ケネス・バーク『恒久性と変化』63(翻訳)

基礎となる参照点

 

 マルクス主義の遠近法は、一般的な偶然性の領域の外にある観点を提示している。より正確にいうと、マルクス主義の遠近法は、部分的にこの領域を出ている。資本主義的企ての基本的な精神からは外れている。工業主義を究極的な価値として信じている点については内部にいる。ロレンスの観点からすると、資本主義者とマルクス主義者は、どちらもロレンスなら軽蔑するであろう工業の価値を受け入れているので一緒になるだろう。工業の類を国家の型を作るものとして認めるような観点をとることに満足しないロレンスは、工業の特質がそれによって検証されるような生物学的要因を強調することになろう。機械化によって与えられる動機(あるいは状況)より深い層にある動機を探ろうとしているのである。彼は、機械化の時代が単なる歴史の一側面であるような、究極的な生物学的状況を探りだそうとしている。


 マルクスもロレンスに近い場所にいる証拠がある。マルクスが語る自由には、自由への欲望が根本的衝動であることが含まれており、リベラルな資本主義者たちに横取りされて、大衆の自由を不可能なものと結論づけられてはいるが、科学的調査を煽動しているように思われるからである。しかし、自由に対する欲望が最優先なことはマルクスの内に暗黙に認められるにしても、明示されてはいない。というのも、とりわけ彼の体系は、人間の振る舞いを決定するものとして物質的、あるいは非生物学的要因を認めることから出発しているからである。私の知る限り、この「弁証法唯物論」がジョン・ストレイチーの『権力への来るべき闘争』での次の一節ほど簡潔にあらわれているところはない。


 「我々が辿ろうとしている因果的鎖は、物質的なものだけによってできあがっているわけではない(物質的というのを最も狭い意味で用いて)。それは、ある種の経済的物質的状況がある種の心的心理学的観点を決定するという見方を含む。そして、そうした心的心理学的観点が、反動によって今度はさらなる物質的発展を決定する。因果的鎖では、それぞれの経済的輪が心的心理学的輪に続いている。経済的基盤と、そうした基盤につくられた観念構造の間の行動と反動との鎖である。ある限定されたつながりを例に引けば、大規模な生産力の成長が、企業家の心に独占体制へ向かう傾向を与える。今度は独占体制が政治家の心を変化させ、帝国主義的な投機を企てさせる。帝国としてあることは、支配階級の心に、遅かれ早かれ戦争に巻き込まれるに違いないという思いを抱かせる。そして、誰もこの戦争を否定しないことによって、著しい経済的変化がもたらされる。」


 ストレイチー氏のこの本はマルクス理論に関する信頼できる論述であるが、彼がこの循環を「大規模な生産力の成長」から始めていることに注目する必要がある。物質的要因と精神的要因とが「弁証法的に」相互作用しながら続く無限の鎖において、どんな物質的点を選び出しても、それには精神的な要因が直接に先行していることが明らかであると思われるからである。例えば、我々はこう問うことができる。「大規模な生産力の成長」の背後に何があったのだろうか。少なくとも、ある種の純粋に心理学的な要因、生の目的や手段に関する判断、機械化による投機への関心があり、それに刺激されて機械化の発達のために多大な労力と野心とが注がれることになったに違いない。物質は我々の仕事の形式を決定するが、仕事の起源はまず説明できない。


 ストレイチー氏は、中世以来ヨーロッパに燃えさかった解放のスローガンは、自由な市場、つまり、邪魔されることなく売り買いする権利を獲得する戦いに基づいていたと主張し、印象的にこの著作を始めている――だが、行動主義者のジョン・B・ワトソンは、新生児の腕を押さえ、その怒りもがくさまから、人間という生物が、「自由な市場のための戦い」という刺激に出会う遙か前に、盛んな「自由崇拝」をあらわすことを示した。自由崇拝は、明らかに、制限を受けていると我々の解釈が示すときにはいつでも前面にでてくる。子供の場合、意味の酌み取りは未発達であり、純粋に物理的な刺激に対する反応を含んでいる。しかし、成人の複雑な解釈においては、意味はより「精神的」である。同じ行為は、我々の自由の概念に従い、自由とも必然ともなりうる。我々のいる部屋は、そこにとどまることを強制されていると我々が知っているなら監獄である。


 ワトソンの実験を出発点に取るとしよう。そのとき、我々は物質的要因と心理学的要因の弁証法的な相互関係の循環を、心理学的な要因から始めるべきである。人間の根本的な趨勢として、「自由な運動に対する欲望」をあげねばならないだろう(移動によって生活している有機体では予想されることだが)。それ故、我々は特殊な歴史的文脈に先だってある有機体としての特質が存在することを認めるべきである。そして、歴史的文脈とは、こうした有機体としての特質が外的な形において具体化したものであると解釈することさえできる。我々は自由崇拝が、西洋思想でのように組織化された世界的運動に達する前に、人間の表現において短い時間ではあっても幾度もあらわれたことを認める。ガリレオのような反権威主義的な研究においてそれが決定的に明らかなものとなった。実り豊かであることが証明されたこうした方法は、類推的拡張によって他の思考と行動の領域に適用され、最終的には、同様の努力による成果が数多く重なることによって基本的状況全体が変わるに至った。


 こうした観点の外的な具体化が多岐にわたって行われるに従い、その文化的運動はもはや詩人、哲学者、発明家の心に束の間捉えられるものには限定されなくなった。それは堅固な感じることのできる事物としてあらわれ――それ故、それほど思索的ではない人々もその意味合いを感じとり始め、その発展に積極的に参加できた。彼らはその洞察を「利益」にする方法を見いだした。かくして、科学は今日利益をもたらすものとなっているが、以前には宗教がそうであり、人々の「精神状態」でさえ鍬やトラクターのように個人的な目的に使用される道具なのである。この探求心が事業にも適用され、そのカテゴリーにおいて「自由な市場を得るための戦い」が明らかとなる。


 こうした自由主義複合体の全体で「利益をあげる」ことは(物質的な具体化と精神的な傾向の双方において)、事務所でのやりとりの多さがファイル・システムの必要を生みだすように、固有の要求を生みだすことになる。同時に、もともとは薄弱で束の間であったものを実体化するには、さらなる努力が必要とされる。結局、この相互に働きあう巨大な歴史的運動から生じる要求というのがあまりに厳しいものなので、新たな趨勢は必然的なものと見られる。この地点で、我々は新鮮な遠近法、あるいは解釈の図式の必要を感じる。我々は参照にする新たな基礎を必要としている。


 さて、ワトソンはまた、新生児が支えが失われるのを恐れていることも記している。そこで、もし世界があまりに多くの自由主義によって嘆かわしい状態にまでなり、支えの必要まですべて取りのぞかれることになると、順応の教説が再び生じることが予想される。それらは新鮮な考え方を「動機づけ」、人間が自由よりも維持に価値をおき、コペルニクスに同調して、足下から生えでてくる穀物を蹴り飛ばすような者たちの自由崇拝を促進したりはしない中世期に存在したのと近い新たな形での経済的構造をつくりだす。あるいはむしろ、ワトソンの子供は鉄の棒で乱暴に撃たれても泣くのであるから、古代中国の最も幸福な時代を動機づけていたと思われる「調和」の説へと向かっているのかもしれない。


 そうした可能性は仮説として、もっぱら、いかなる個別の歴史的基調も普遍的な因果的系列に潜む基礎として受け取る必要はないという我々の主張を示すためのものである。更に、弁証法的相互作用を問い直すことでシェリントンのような新しい研究の形が生じてくるのであり、彼は脳をほぼ「原動機付きの神経節」に過ぎないものとして示しているように思われる。別の言葉で言えば、思考と行動とは初めは完全に重なりあっている――シェリントンが例に挙げている生物は、ある時期は移動し、別の時期には他の生物に付着して、そうした動かない期間は脳がほとんど萎縮しているという。こうした観察は、人間の歴史的制度はすべて生物学的、あるいは非歴史的要因を外在化したものだと考えるいま論じている解釈の方法を正当化するように思われる。発明されたものは(思索上のものであれ、様々に応用されたものであれ)、我々の生物としての素質に基づいた主観的パターンを客観的に投影したものでしかないと示しているようである。


 確かに、こうした生物学的パターンの外在化は、固有の重要な要求をもつ副産物をもたらすだろう。そして、そうした副産物は、新たな段階に進み累積することで以前の段階では満足させていた生物学的必要を満たすことができないか、あるいは、他の生物学的必要についても満足させられないことになるので、最終的に、それらを扱うための新たな解釈の仕方が発明されねばならないことになる。しかし、解釈の新たなパターンもまた、生物学的、あるいは非歴史的要因から形づくられることになろう。歴史的な基調は、我々に総合化のための様々な材料を与えてくれるという意味で解釈の枠組みの「原因」であると言える――しかし、総合は、必然的に、非歴史的な要求、イデオロギー的対応物に投影された人間の身体の特質と関係することになる。


 生物学を参照にすることで、唯物論者と観念論者の論争は弁証法的に解消されると思われる。マルクス自身も、自分は単にヘーゲルを逆立ちさせたに過ぎないと言ったとき、この事実を暗黙のうちに認めていた。根本となる実体を物質であるか観念であるか決めることは、精神と身体とをハイフォンで結んで精神-身体として語るのであれば大した問題ではないだろう。このハイフォンの意味が我々の考えすべてにわたって徹底すれば、相互作用する循環のなかでストレイチーが置いた出発点は、議論の便宜としてのみ正当化されることになる。また、最近の物理学者の、宇宙のすべての活動を放射現象に還元する電子理論と生物学による隠喩と歩を同じくする電磁場の概念も、同じように以前から続く論争の土台を破壊している。電気とは物質であろうか精神であろうか。実際上の方法を変えることなくどちらを選択することもできる。


 こう見ると、唯物論、観念論、弁証法唯物論は、ハイフォンを用いた精神-身体によって枠組みされたある種の「弁証法的生物学主義」とも言うべきもので合流する。完全に組み合わされ切り離すことのできない二つの様態をもつスピノザ流の実体概念に向かうことになる。相互作用する原理のこうした言い換え(マルクス主義者の言葉では弁証法唯物論として知られている)は、科学そのものの言葉にある転換を考慮に入れることを意図している。しかし、唯物論、観念論、弁証法唯物論、「弁証法的生物学主義」はすべてある一つの顕著な点で似ている。四つの言語化体系はすべて、科学と一致して、精神的な幸福に本質的な構成要素として客観的物質的要因を操作する必要を強調している。一言で言えば、食物と住家は適切な生物学的働きをする前提条件なのは明らかであり、「弁証法的生物学主義」は、弁証法唯物論がそうであるように、食物と住家の最も基本的な形、その文化的な投影物が「よき生」にとって「必須」であることを強調することだろう。