ケネス・バーク『恒久性と変化』58(翻訳)

倫理化傾向の諸相

 

 支持手段を倫理化し、ある種の神格化の裏返しであるより複雑な方法としては、エドウィン・シーバーが深く心を動かされる「ホワイトカラー」の田園詩を集成した『カンパニー』、特に「ボス」の章がそうであって、この近づきにくい人物はもっぱら雇われ人の姿勢を示すことによって特徴づけられている。この章はあらかじめ敬虔さをもちつつ、卑しむべき善の源泉に向かっている。かくして、ボス機能の目的と機能に深い憤りを示している(彼は執念深く人間の本質を否定する)。


 「ボスは写真を撮られるときにしか笑わない。ボスは写真を撮られることを好み、何度も繰り返させる。時には安全運転を主唱し、新聞は彼がいかに何千もの命を救ったかを報じる。議長として34番通りの百年祭について発言し、新聞はボスがいかに34番通りをより広くきれいにするために尽力したかについて報じる。国でもっとも偉大なビジネスマンの一人として振る舞うこともある。しかし、いつもはもの柔らかな微笑みをたたえ、満足げに静かに閉じられた口とあなたの向う側を見つめる眼差しをもつ年老いたボスである。」


 このように、微笑みの人間らしさでさえ、仕事の必要に限定される。ボスはずんぐりしている。着込みすぎである。「顔で飯を食っている」。下役には好かれていない。「他人を踏み台にして」登る。偽善者である。権力で多くを従えているが、身体的にいったら取るに足りない。他人がしたことを自分の手柄にする。彼は会議を開くが、それは仕事をはかどらせるためではなく、「神のもとに集る天使のように皆を集合させることによって自分の重要性を感じさせるため」である。彼に同意するものは単なる「イエスマン」であり、心から同感しているのではなく、見返りを求めている。冗談はつまらない。常に、「会社のことを我々みんなが献身する純潔なものであるかのように語っている」。仕事のあとの生活は空虚である(「夕食後・・・ボスは白くなった前髪を叩く。彼は今後のことを考えることを好まない。これからのことを考えると病気になったような感じがする」)。手紙を口述しているとき、彼は迅速な対応を思い出してはほくそ笑み、速記者に無益な欲望の炎を燃やす。お抱え運転手が老女をひきそうになると縮み上がるが、親切なわけではなく、もし自分がぶつけて、「好ましくない形で表沙汰になったときのことを恐れ」考えるからである。より低い次元の満足なら、家路に向かうときにある。「彼の手は革のシートを撫で、彼の眼は革張りにされた車の内装を見て満足を覚える。下には力強い鋼がある。車は高架線で走っているかのように、優しくゆりかごのように揺れる。鉄骨の枠組みの上に労働者が衣装を着せ、新たな摩天楼ができあがるように、すべてが確実で、現実的である。釘一つにも繁栄のもとがある。」実際にここにあるのは、ある種の生に対する疑わしげな祭壇であり、経験深い著者の姿勢にはそれに匹敵する憎しみが込められている。


 この問題については、C・K・オグデンによって編集されたベンサムの『虚構の理論』に再び戻り、「虚構の人格化」と題された118ページを読んでみることにしよう。


 「人格化は通常、害のない文学的な技法と見られており、例えば、ケレスは穀物の代理となって、ラテン詩人たちの助けになってきた。しかしながら、ベンサムが言及するのはより巧妙な使用法である。

 『人々を一人あるいは少数の支配に甘んじさせるために用いられる錯覚の道具のなかには、一般的で適切な名称の代わりに、目的のために考案された抽象的で虚構の名称をある人物やその階級に用いることがある。次のような例があろう。


 王の代わりに――王冠や玉座
 聖職者の代わりに――教会または祭壇の場合もある。
 法律家の代わりに――法。
 裁判官の代わりに――裁判所。
 富者あるいは富の代わりに――財産。


 こうした手法の目的と効果は、ある人物や階級と結びついて聞き手や読み手の心に生じる不愉快な観念が特定の対象から自由になることにある。多かれ少なかれ気に触る個人や諸個人の代わりに、提示される対象は、詩と同じように、想像力を満足させる観念による空想の産物であり――この幻影は個人や階級が身にまとう権力によって、尊敬や崇拝の対象として確立される。


 いま述べた最初の四つの例については、仕掛けの性質は比較的明瞭である。


 最後のものは、滅多に観察されることはないように思われる。しかし、認められるにしろ認められないにしろ、財産という言葉に法外な重要性を与える動機や有効性を持った語り手が存在する。その価値だけが本来的なものであり、他はなんの価値もないかのようにである。人間が財産をつくるのではなく、財産が人間をつくるかのようである。実際、財産の保守が政治の唯一の目的であるとまじめに論じる者も多くいる。」

 

 シーバーは相対立する道徳性によって論を進め、その職務の善から個人としてのボスに固有な善を引き出す代わりに(聖職者と「教会」の栄誉を、あるいは裁判官個人と「裁判所」の栄誉を同一視するように)、被雇用者の「階級道徳」にとどまり、職務としての悪から個人としてのボスに固有な悪を引き出してはいるが、ベンサムの議論にはシーバーとまったく同じ倫理化の手順が見て取れないだろうか。我々の主張は倫理的過程を示すことだけであって、党派性を見事に発揮し、詩的な連想を十分に働かせたシーバーの著作を批判しようなどという意図はまったくない。それは敬虔の名のもとに称讃的であるよりは、批判的でありながら敬虔なのである。


 おそらく、こうした「倫理化」の最も複雑な事例は、アメリカの人文主義者たちの「内的検証」に関する関心である。古典期の哲学者たちは、人間に幸福をもたらす最も有益な原理は中庸であり、利益を得る手段としてではなく、不利益をもたらす危険を冒してさえ追い求めるべき目的として、精力的に長きにわたって中庸を主張した。しかし、一度手段ではなく目的となってしまうと、今度はそれを達成するために新たな手段が必要とされた。中庸の存在を感じさせるような「内的検証」が発明された。これはすぐに道具から目的、善そのものとなり、教育が内的検証に対する感受性を鋭敏にするための道具として推奨される。予想されるように、同じ拡張の過程によって、教育もまた善そのものとなる傾向にあり――かくして、我々は悲劇的混乱の際まできており、苦しみ、悲しみ、誤りが、教育の必要を認めさせるものであるために善そのものだということになる。


 この問題にここまで深入りする我々の目的は、利他主義が「単なる利己主義」だというシニカルな考え方をもたらすためではない。両者の相互関係は、別の方法でよりうまく述べることができる。利他主義と利己主義が連続する系列だと言うことで、我々は「利他主義が利己主義から生じる」と結論づけるつもりは全くない。こうした連続性は、十九世紀の物質主義の最盛期によく用いられたものである――しかし、こうした解釈は論理的な必然性ではなく、好みによってなされたものである。教会は、「善」の側から多くの「悪」のあらわれを解釈する傾向を強調したので、教会の物質主義に対抗することはしばしば、「悪」の側から「善」のあらわれを解釈する単純な裏返しになる傾向があった。例えば、教会は金銭を得ようとする欲望を単に、自己向上の欲望の低次の形と解釈することができた。そして、反教会の側は、道徳を物質的な意味での繁栄に対する欲望に付帯する現象と解釈することだろう。


 両極端の連続性が確立されているとき、どちらを第一として選択すればいいのか私にはわからない。我々がこの選択を行う前に、他の何らかの判断がなされねばならない。教会の超自然主義は、上方の領域を系列の一次性質、あるいは本質として強調する。物質主義的な自然主義は、下方の領域を系列の本質として強調する。しかし、系列そのものにはどちらにしろそうした強調は存在しない。利己主義-利他主義の合併という考えは、単に利己主義は利他主義なしには存在できないことを示しているだけだろう。あるいは、別のいい方をすれば、利己主義はそれ自身を超えて、質的に異なったものとならない限り、働くことはできない。


 だが、物質主義者の観察は価値があり、単純な反対陳述として無視するべきではない。よきところ、わが祖国という言葉は、「理想のない粗野な物質主義の悲しい告白」だと言われてきた。実際、もし我々の愛国心が明確にそうした実際的な検証に基づいており、生粋のイタリア人が物事がうまくいかないときには守護聖人の像を踏みつけにするように、逆境に至ればすぐに国旗を軽侮するのであれば、「理想のない粗野な物質主義」は、我々の大部分が現在「理念的に」苦しんでいる永続的に続いている粗野な条件に対して干渉することになるかもしれない。


 富と美徳のあいだには根本的な関係が存在し、いかなる「精神的な」図式であろうとそれを勝手に否定することは許されない。財産と礼儀作法は単なる偶然によって語源的に近しいわけではない(「清潔な」手はフランス語では財産の意味である)。道徳と財産とは切り離すことができない形で関係している。同じコインの表側と裏側である。どちらも生活のために必要である。この二種類の武器、道具、資本には完全な関係性が存在する。


 ベンサムの手がかりをおって、勤勉さが取得に対する欲望の「称讃的な覆い」に過ぎないのを認めるにしても、さまざまな言語の見積もりにおいて、徳行、勤勉、忠誠、真率、祖国、家庭、友情がよい言葉として選ばれているのを見ると、見積もりそのものはその関係性をまったく無視しているが、この習得的知識においては、徳行と勤めとのあいだに明確な関係があることに驚かされる。「勤勉さには三人の娘の女神がいる――徳行、科学、富である」(die Tatigkeit hat drei Grazien zu Tochtern:Tugend,Wissenschaft und Reichtum)と学んだ上は、それ以上何を悩むことがあろう。勤勉、徳行、科学、富はいずれもよい生活のための道具なのは明らかである。より広い意味合いにおいては、それらは食物と住家が文化的に投影されたものでしかなく――それらを早く結びつければつけるほど、善を理念化していると思いながら、悪を永続化することから倫理化の傾向を守ることができる。


 もう一つの証拠としてあげられるのは、熱心な愛国者が、広範囲にわたる比較と様々な意見をもった多くの者と話し合ったあと、「私が育ってきたような国は他に存在しない」と主張することがあげられる。あえて言うなら、自分の育ってきた揺籃の土地が善であり、そうした幸福の土地が祖国として倫理化されている理由は理解できる。ベンサムの「豚小屋の哲学」の薬を大量に摂取することにしよう――というのも、その検証によれば、いかなる国も、すべてのスラム街が取りのぞかれ、貧困層が生活手段だけでなく、生活手段の文化的な等価物たる、活動性、徳行、科学、富が与えられるまでは、粗悪であるとの烙印を押されるからである。