ケネス・バーク『恒久性と変化』62(翻訳)

科学者と神秘家が落ち合うところ

 

 「解釈について」の箇所で、我々は人間の動機についての言葉は、諸状況を速記法によって書きとめたものだと示そうとした。状況の反応との間にある種の裂け目を見て取り、二重性が考えられがちである。だが、この二つは同一である。例えば、ある人間の反応に影響を与えることを望むとき、我々は彼によって過小評価されているあるいは無視されている要因を強調し、彼が重きを置いている要因を小さくする。これは結局のところ、状況を再定義しようとする試みに他ならない。この点において、我々の動機づけに関する語彙はすべて同語反復的である。それを、状況を省略法によって定義したものと考えるならば同語反復的だというのではない。状況と動機の両者が存在し、状況と動機とがなにかしら異なったものであると考えるなら同語反復的である。状況は我々の動機であり、動機に関する我々の言葉は状況を特徴づける。


 動機と状況が一つだという我々の論点を明らかにするために最も直接的な例として、非常に具体的な動機を取り上げてみよう。動機として目覚まし時計を使おう。毎朝ある時間に起きなければならない男がいるとする。その時間に起きる必要性(会社の始まる時間、仕事場と家との距離、着替えと朝食にかかる時間といった付帯する事情による)はある種の状況である。彼は望む時間に起こしてくれるよう目覚ましをかける。かくして、ベルの音は起床の動機となる。だが、ベルが鳴っているとき、その音は我々がいま述べた状況を速記したものでしかない。簡単に翻訳すれば、時計のベルは「仕事場からこれこれの距離に住んでおり、通勤にはこれこれの時間がかかるからもう起きなければならない、等々」と言っているから、男はその通りに行動するのである。


 こうした考察は、人間の振る舞いの背後にある「究極的動機」を明らかにするときに直面する問題を示す方法として重要だと思える。というのも、あらゆる人間を行動させる一つの潜在的な動機あるいは動機群が存在するなら、あらゆる人間に共通する潜在的な状況が存在するはずだからである。あらゆる人間に共通する状況や動機の存在を確定する前に、我々が宇宙の状況とそのなかにおける人間の位置を定義するべきなのは明らかであると思われる。最終的な分析においては、心理学は形而上学の下位分野でしかない――心理学者があからさまに形而上学を語っていないときも、それを仮定している。フロイトの快感原則と現実原則との区別には形而上学が仮定されている。マルクスの諸動機についての語彙には、明らかに彼の行動の理論と弁証法唯物論とのつながりがなぞられている。フロイト主義がマルクス主義者を心理学的に「説明する」ことができ、マルクス主義フロイト主義者を社会学的に「説明」できることは心に留めておく価値がある。


 神秘主義は様々なあらわれ方をする。しかし、主として、我々が受け入れている言語化の隅々を見渡すことによって、人間の振る舞いの究極的な動機づけを定義しようとする試みだと言えるだろう。この理由から、神秘主義の運動は、通常、定位が混乱している歴史上の各時期に広範囲にわたって生じている――そうした時期には、我々が頼って生活している確実性がたやすく、また不可避的に疑問にさらされるのである。神秘家は、歴史の流れによって与えられるものより永続性のある確実性の根拠を探し求める。彼は我々の行為の背後に究極的な動機を探る。つまり、すべての人間に共通する究極的な状況を探るのである。教会の神秘家は、通常、人間と神との直接的な関係をその究極的状況だと言う。中国では、同じことが人間と宇宙との究極的な関係として言語化されているようである。現代の世俗的神秘家であるD・H・ロレンスは、明らかに、生そのものを根本的な動機として語り始めている。彼は生物学的パターンの生産的、あるいは創造的要素を強調し、その他すべてはそこから生じるものとするだろう。もし生が究極的であるなら、宇宙は生を維持し表現する道具として目的論的構図に含まれることになる。それ故、科学者の背後からの力である因果体系をロレンスは単純に裏返して、ぶっきらぼうに、成長する穀物が太陽を輝かせると主張する。


 動機と状況との同一性は、なぜ現代科学の統計が強い神秘的色彩を帯びた結論に向かう傾向があるのかを示すだろう。個々に異なる数多くの状況を調査し、科学者は統計的にそれらすべてに共通する一般化を引き出そうとする。神秘家も、すべての人間に共通する経験の質を究極的な動機のなかに認め、究極的動機と名づけようとすることによって同じことを試みている。頻繁に言及されるのは時間であり、それは、我々の意識する個々のものは非常に大きな多様性をもっているが、持続の感覚はあらゆる意識に浸透していると思われるからである。


 実際的なもの(神秘的なものとは異なる)が、我々の義務や目的という考えを形づくるが、それは毎日のように届く電話や手紙やその他様々な偶然の事情によって要求され、我々に影響を与える。しかし、そうした偶然の背後を見てそこから行動の命令を引き出そうとするや否や、我々は神秘主義と統計的シンボリズムの懐疑的領域に向かうことになる。明らかに、義務という概念に象徴的あるいは神秘的に取り組むことは、行動の偶然的な基準が不満に思われ、不評である時代には前面に出やすいだろう。新たな遠近法を探るのに最も遠くまで向かう神秘主義は、伝統的なものの見方やり方(それに伴う言語化)が権威を失い始めた時代に繁栄すると思われる。


 空気が悪くなったから窓を開け、返事が求められているから手紙を書くというように、義務という概念を偶然性だけから引き出すことができたらより快適であろう。疑いもなくこの理由から、人々は、命令が規則的であってほとんどなく、命令に心から応えることで一般的な繁栄の助けとなるような単純な社会構造により満足を覚えるだろう。しかし、我々の時代のように、我々への偶然的な要求を形づくる商業倫理が極端にまで行き着き、生の無数のあり方が最も基本的な必要を軽視あるいは抑圧するよう我々に要求するようなときには、「その日暮らしの」義務という概念では十分ではない。


 より深いところにある権威を捜さねばならない。偶然の要求で慢性的に悩まされているような世界を評価できる人間の目的の定義が探られねばならない。さもないと、自己永続的な判断の悪循環に落ち込み、保険会社を助けるために銀行に働きかけ、銀行を助けるために鉄道に働きかけ、保険契約者を助けるために保険会社に働きかける等々と、無限に、嫌になるまで続くルーズベルト型の実際的政治家のようになってしまい、その際標榜される「実験精神」というのは、司法行政全体の根本的な定見のなさを隠すための称讃的用語である。実験精神とは、ここでは、遠近法の欠如と同義語である。明らかに、それが「よき生」の目的に役立つのは、偶然のパターンがたまたまよき生にあったときだけであって、そのためになにかが行われたからではないのである。