ケネス・バーク『恒久性と変化』61(翻訳)

統計的動機

 

 もちろん、この類推は完全なものではない。アリストテレスの批評はそれ自体が創造的行為だった。また、たとえ宇宙が完成しているにしても、我々の生活や歴史は常につくり続けられている。経験の材料は確立しているにしても、その再編成について我々は詩的である。しかし、こうした区別は、論理的取り組みと倫理的取り組みとの間に、どうしてある種の葛藤が生じるように見えるのか説明できる。というのも、論理的合理化は、なにかに働きかけられるというよりむしろなにかに働きかける感覚という人間の個人的な経験に最も特徴的なパターンに一顧も与えることなく宇宙の過程を考えようとするからである。人間の動機づけにおいて自然発生的にあらわれる言葉はすべて選択の要素が含まれている。しかし、科学的な言葉は強制を含む。我々の行動を説明する因果的図式はすべて、我々の行動につきものの感情を強く特徴づける性質を排除することから始まる。「強迫神経症」のような辛い病気のときにのみ、我々は無理強いされていると感じる。思弁的には、我々がなにをするにしてもそれは「必然性による」と付け加えられるとしても、我々は「自分の選択で」道を上ったり下りたりする。


 何万もの行動を統計的に観察し、大規模な移住について科学者が与える説明は、各個人が移住する際の「理由」とはまったく異なるものとなろう。債権者から逃れるためという者もあろうし、若いときに読んだ冒険小説のせいでという者もあれば、マリーおばさんが死んだからという者もいる、等々。「統計的動機」はこうした個々の動機とは異質な一般化が含まれているだろう。すべての事例に共通な経済的要因を明らかにできるかもしれない。あるいは、ある種の「心理学的タイプ」をもつ人間は移動し、別の「タイプ」は定着することがわかるかもしれない。あるいは、シュペングラー風な没落の魅力があるのかもしれない。しかし、いずれにしろ、統計的に得られた因果的解釈は、個人として移住する者たちによって経験された動機とは異なる総称的動機を提示するので、遠近法としては不調和な性質をもっているだろう。


 次に我々が試みるのは、成功の度合いは様々だが、統計的な結果を意識のなかに組み込むことであり、今日の人間は自分が「ブルジョア」あるいは「プロレタリアート」である故に、ある種の書き方をしているのだと実際に感じている(ディケンズは、特に「ブルジョア的」動機をもつことなく「ブルジョアの」小説を書いたことになる)。即ち、統計の解釈者は、特定の観点や公式を知る以前に行為者の心を最も占めていた諸目的よりは不特定のある観点やある目的から動機の体系をつくりだすと言える。人は好みのまま「統計的に」ブルジョアであったり、甲状腺亢進であったり、外向的であったりする。しかし、そうした概念を特別に教え込まれるまでは、個人としての限りにおいては、行為の動機としてそれらがあらわれることはない。それ故、フロイト派やマルクス主義者によって、その宗教的体系が、言語化されているのとはまったく異なった関心によって動機づけられていると指摘されたとき、忠実なるカトリック教徒は憤るのである。(1)

 

(1)一度一般的に使用されるようになると、動機づけを取り囲むことになる検閲的な性質については前に論じた。純粋に記述的な目的のために発明された内向性や外向性といった明らかに中性な言葉であっても、強い感情的重みをもち得る。物質的な必要物がすべて勝ち取らねばならないような未来の社会において、教育衛生施設でどんなタイプが奨励され、どんなタイプが排除されるべきか、広範囲にわたる教義上の戦いを勇敢に執り行わねばならない事態が生じることも想像に難くない。腺病質の患者は、その病気が内分泌系の不足よりは過剰によって生じるのだと診断されることを好む(気の利く医者なら、不足だと言っても満足を与えることができよう――というのも、内分泌系は相互に依存しあっているので、一つの山に一つの頂きがあるようなものではなく、ある点における不足は別の点での過剰だと言えるからである)。中性的な言葉が、「称讃」や「非難」になることなく、一般的に使用され人間の動機や関心を記述することはおそらくありえないだろう。