと向かう。)


 我々はある行為の「動機」を行為の「結果」に相応するものとして位置づける傾向がある。だが、楽しい無駄口に本当の残忍さが含まれていることもあるし、破滅的な爆弾を放つ手が命令に従っているだけだということもある。アメリカのジャーナリズムが醜聞をあさっていた時代は、「邪悪な」人間が我々の社会に害を及ぼし、代わりに「善人」を当てればすべてうまくいくと考えていたために、無駄に浪費されたに等しい。難局というのは異常な貪欲さからばかりくるものではなく、社会や政治組織の欠陥からくるのであり、そこでは通常の貪欲さが、異常な貪欲さの結果にまで敷衍されるのである。おそらく一人の人間の途方もない財産の囲い込みに見られる作為や熱狂というのは、週十二ドルで働いている男がなんとか隣で事務を執っている人物の週十四ドルの仕事に取って代わろうとするときの策動とさほど変わらないだろう。そして、それに用いるものは、目的に応じて方法を修正することができると「楽観的に」思っている芸術家や科学者と本質的に変わるものではない。